ルカの福音書15章で放蕩の息子の比喩。正確に言うと失われた息子の比喩がでてくる。二男の息子がお父さんから自分の分の遺産を受け取って全部なくして帰って来た時、お父さんは喜んで彼を迎えた。
しかし彼のお兄さんはこんなお父さんの態度を嫌ってお父さんが勧めるにもかかわらず二男のために施した食事に参加しなかったお話である。これに対してのいろんな解析がある。
この比喩が与える教訓と核心は何であるのか。つまり罪悪の深さがどんなに深くても、再び帰って来ると神様はかならず受け入れてくださるという、本当に偉大で言葉では表せない感動的な真理がこの比喩には含まれてある。
罪人がとても悪くてどうしようもない場合もあり得る。しかし救われないほど悪い罪人はいない。二男は自分が受け取った遺産を自分勝手に使ってしまった。お父さんの家から持ってきたものを全部なくして自分も完全に裸の状態になってしまった。
この放蕩息子はこの地で人たちの足に膝をまずいて物乞いをするようにまでになった。彼は野原に送られてそこで豚の世話をした。ユダイ人にとって豚の世話をすることはとても恥ずかしくて悲惨なことであった。しかしその失われた息子は豚に餌をあげることだけではなく、彼自身が豚の餌をたべて延命するまでになった。
放蕩息子の酷い立場に対しての描写から、私たちはユダイ人たちに嫌がられたある税理士たちの実状の断面をみることができる。彼らは自分の民を捨ててその豚のように異邦人たちに仕えるだけではなく、実際に彼らからお腹を満たされていた。主は放蕩の悲惨な事情の酷さをこのように描写している。
主は罪人たちを慰めてくださるが、ただ黙認するのではない。主は彼らの本当の姿を知らなくて彼らを迎えるのではない。
<続く> [GNPNEWS]
ベンザミン・ワピルド①