ママと呼ばれるたびに私の心臓は高鳴る。

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<ママと呼んでいいですか>

この本を大事に思ったのは著者であるケイティの内面にいるイエス様に対しての無限の信頼と愛のせいだった。彼女は光であるイエス様一人だけでこの暗いウガンダ全体が明るくなると信じた。

イエス様の光に自分の火花を加えたいと思う信仰は小さな従順を生んで、神様はその従順を通して自分の栄光を一番暗くて希望のない地に現した。

ケイティはイエス様を愛してから神様の大きな愛が自分を新しい人生へと導いたと告白した。神様からいただいた愛を実践したくて、学校の休みを利用して親に頼んでウガンダの孤児院で3週間奉仕したのが人生を変えるきっかけになった。

アメリカの中流家庭のきれいで賢かった彼女は、イエス様に向けての愛によって自分のすべてを捨てた。そして乙女の体で14人のウガンダの娘たちを得た。彼女はそこで一番幸せなママになった。

彼女はこのように告白した。‘神様が私をウガンダに送った目的があると気付かせてくださった。それは愛することであった。この世でこれより偉大なことはなかった。愛は言語の壁を超えるのであった。子供たちは私が自分たちを愛しているのを知っていて、私もその子供たちの愛を感じている’

私は青少年たちに仕えていて子供たちの罪ある姿のせいで苦しくなったり、落胆するときもあった。福音を聞いても変わらない子供たちに出会ったときに、ケイティの愛と限りない執り成しが私には主のメッセージのように感じられた。14人の子供たちを一人一人の特性と各自子供の姿そのままを愛しているのは、イエス様の御心である。

ケイティのお家には笑う声と賛美と喜びがいっぱいあった。そうだから彼女が大変なことがなかったという意味ではない。時にはご両親とお友達を恋しく思ったり、楽なアメリカでの生活を思い出しては泣いたりもしていた。険しい環境での生活に疲れた体で一日ずっと子供たちの世話をするのは決して楽ではなかった。

しかし彼女はずっと生きていらっしゃる主の愛を覚えた。神様がなさる働きを自分で全部行おうとはしなかった。ただゆだねられた一人の命に愛をもって仕えた。それで十分だとわかっていた。大変な時にも不可能な時にも主の大きな愛によって慰められて満足した。福音の光が暗闇を貫いた。

ケイティの生き方に感動を受けた理由はウガンダの多くの子供たちに仕えて大変な状況の中でも多くの働きをよく成し遂げたからでなかった。勇気もなく、特別な存在でもない彼女が数多くの葛藤と選択の場においてキリストに従順する信仰のせいだった。誰でも善い行いはできる。

しかしケイティの信仰は人間の善い行いではなく、神様を信じて従順するしかないと思うところであった。彼女は両親との約束を破ってまた付き合っていた恋人とも別れて辛かったが、結局彼女は主の御心に従うことを選んだ。

ウガンダの人たちを愛するためにキリストの胸に飛び込んだ。自分の人生に向けての主の御心に従うために何でも捨てられる信仰。いつか神様と永遠に生きられるという約束を信じる信仰、自分の人生をすべてささげたために払う代価を喜んで受け入れる信仰が彼女にはあった。彼女は人生を通して神様の深い愛を悟る祝福をいただいた。

最後にケイティの告白を紹介する。‘私の娘たちはよいことが起来てもママと呼び叫び、悲しいことは起きても泣きながらママを探している。そしてその声を聞くたびに私の心臓が高鳴る。私たちが神様の名を呼ぶとき、天のお父さんの心情もこうであろう。[GNPNEWS]

ウ・ミヨン宣教師

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