‘サケの夢’(5)
家族を失った北朝鮮のある青少年が脱北して主に出会い、いまは北朝鮮の福音化を夢見ている。その内容の‘サケの夢’を要約、連載する。<編集者>
シンイジュの防衛部はそこに連れてこられた人たちのお金を探すために口の中をみたり、その上肛門までも調べた。
隣の部屋には私のように中国で聖書勉強していた子供たちが多かった。彼らは結局政治犯用刑務所へ行った。お互いに話せなかったが、心の中で祈った。調査が終わって11月にシンイジュの集結所へ移された。そこでシメント運び、土掘り、手袋もはめずに糞をすくい取って、時にはその下へもぐった。食事は何時間も煮込んだすこしのトウモロコシだけだった。
何回も痔が原因で血をながしていて、両手の爪が病気で全部抜けた。共に捕まえた人たちの中にはズボンをはいったまま下痢をする人もいた。一日何回も横になってウンチをすると、その人の服をぬがして氷を割ってそこで服を洗った。
数か月ぶりに担当警察が来てシンイジュへ連れてこられた。ダンチョンまで7日がかかった。警察の刑務所はご飯がなくて面会も待たないといけなかった。親がいない私は誰も来なかった。
孤独な時間、寒くて暗い部屋・・・ ある日意識を失っていて目を開けると、警察たちの部屋だった。電気ヒーターがあった。警察たちは犯罪者たちの弁当をすこしくれた。何日ぶりにおばさんが弁当を持ってきた。
お婆さんは私が助かる希望がないと聞いてなくなったと言われた。今まで17年間生きてきた事を記録する‘批判書’と罪の‘陳述書’を書いた。教会行ったね?という質問に何回しか行ってないと言ったのにも過酷な拷問をうけた。一カ月もたたないうちに死ぬと言われているダンチョン市の拘留場で私は一カ月を耐えた。
そしてヨンガン郡にある‘55号労働鍛錬隊’への移動が宣告された。そこは強制労働でしばらくして死なされる悪名高い所だった。すでに8カ月間刑務所生活をしていた私の体は大変弱まっていた。
結局そこで人生が終わるところだった。そこへいく汽車で警察はお母さんが中国で捕まえて移送されている途中死んだと言ってくれた。
神様を恨んだ。時間があると自殺衝動に追われた。今までのどんな苦難よりも辛かったのはお母さんの死だった。
虚弱2度、一カ月を耐えられるか。
2004年2月28日朝2時に到着した。またバスに乗って刑務所についた。いままで15か所の刑務所にいた。少しずつ違う規定を学んだ。6時起床、労働、学習後就寝、歌禁止、消音禁止など保安員の指示なしでは座ることも、休むこともできなかった。
毎日重労働をやらされた。畑にいくとバッタ、トンボ、カエル、蛇までも捕まえて生でたべた。ある人はネズミを捕まえた。その人はネズミの皮までも惜しくて毛をもぎ取って内臓だけ捨てて生でたべた。6カ月間苦痛と涙で夜を過ごした。死んだ方が楽な気がした。
しかし死の直前に置かれると一秒でももっと生きたかった。その時私に小さな食べ物を隠れて渡してくれた人たちがいまも忘れられない。‘神様、生かしてください。神様、助けてください’何回も祈った。寝言で言ってしまうと大変なので祈りを変えた。‘お父さん、助けてください’ 神様は私を捨てないでいつも共にいてくださった。
2005年2月13日。‘55号労働鍛錬隊’の刑務所から出た。奇跡だった。‘神様、感謝します!’二度生れた気分、新しい土を踏む気分だった。刑務所は神様の鍛錬場だった。自らどんなに汚れているのか気付いた。
私に残っている貪欲が死んで、多い欲張りと汚れを抜けないといけなかった。その空き地に神様の区別されたもので満たされないといけなかった。全てを失って神様だけを得た。(続く) [GNPNEWS]
ガン・テモテ