福音の回復のための関門、バルカン半島

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▶コソボ地域でムスリムによって、徹底に破壊された教会の残骸の上に、正教会の牧師で思われる人がたっていた。

神様の情熱で神様の存在と栄光を現すところ

前回はバルカン半島が、‘ヨロッパの火薬庫’と呼ばれた歴史的背景と、今日にいたるまでの過程を見た。今回はこの地の回復のために祈る多くの聖徒たちのために、この地に仕えている筆者が祈っていただいた主のみ心を整理した。<編集者>

バルカン半島は初代教会時代、福音が世へと広がるための中心地だった。その内容は使徒の働き16章6-10節で探せる。

イェルサレムから始まった福音がアンデオクへ進出して、使徒バウルという異邦人のために準備された器を通して、マケドニアへ向かった。それから福音は西側に向かって、バルカン半島―ローマーソバナ(スペイン)、ヨロッパ大陸からアメリカ大陸へと渡った。

そして再び太平洋を渡って韓国へ到達した。ガナアンの地で始まった福音が、その当時ローマ帝国へ伝播するよう、聖霊様はバルカン半島を渡って行くようにした。神様の国の拡張で、バルカン半島はこのように重要な拠点地だった。

当時イェルサレムとローマをつなぐ重要な軸としてバルカン半島のマケドニア教会が立てられた。マケドニア教会は段々成長して、使徒バウルのイェルサレムの施しとローマ行を、祈りと物質で協力した。

このようなマケドニア教会と呼ばれているバルカン半島の教会に対してのバウルの気持ちは深かった。

“私が、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、私が獄に捕らわれている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、私の心に深く留めているからである。私がキリスト・イェスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明してくださるかたは神である。” (ピリピ人への手紙1:7~8)

バウルの伝道旅行を協力したマケドニア教会

はじめて聖霊様が見せてくださった幻にしたがったバウルは、彼らを自分の命よりもっと大事な存在として、バルカン半島の教会を考えていることがわかる。

“私がキリスト・イェスの夏愛をもって……”(ピリピ人への手紙1:8). このみ言葉を黙想すると、ただのバウルの個人的な告白ではないことが分かる。

イェス・キリストの心臓がこの地のために動いていたんだ。イェス様もこの地域をそんなにも愛していたことであろう。それでマケドニアの幻の見せてくださるくらい、使徒バウルを送ってくださって、福音の西進運動の始発点として使っていたのである。’ こんなことに気付く。しかしその間世界のどこより、深い苦痛と痛みの歴史が長い間刻んでいて、今もそうである。人類の残酷な1,2次世界大戦の傷と痛みが、この地から起きた。

まだ世の人たちは、ここをヨロッパの火薬庫という別名をつけて、人類の痛みと傷の元地として覚えている。

しかしここに神様の謀略がある。ここが変わるとどのようになるだろうか。ここが本当の平和が回復されれば、この地を見ていた人類は何を見ることになるだろうか。つまり神様の存在と栄光である。

憎悪と死の火種を命の火へ

そして人類の傷に対しての神様の熱情が表現されるところであり、人類の傷を治して回復することがなさるのである。全人類を死の戦争の真ん中に寄せていた所が、いまは全人類の平和のメッセイジへと変わるのである。

世界の火薬庫と呼ばれているここに、サタンが憎悪と死の火種を投げたなら、いまは聖霊様がその悪の火を沈めて、聖霊様の復興の火として変えるだろう。

ここで始まる復興の火種は、ヨロッパへ行って、また中東へ、アフリカへ、結局イェルサレムまでいたるだろう。これをバルカン半島の重要性として思う理由である。ソンことが、神様は筆者の心を感動させて、ここへと呼んだのに違わない。

“彼らはバカの谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨は池をもってそこをおおいます。彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。” (詩編 84:6~7).

“貴方がたのうちによいわざを始められた方が、キリスト・イェスの日までにそれを完成してくださるに違いないと、確信している。” (ピリピ人への手紙 1:6)

このみ言葉は筆者に慰めのメッセイジであり、この地になさる神様の約束である。私にいだいてくださったこのことをなさる時はあるとおっしゃって、この地で使徒バウルから始まったことが、イェス・キリストが再び来られる時に完成することを言っている。

しかしこの地の復興を見るのは、とても大きなお祈りである。それで漠然であって、見えない。何で私たちは復興を準備するのか。それで私たちの努力で復興が臨むのでもない。そうすると私たちは復興をどのように待つべきなのか。恵みを求める者の姿勢として立つこと。そのように祈ることである。

私たちの祈りのために復興が来るのでもない。しかし私たちが祈らない状態で、神様は復興を起こさない。お祈りは私たちの最善の従順であり、献身である。しかしその実と結果は神様のみ手にある。

旧ユゴ連邦はまだ韓国の人たちには、宣教の開拓地である。バルカン半島中でも韓国宣教師たちが少ない。しかし神様の国と国際関係でも変わらず重要な地である。

過去もそうだったし、今日もそうである。今までは分裂と戦争で満たされていたところである。ある方たちは呪われた所だと思われるほどである。しかしここの原型は、神様がイスラエルで始まった福音を他の大陸へ移す関門であった。

これを再び回復するために霊的戦争をしないといけない。このことにはっきり韓国教会が参加するべきだと信じる。韓国教会にゆるされたお祈りの恵みは、世界用であり、お祈りが必要なところにつかわれないといけないからである。

韓国がここを抱いて、祈る方たちがいることを望み、直接ここで地域を回りながら祈る戦士たちが起こるよう、切に願う。[GNPNEWS]
マケドニア=ハン・ザソン宣教師

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