19世紀末、西欧諸国の親イスラム化、キリスト教の迫害が本格化

Date

2015年7月2日

100周年を迎えたアルメニアの大虐殺とキリスト教の迫害の歴史

 115_3_1 worldview19世紀末、西欧の親イスラム化とキリスト教の迫害が本格化したという分析が出て、目を引いている。
宗教問題専門サイトであるRLPBの代表エリザベス・ケンドルは、最近の‘アルメニアの大虐殺1世紀を記念しながら’ という寄稿文でこのように述べた。

トルコの前身であるオスマン帝国は、クリミア戦争で自国をサポートしてくれたイギリスとフランスの参戦の代価として、自国に居住するクリスチャンに適用された‘ディムニ’(各種権利がない2等市民)という身分制度を廃止する事を決めた。

これはクリスチャンの宗教的な自由と平等を保証するための措置だった。クリミア戦争 (1853-1856)は、ロシア対オスマン帝国とヨーロッパの連合国間の戦争で、百の天使ナイチンゲールの活動で知られている。

でも、ムスリムはディムニ制の廃止によって異教から保護金という名目で徴収する‘ジズヤ’(人頭税)が中断されて、これをジハード(戦争)、虐殺の信号弾として受け入れた。

これによって1860年にはシリアとレバノンで約2万人のクリスチャンが虐殺された。また、1876年には‘ブルガリアの恐怖 (ブルガリア人にしたのオスマン帝国の無慈悲な抑圧) ‘で25,000人の東方教会のクリスチャン達が虐殺された。1895-96年にはトルコのアルメニアでアルメニア人20万人が殺害された。

親イスラム政策を維持しようとしたイギリスは、東方教会のクリスチャンたちを中傷する宣伝キャンペーンを開くと同時に彼らを殺害することについて黙認した。虐殺は継続された。

1914年に始まった第一次世界大戦後の西欧諸国は、イスラムを現代化し、穏健にする方法として、クリスチャンたちの自己決定権を弱化させる政策を採用した。これによって親ムスリムヨーロッパ勢力は生き残っているクリスチャンの自己決定権を否定し始めた。

第一次世界大戦が発生した1915年頃、アルメニアとアッシリアのクリスチャン少数民族は大虐殺の状況に直面した。ムスリムはまだ終わっていない任務、つまり、キリスト教の根を抜くキャンペーンのために当時の乱雑、無秩序状態を不法に使用したのである。

トルコで発生したアルメニア大虐殺の時代的な背景は、このような状況から始まったのである。

19世紀末のシリア、レバノン、ブルガリアでクリスチャンが殺害され

今日は力のバランスのとれた世紀であり、西洋の一方的な主導権時代は終った。それはイスラム圏域である中東でも同様である。メソポタミアを中心としたムスリム中心政策が崩壊することによって、力の空白が発生した地域で戦いが起こっている。

また、トルコ、アラブ、またはペルシアでは、スンニ派とシーア派の中どんな宗派が支配するかのことで多様な形の競合が開かれているのが今の中東地域の姿である。

このような傾向は今のヨーロッパと中東地域につづいている。イラクに残っていたアッシリアクリスチャンの大虐殺は、既に進行されて来て、クリスチャンの数字は140万人からわずか20万人に減った。

西欧から大量虐殺をするイスラムに兵力と武器を支援するためで、シリアに残っているアルメニアとアッシリアクリスチャンの未来は重大な局面にさらされるようになった。

また、新オスマンイズム (過去、オスマン帝国に憧れながら強大国に発展する為のトルコの政治イデオロギー) とイスラムを支持するトルコ政府は、アルメニア人と宣教師たちがトルコの国家安保を脅すことと誹謗している。このような雰囲気の中でクリスチャンたちは、いつでも攻撃を受ける事ができる。

トルコ政府、アルメニア人・宣教師を脅威的な存在として認識

現在の西欧諸国は、1915年ように自分の ‘ 利益 ‘ のために親ムスリム政策を法規化した。イランとシリアの大統領 ‘ アサド ‘ に反対し、トルコとアラブとの同盟関係を維持した。また、スンニ派武装組織イスラムの国 (ISIS) に反対するイランと提携し、イラクのシーア派とシリアのスンニ派をサポートした。

