お祈りでインドに仕えているチェ・チョルス宣教師
お祈りに対する負担感を抱いて、インドへ行った以来、現地の働き人たちと共にオートバイに乗って、インド全域を回りながら未伝道種族の村へ入って、イェスの映画上映の働きをする宣教師がいる。彼は‘何の能力も才能も、計画もないが、神様がまずおっしゃると単純に従うのが一番重要な事である’と告白した。インドでの初の7年間を過ごして、韓国へ帰って第2期のインドでの働きを準備しているチェ・チョルス宣教師に会った。
-オートバイに乗ってインド全域を回って祈っているんですか。
‘インドへ行って2年ほど過ぎた時、祈っている中でインド全体に福音を伝えないという希望を抱くようになりました。その気持ちでオートバイに乗って、いろんな地域と村を直接回りながら祈り始めました。’
-その話は少し後で聞くことにして、幼年時代の話しから分かち合ってくださったら人生を理解するのによいと思います。
‘コチュジャンで有名なジョンラ北道のスンチャン出身です。仏教が強い地域で、村の年寄りが米を背負って、寺に行く姿を頻繁に見ていました。教会に対しては知らなかったです。小学校5年の時、ソウルへ引っ越ししました。’
-ソウルで青少年期を過ごしましたか。
‘青少年期には違った人生を生きました。勉強がとても嫌いでした。そして私が柔道部で運動しました。それで荒い友たちと付き合って、お酒とタバコは基本で、あっちこっち遊びまくっていました。とくに喧嘩をたくさんしました。いま思うと、私が怖がり者だったからだと思います。強いふりをしたんですね。’
-もし福音を聞く機会はなかったですか。
‘私が通っていた高校がミッション学校でしたので、初の礼拝時間に牧師さんが来て、’心の中で犯す罪も罪である‘と言った御言葉が私の心にささりました。その以来他の授業の時間には寝っていましたが、おかしく礼拝時間には聖書の話を熱心に聞いた記憶があります。’
-教会を始めて行った時はいつですか。
‘結婚して二番目の子が生まれて100日暗いなった時、ある友たちが私を教会へ導いてくれて始めて教会に行くようになりました。その時聖歌隊に座っている友たちを見て、’清い‘という感じをうけました。しかし教会が私には似合わないと思いました。’
-なぜそんな考えをしましたか。
‘当時教会に通う人たちは清くみえて、近くに行けなかったです(笑)。それで教会は行きたかったですが、’私のような人が教会に行ってもいいのか‘と迷いました。なぜならば心の中に犯す罪も罪であると知っていた私としては、心の中に人を何回も殺した私と教会は合わないと言う結論になるしかなかったです。’
-結局教会に行くのを諦めましたか。
‘いいえ。引っ越しをしてお店を開いた場所が、教会の前でした。聖徒たちがずっと伝道をして、訪問してくれて自然に教会へ通うようになりましたが、家内は誠実に教会に通いました。そして私に、’教会をそのように通うといけない、そうすると地獄にいくよ‘と言ったりもしました(笑)。’
-しかし本当に主を迎えたきっかけがあったと思いますが。。
‘健康が悪くなり、職場を辞めるようになりました。そして横になっていましたが、それが恵みでした。ある日、イェス様がその十字架で2000年前に死んだ時、私も十字架で死んだ事実が信じられて、本当に大きな感激がありました。泣いてまた泣きました。寝て起きると枕が涙でぬれていました。救いの確信と感動がいつもありました。’
-救いの感激以後に危機はなかったですか。
‘献身と忠誠と告白して、罪を犯さないように熱心に努めたような気がします。しかし6カ月程度が過ぎると再び怒って、他人を判断し始めました。当時職場が安定的でなかったので、食べていく事に対しての心配が寄せ押しました。祈祷会とか礼拝には感動を受けながらも、それが終わると考えの中でわき出る罪悪は本当に苦痛でした。そんな現状がなぜ起きるのか分からなくて、もっと辛かったです。’
-その苦しみを超えるようになったきっかけが知りたいですね。
‘そんな辛い時間が1年ほど過ぎた時、ある集会に参加するようになりました。そこで朝早く起きて、詩編36編の’主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲までおよぶ。。‘を黙想して祈っている時、聖霊様が空気より充満して、その主を依頼することが信仰であり、ただ義人は信仰だけで生きることだという真理が分かってきて、私の魂の響きがありました。努力で出来ることではなく、存在が変わった事を信じる信仰でいきることが、福音を感謝できる人生であると気付きました。’
-そんな信仰の人生が宣教とつなぐまでどんな過程がありましたか。
