私の魂が十字架に引き付けられるようにしてください。

Date

2016年6月4日

イエス・キリストの十字架は私が死んだ十字架になった。永遠に死ぬべきの罪から救われた感激の福音に出会ってからは以前のように生きられない。福音に適した人生を歩むための信仰の走りが始まったのである。期待と興奮で歩み始めた瞬間変わらない状況にどのように信仰をもって生きればいいのかと迷っていた。ついに最善を尽くして生きてみるが、以前の姿へ戻って冷たく冷えている自分に気づいた。

オスワルド・チャンバスは‘主を見本にして’から信仰の失敗と混沌を指摘して、すべてのキリススチャンたちが福音によって生きられることを証している。

彼は‘贖い’を根拠に考えるようにと要請している。贖いを根拠にする人、罪、聖霊などの概念がかならず私たちの人生で実在にならないといけないと挑戦している。

信仰は人生全体に実在になるべし

信仰は決して思いの中に留まることではない。ある特定の領域だけで適用されることでもない。全人格的に人生全体に適用しないといけない。試験を通過した、生きている信仰にならないといけない。私たちは目の前にある現実に対して判断が早い。その前でみ言葉は無用なものとして見える。そうなのでみ言葉に従って冒険しないのである。

信仰をもって生きる人生はこの世から見ると愚かそうに見える。信仰の生き方は、清くないこの世とは反対側に位置している。人生のすべての領域が聖潔である。聖潔はキリストを得るためにすべての代価を払ってキリストの苦難に参加することを意味する。

また著者はエレミヤの哀歌を通してお祈りの実在を説明している。エレミヤは同族の堕落、滅亡、荒廃と分散などに対して自分の運命をそこに一致させた。彼は謙遜な姿勢ですべての弁明と合理化をやめた。同族の罪を自分の罪として一致して悔い改めた。悲痛な心情の涙で目が病むほどに祈った。お祈りは自分だけではなく、この世を抱くまでにいたる。

愛はイエス・キリストから発見される。イエスは神様の御子でありながら、この地にきてくださって人たちを愛してくださった。その命を受けた生徒に愛するようにと命令した。これは聖霊だけで可能である。しかし人間の本姓は握ろうとする。しかし愛は与えることである。イエス・キリストが自分の命を十字架にかけられて、私たちに新しい命を与えてくださって愛するようにしてくださった。与えることがどんなに情熱的な愛なのかを聖徒は人生で体験するようになる。

信仰だけで清さをなしとける

著者は清さをこのように説明している。子供が親に似ていくように、聖霊と共にいる聖徒は清さを受け継ぐことができる。この言葉に私は衝撃をうけた。今まで私は人間の力と宗教的な行為によって清さを成し遂げようとどんなに努力してきたのか。このような試みが表では誠実に見えても神様が認める清さとは関係ないことであると気づいた。

神様の清さは、ごみの山の上に白い雪を覆わせる水準ではない。汚い存在そのものが完全に死んで新しくて清い存在になることである。それなので私が最善を尽くして神様の清さに到達することではなく、神様の清さが私のものになることである。信仰だけが子の清さを成し遂げるのである。

福音が実在になる人生。それは私がどんなに大きな罪人であるのかを認識して‘贖い’の事件が私にどんな意味なのかを毎瞬間気づきながら、実際に信仰によって従うとき成し遂げられるのである。その贖いの人生は絶対放棄、以前の命に対しての否認を要求する。人生のすべての領域でキリストの福音が実在になって、その栄光を見るものとして立つことを決めた。主よ!私の魂が十字架によるものにさせてください。

[GNPNEWS]

ハン・ボヒョン宣教師

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