信仰は聞くことから生まれます。その聞かれた言葉、信仰の先人たちが残した言葉や告白を要約し、紹介します。<編集者>
放蕩息子の例えを通じて、主は罪人の状態を非常に具体的に描写しています。自分の誤った選択で危機に陥った放蕩息子はもちろん、彼を豚の餌箱で腹を満たさせる同族の無情さも余すところなく明らかにしています。
これらの態度について、主は言葉では表せないほど悪いと指摘しています。しかし、主はここで終わらないのです。そのように悪い者でも救われることができると言います。それだけでなく、主はまさに彼らを救うためにここにいると言ったのです。
罪人は失われた者です。彼らは主にとって失われた者たちです。放蕩息子の例えは、まさに「失われた」息子についての話です。イエスはまさに失われた者たちの救い主であることを忘れないでください。そのような主にとって、あまりにも遠い昔に失われて、あまりにもかすかに忘れ去られ、主がまったく見つけることができず、救われることができないような人はいません。
だからといって、イエスが罪人たちを喜ばれるわけではありません。彼は罪を愛することもなく、罪人たちをそのまま愛することもありません。主が喜ばれるのは、罪人たちをその罪から救い出すことです。そして、罪が深ければ深いほど、救い出すことも大きくなり、その分喜びも大きくなります。
「わたしはあなたがたに言います。同じように、罪人一人が悔い改めるなら、神の使いたちの前に喜びがあるのです(ルカの福音書15:10)」
放蕩息子の例えの真の意味は、まさにこの偉大な宣言で要約することができます。この例えを主が私たちに語ったのは、天におられる神が悔い改める罪人一人一人の悔い改めをそれほどまでに喜ばれるという事実です。この例えに登場する弟を許さない兄は、当時のパリサイ人と律法学者、そして取税人を象徴しています。そして、この話の焦点は、息子が戻ってきたとき、父に喜びがあったということです。【福音祈祷新聞】
ベンジャミン・ウォーフィールド②
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