永遠な愛の福音(2)
現代の教会の姿とよく似ている教会が新約聖書の真ん中に存在してた。それは、コリント教会である。私たちが見たら恥ずかしくて敢えてこの教会を‘聖なるキリストの体である教会’とは言えないようだが、主はこのコリント教会を愛されて、深い愛情を見せて下さった。
コリント教会には今の教会にあり得る数多い危機と問題があった。コリントは堕落した都市文明を持った港町であった。当時、‘コリントらしい’という言葉が‘淫蕩’と同じ意味で使われるほどコリントは性的な堕落と道徳的な腐敗の象徴だった。こんな都市に人間の理性では想像できない、理解出来ない、十字架の福音が伝わった。耐えられないほどの豊かな恵みが臨まれて、御霊の賜物と真理の知識に欠けるところがなかった。
“あなたがたがキリスト · イエスによって神の惠みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての 證しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス · キリストの現れを待ち望んでいます。”(コリント一1:4~7)
しかし、コリント教会の聖徒は肉体になれていた世の中の価値と、文化を脱ぎ捨てないままで教会の中で行った。そのために教会の中には色んな問題が起こり出し始めた。まず、分裂が起きた。派閥が生じた。また、異邦人の中でもなかった淫行の問題が発生した。しかし彼たちは恥ずかしいと思わなかった。
そして、教会の中での争いを世間の法廷にもっていった。それから、福音化されてないあらゆる不義なことが教会の隅々にあった。これだけではなく、結婚問題、偶像の捧げものに関する問題、聖餐式の問題、使徒権の問題、御霊の賜物に関する問題、復活の問題などなどについてもいろいろな異見があった。
問題はあり得る。知らなかったら習ってもらって矯正すればよいからだ。しかし、教会の中での色んな問題を通じて敵が狙ってるのがある。ずばり、‘愛’を奪うことだ。愛は教会の生命であって、目的であり、原動力である。ふさわしい理由と合理的な根拠をもって派閥を作ってお互いに攻撃して、非難して、判断したら‘愛’が損なわれる。
福音を受けた最初は、世間と自分はどうでもよくなって、救ってくださった主しか見えなくなる。私のような罪人が赦されて、主の御前で義とされたら世間も天地万物も新しく見えてくるのだ。敵たちが愛の中でキリストの体である教会を成り立たせる。教会の財政が増えて、礼拝堂を建てて、奉仕も増えて、組織が整える。このすべてが愛の実であるのだ。でも、すべてを得た後に愛を失ったら、事実、すべてがむだごとになるのだ。愛は神様の本質であるので、愛を失ったということはすべての事から神様が抜けられたというのであるのだ。
素晴らしい神学と華麗な美辞麗句を並んだ論理的な説教をしても愛がなかったら、その上、ボロボロで臭い泥貧しい生活が聖なる生活に変化させる能力がなかったら、いくら滑らかで華々しいコンサートのように感動があっても愛がなかったら、やかましいどらや、うるさいシンバルになるだけだ。愛は教会の生命である。だから、教会はどんな報酬を払っても決して失くしてはならない。何事も愛をもって行わなければならないのだ。(コリント一16:14)
現実と状況に充実したら一番肝心なのを逃してしまうことになる。何事も愛をもって行っているかどうか常に点検しなければならないのだ。どんな問題、状況でも教会が絶対騙されないで、逃してはいけないのがある。それが愛だ!(2017年5月)<続く>[福音祈祷新聞]
キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表)