“落ちそうになった瞬間、み言葉が心から叫ばれた”

Date

2013年12月16日

約束の御言葉ヨシュア記17章18節を頂いた後‘突破と開拓’が始まった。デボラという新しい英語の名前をもらってから24時間も経たない内に269番に変わった。

初日の朝にPT(フィットネス)体操とオリエンテーション時間が正直なところ私には大変だった。早い者勝ちランニングをする度に、私はいつも後ろから息を切らした。

私も自分の体力レベルがどれぐらいなのか正確には分からない。これまでまともに運動をしたことがないからだ。

始まった時から直ちに列から外れた。息を吐くことができず、手に負えなくて涙をはらはらと落とした。諦めたかった。その時先生から“269番できますか?”と聞かれた時、わたしは出来ると答えた。

自分としてはとても出来そうになかった。もう一度列から外れた時、PTをしながら心から再び質問が思い浮かんだ。デボラはどのような人だったのか?結論は主が仰せられた。

デボラは主だけ頼った。始めて決断した。“これからもっと大変でも最後まで貫く。這って行くか歩いていくか手段はどうであれ、主だけ頼りながら最後まで行く。”

午後の時間にはチーム単位でコースを回り始めた。自分の体力はあまりにも弱くて長く歩くことができなくなり、何度も休んでしまったが、このことで心は辛くなった。自分のせいでチームが遅れてしまう…。何とかして早く行こうとする度に自分の足は思う通りにならなかった。

また涙が出た。心から大きく叫んだ。“神様心がとても痛いです。私の力では出来ません。”

やっと上まで行ってしばらく休んでいる時、主のみ声が聞こえた。“君は私なしでは小指ひとつも持つことができない。”信仰を見せる時間だ。涙が自分には隙になっていることに気づいた。

自己憐憫しながら、‘私は元々弱い、元々出来ない奴だ。’こんな思いに捕らえられた。しかし、‘主がなさる。主は最後まで私と共にいてくださる。’このような告白が出るようにしてくださった。

次の日、いよいよ本当の‘突破と開拓’を経験した時間だった。しかし、朝起きると身体中が痛い。それでも朝黙想した御言葉に従順しながら進んだ。コリントの信徒への手紙二1:9、20節と忘れられない24節の最後の所、“あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。”

この御言葉をくださった神様が私を起き上がらせた。

最後のコースは山を超えて再び学校へ戻るコースだった。ゲッセマネでイエス様の姿とその心を経験する時間だった。山道を登る時、上り坂だった。

一人通れるほどの狭いところで、気を取られるとそこから転んで落ちてしまいそうなやや危ない道だった。

その時、私は再び限界にぶつかって木を掴んで休んでいる際に、耳もとから声が聞こえた。‘隣の崖に落ちて。落ちたら人々は君を救って君は家に帰れる。’このような声が聞こえたが、さらに怖いことは自分が自分の考えをコントロールすることが出来ず‘そうなのか?’と言いながら少しずつ隣の道へと足を運んだ。

それから落ちそうになった瞬間、コリントの信徒への手紙二1:24の御言葉が心から叫ばれた。‘君は既に信仰に基づいてしっかり立っている’気をしっかりしないといけないこと、既に信仰の上に立っていることを思い返しながら、頑張って15m程登っていくと頂上だった。

‘突破と開拓’。自分の限界を乗り越えていくこと。それからイエス様はすべての選択権をあきらめて神様の御言葉の従順しながら十字架を背負ったことを再び黙想した。

主と共にサタンの誘惑を乗り越える時間だった。

‘突破と開拓’。自分の限界だけを乗り越える時間ではない、自分という存在事態を乗り越えて神様に従順する、自己否定の時間だった。

山から降りる時、ウンチェお姉さんが怪我した。私たちは先に降りてきたが、私は引き続き心が辛かった。分からなかった。到着したが、心に喜びより厳しかった?ある一人が私と共に降りなかったからだ。その時やっと一体の本当の意味を知った。

君が喜ぶと私も喜び、君が悲しむと私も悲しんで、心がひとつになること。それがひとつの体になることだ。

‘突破と開拓’をしながら、涙もたくさん流して、心も大変辛かった。しかし、私はその苦しみのなかでもいつも主の心で満たされた。嬉しい時間だった。再びしなさいと言われても、私の肉体は辛かったが、喜びでアーメンと言えるでしょう。

主が共にしてくださるからだ。主が‘突破と開拓’を私の心に成し遂げてくださった。私は何もしなかった。主がなさった![GNPNEWS]

キム・イエリム(15歳。ヘブロンゲンケイ学校)

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