“神様の愛の御前では希望のない魂などいない”

Date

2019年8月13日

永遠な愛の福音(5)

ダビデとヨナタンの友情と愛は、一番不可能な運命の中で咲いた花だった。主は絶えない愛、永遠に共に居られる愛になるために私たちを友達にして下さった。(ヨハネ15:13~14)主のこの愛は死も引き離せることができない、大水も消すことはできない。主はこの愛に教会を招待された。

永遠に共に居られる愛

神様の形で創造された人間は神様に似ている。何よりも愛の属性を一番似ているのだ。人は神様の愛を食べて生きる。愛されない人は不幸である。天下のすべてを持っていても愛されなければ生きていても死んでいるのと等しい。逆に死ぬほど愛する、死んでもいいほど愛する相手に会った人は一番幸せな人である。

愛する能力のない人は世の中にいない。‘愛しなさい’という神様の命令に従順できない人はいない。存在的に愛する能力をもって生まれたから愛のエナージを求める必要はない。問題はエナージの方向が変わったことにあるのだ。

アダムの呪いは心と志と命をかけて愛する神様を‘自己愛’に変えてしまった。‘自己愛’は本当に恐ろしい。滅びるに違いないのに自分に向かった愛は衰えないで、疲れないで、乾かないエナージを発散する。本当に恐ろしい呪いである。サタンに捕らわれて一生病んだエゴの欲に従って存在的に生まれながら神様の怒りを受けるべき者のやり方で‘私’が主人になって生きて来た人類は自らの努力や善行ではこの怖い呪いから抜けられないのだ。値無く施される神様の恵みだけが、みずから喜ばしいみ旨のままに注がれて下さった惠の愛だけが唯一な救いの道であるのだ。

恵の愛だけが唯一な救いの道

神様が私たちを愛されるなら、諦めないなら希望はある。“しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ 』と言った。血まみれのお前に向かって、 『生きよ 』と言ったのだ”救いを叫ぶほどの何の根拠も理由もなくて捨てられた子供みたいだった私たちに、娼婦ゴメルまでも最後まで抱えた運命的で怖いほどの愛でなかったら私たちにはなんの希望がないのだ。

すべての希望が無くなった時、取り返す機会が一分も残ってない最後の瞬間に十字架の右の強盗に残ったのは苦しい息音だけだった。その時にわずかな恵みに頼った彼がありっだけの力を絞って悲鳴のように叫んだ一言は‘私を思い出してください’だった。

‘私を思い出してください’

“ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを救う、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ”(イザヤ43:1)東西南北の何處に離れていても、滅びる理由が沢山あっても神様の愛はすべての過ちを覆われる。だから神様の愛の御前ではどんな魂も‘終わった’と言ってはならないのだ。(2017年5月)<続く>「福音祈祷新聞」
キムヨンイ宣教師
(巡回宣教師、LOGミッション代表)

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