続くクリスチャンたちの犠牲の中でも、西欧はそんな大虐殺を防ぐためのどんな事もしなかった。しかし、今は西欧は起こるべきである。イスラムをサポートするすべての人に反対するという明確な声を出すべきだと基督コラムリストエリザベス・ケンドルは言う。

ケンドルは“罪の償いがないところに、神の裁きのほかに別の応答を期待することができるか。西欧はキリストの貴重な子供たちを敵に渡した。西欧は神の怒りの杯に既に酔っていて、その結果はすぐにも明らかにされる”と言った。

今は私たちの罪を振り返って見て懺悔する時である。罪性で染み付いた繰り返しばかりの私達の恥ずかしい歴史に悲嘆な心霊の悔い改めを促す。しかし、危機はチャンスの時である。今こそ黒癌の力に勝った十字架の福音を握って、真の祈りを捧げなければならない時なのだ。

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アルメニア信者が浸礼をする姿。アルメニア人口の90%以上は文化的にクリスチャンである。<出処: Joseph Hovsepian Ministries>

“はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。。。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。(マタイ25:40,45)”

祈り|主の人々に対抗して、大虐殺に協力したすべての国に、自分自身を振り返り、深く悔い改める霊を注いでください。実際に殺害に加担したり、調停しなかった罪を悔い改めます。

今日、中東地域の中で国内から追放されたり、差し迫った危険に直面したすべてのクリスチャンのために祈ります。

特に、紛争と分裂で苦しんでいるシリアとイラクにいるアルメニア、アッシリアクリスチャンたちに、必要なすべてを供給して下さって、避難所になる神様に避けることができるように導いて下さい。

何よりも主の中で一つになった教会が、苦しんでいる人達の為に祈って、良きサマリア人のように苦しむ魂を助ける教会に頼もしく建たせてください。[GNPNEWS]


アルメニア大虐殺とは

1915年、アルメニア人150万人虐殺されて

100年前の1915年4月24日夜、トルコ青年党の政府はコンスタンティノープル (現イスタンブール) に200人の知識人と地域共同体の指導者らを逮捕した。そして彼らをトルコのアナトリアの中心部にある刑務所に連れて行った。

今日 ‘ 血の日曜日の ‘ として知られているアルメニアの大虐殺が開始された。この日の以来アルメニア人の逮捕と国外追放が暫くの間続いた。この時に2345名のアルメニアの指導者らが逮捕され、海外に強制移送された。

アルメニア人は、このように1915年から1923年まで、総人口200万人の内、約150万人が殺害された。また、トルコ人はアルメニア人を殺してもよいとの免責特権までの保証されて残酷に殺害して民族の絶滅政策を展開して行った。。

アルメニア人大虐殺は、オスマン帝国がそうであったように、少数民族清潔という理由で、トルコの中心部から広範囲にかけてほしいままにされた。この時に処刑された人々は、小アジア地域全体にわたって、少なくとも50万人のグリス人とメソポタミア地方でも75万人のアッシリアのクリスチャンだった。このような虐殺にはトルコ人を中心にしてクルド人とアラブ族の一部も加勢した。

1915年4月24日が大虐殺の開始として知られているが、実際の迫害が始まったのはこれよりもっと前からだった。19世紀前半にわたってオスマン帝国はヨーロッパで病人のような状態だった。このために長い間オスマン帝国に支配されていたキリスト教の民族は独立運動の機会として思った。

必然的にクリスチャンの反乱は残酷に妨げられ、クリスチャンは処刑や虐殺を受けて、囚人として強制移送された。この時に東方教会のクリスチャンの保護者として知られていたロシアは、迫害を受けるクリスチャンを弁護するための調整に出た。

それは1774年にキャサリン大王によって仲介されたクチュク-カイナルジ条約(1768-1774年のロシア・オスマン帝国の戦争がトルコの敗北で終わり、ドナウ川の下流のクチュク-カイナルジで両国間で締結された条約)に基づくロシアの権利だった。

1853年、ロシア軍隊は、オスマン帝国などに数回にかけて警告した後、深刻な迫害からクリスチャンを保護するためにドナウ地域を通過した。

しかし、ヨーロッパはこの事件を帝国主義者の領土拡張のための口実としてしまった。戦力が偏ったトルコは、イギリスに助けを求めた。このクリーム戦争がヨーロッパの支持を受けたオスマン帝国の勝利で終わって、ロシアを支持していたアルメニア人たちが残酷な死に直面しなければならなかった。[GNPNEWS]

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