‘聖霊の神様が私の人生を直接導きてくださると信じられました。また神様を見上げると、私の考えが死んでいくことを経験しました。もう一回いうと、命の聖霊の法が弱い私の人生を統治することですね。いろんな過程を通してだんだん宣教的人生へと導かれました。’
-具体的に神様がどのように導いてくださいましたか。
‘まずは実際の生活で食べて行く問題を超越する信仰を許してくださいました。お米がなくても怖くなかったです。家内に’あなた、私たち神様を一回信じて見ましょう‘と、このように信じることを決定すると本当に必要な物が満たされました。信じないようにしても、信じるしかない境遇になりました。お米を買うべきお金で祈祷情報本を買って、他の人たちに配りました。食べて生きることより、この世のことをもっと思いました。二番目はお祈りに対する心を沢山注いでくださいました。その時’私たちの唇はイェス・キリストの血がついた唇であり、私たちのお祈りは空中権勢の勢力を突き通って、天の先まで貫通できる’と気付きました。それで必要より、この世のために続けて祈る時間を持ちました。‘
-インドの宣教師になった直接的なきっかけがありますか。
‘神様をちゃんと会ってから’宣教‘は私にとても当然なことになりました。2003年にインドにアウトリーチに行ってきましたが、その地への気持ちが切実でした。それで’神様、私をここに送ってください‘と祈りました。その後、2年ぶりに主が’インドでお祈りをもって仕えろ‘という心をくださって、インドへ行くようになり、そしてもう7年になります。’
-その間インドでどんな時間を過ごしたか紹介してください。
‘まずはウェストベンガルでインドとこの世を思い、40日間断食祈祷をしながら、神様の苦しむみ心を経験しました。断食後に’導くところに無条件に従います‘と祈りましたが、ある宣教師さんから連絡があって、その方がいるビハルの州都であるパトナの孤児院に住みました。そこで聖書読みとお祈りをして、5,6カ月になった時にある現地人青年が聖書読みとお祈りに参加し始めました。そしてその青年が変わり、周辺の友たちを連れてきて’宣教センター‘が二か所できました。そして周辺の村へ入り、伝道をして教会が開拓されて、村で礼拝をささげるようになりました。後で偶然に知った事実ですが、その青年は始めは大学に行くお金をもらうために私たちに接近したそうです。’
-いまはどんな働きをしていますか。
‘パトナで2年ほど働いてから、ウタルプラデシ州のバラナシへ行くことになりました。その時からオートバイに乗って回りながら、祈り始めました。その中、ある宣教師さんを通して発電機とプリジェクトが与えられて、その時から現地人の村を回りながら、イェスの映画の働きをしました。’
-イェスの映画の働きに対してもっと教えてください。
‘現地人の働き人と共に未伝道種族の村へ行って、聖書とイェス様に対する話がある映画を見せて、福音を伝える働きです。始めはどこを行けばいいのか、どのようにすべきなのか全然分かりませんでした。神様が現地人と共に働くようになってから、可能になりました。田舎の村に入ると、普通700人程度がイェスの映画を見にきます。しかし結局この働きもお祈りにかかっていると感じます。’
-装置を持ってインド全域をオートバイで回るのは大変だと思いますが。。
‘大変な部分が逆に恵みだと思います。事実熱い日に500キロメータほど離れた所へ移動する時にはオートバイ運転が辛いです。しかしその時に神様が雨を降らせてくださって、私が行く道だけ冷たい雨を降らせてくださることを何回も経験したし、離れた所で食べる物と寝る場所がない時にもいろんな方法で与えられたりもしました。その中で、私の二男を乗せてオートバイで行ったときに、事故にあったとき、’もう死ぬのか‘と思いましたが、主が守ってくださって無事だった経験もあります。全てが恵みです。’
-福音が伝えられる現場での喜びが大きいと思いますが。。
‘はい。ある時は未伝道種族地域に入って御言葉を読んで祈っていましたが、ある現地人の兄弟がイェス様の十字架の福音を悟って、喜んで出て行って福音を伝える事がありました。そんな姿を見る時、本当にうれしいです。そして私が発電機とプロジェクトを買ってあげた現地人の兄弟はいまいろんなところを回りながら、イェスの映画を見せていて、福音を伝えています。’
-今度はどんな計画をもってインドへ帰りますか。
‘今度インドへ帰ると教会開拓のために本格的に伝道をしようとします。特別に未伝道種族とムスリムたちのためにもっと本格的に福音伝道の働きをしようと思っています。特にムスリムたちのための思いがあります。この全ては神様がなさることです。私は福音を伝える義務があります。お祈りは基本です。働きはしなくてもお祈りはしないといけないです。’[GNPNEWS]
J.S