ベトナムの共産主義者たちの攻撃、68年‘旧正月攻勢’前後

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▶1968年旧正月攻勢時、うちあげた信号弾がダナン港を明かした姿(出所:HISTORYNETCapture)と北ベトナム軍の攻撃地域地図(出所:北キュビュ‘ジラク’capture)

この連載は戦争が発する直前、ベトナムに入国したチャリ、エグロン宣教師夫婦が戦争の惨事の中で福音の通路になった過程とベトナム住民たちの状況を載せている。ドラマのようなベトナムの現代宣教史を彼らの回顧録‘ベトナムに愛をのせて’(To vietnam with Love)を要約、紹介する。〈編集者〉

ベトナムの戦争を記憶している人たちに1968年の旧正月は忘れられない日である。特にその当時にベトナムで働いていた宣教師たちにはもっともである。その年の1月29日は共産主義者たちが奇襲攻撃を開始した日であった。

旧正月の前日ジャライ人たちが私たちの家に来た。お家にあるコーヒの葉を採ってもいいのかと聞いた。彼らは祭りがあるたびに通常大きくてつやがあるコーヒ葉を皿として使っていた。彼らはそれを採ってもいいのかと聞いたのであった。

その文化を知っていたが、私たちの家よりもっと大きくてよい林の葉をおいてどうして私たちのお家で採らないといけないのかわからなかった。彼らは言った。‘林の葉がもっと大きいけど、このころは林にいけません。数千人の敵でいっぱいです。’コーヒ葉を採って帰りながら彼らは妙なことを言った。‘行けるときに離れていかないといけないですよ。’

その日の夕方、アメリカの軍人たちが訪問した。彼らは平凡な語調で‘早くここを抜けて出て行かないといけないです。’と言った。彼らは何日前にベトコン捕虜をつかまって審問したが、捕虜が堂々と‘あなたたちは私たちを勝てられない。私たちは今日の晩でもあなたたちを撃退できる。’といったのであった。

次の日の朝3時ころ共産軍たちの反撃音に妻と私は同時に起きた。‘旧正月攻勢’と言われるベトコンの攻撃が始まった。庭に出てみると近くにあった弾薬貯蔵庫が爆発して火が上がって空は赤く変わっていた。

すぐアメリカとベトナム軍の反撃が始まって、両方間の戦闘は激しかった。普段は民間人の被害を避けようとして市内の外部に砲弾を撃っていたが、その時は共産軍が反撃砲に向けてすべての砲をむけた。それはプレイク市内を間において爆撃をしていた。

‘行けるときに離れてください’現地人が緊迫状況を知らせてくれた

そんなことが起きてから私のご家族は奇跡的に飛行機に乗れた。飛行機の裏側にはよい休みの場があって、ニャチャンの海に遊びに行くフランス人たちと会話をする良い時間を過ごせた。やっと平安が訪れた。私たちが乗った飛行機はすぐニャチャンに到着した。

その日の夜近くの村から連続的に爆薬が爆発し始めた。ニャチャンでさえこんなことが起こるとは思っていなかった。私は妻に行った。妻の体は固まっていた。私は妻に恐れることはないと安心させて、自分も気持ちも落ち着かせた。私たちは共に祈った。窓の外からは市内へ向かう火花が見えた。私は仲間たちのために祈り始めた。ベトコンたちが安全な番所として思っていたニャチャンを攻撃しているならば、向こうはどうだろうか。

私は腰をまげて朝になるまで座って、市内中心で発射されている爆音を聞いた。国軍のラディオ放送とTV放送からニュースが流れてきた。昨日の夜の攻撃はベトナム全域で起きたことだった。しかし誰が勝ったのかははっきりしなかった。

その後も戦闘は続けてあって、私たちは座り込んで過ごしていた。なお仲間たちとその地域の聖徒たちのことで心配になった。その激動の真ん中で妻と四人の子供、私の命を救ってくださったことに感謝のお祈りをささげた。〈続く〉 [GNPNEWS]

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