ソン·ジュンギ牧師は「教会と宣教は一つ」という主張を理論だけでなく、宣教的教会開拓実行の従順を通じて確認している。これまでそのような考えと純宗の旅程を著書『最後まで行け』など10冊の本に盛り込んだ。 このコラムは彼の著書抜粋と執筆を通じて宣教的教会の多様な姿を紹介する。 <編集者>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです.あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(コリントの信徒への手紙一12:26,27)
部分の痛みは全体のうめき声
キリストが教会である(ヨハネ2:21)。聖徒たちはキリストを頭にする(エペソ4:15)一つの体を成している(コリントの信徒への手紙一12:12)。 教会はキリストの身である。
体は一つの有機体なので、10本の指の中で噛んで痛くない指がない。子供を自分の体の一部として扱う親の心情も同じだ。神は私たちの父である(ローマの信徒への手紙8:15)。私たちはその方の子供たちだ(ヨハネ1:12)。主は私たちを愛し、自分の体で接する。部分の痛みは頭の痛みであり、全体のうめき声になる。私たちは一体だ。 神の身だ。
有機体の特性上、部分の汚染は皆を脅かす(コリントの信徒への手紙一12:26)。その代表的な例がアガンの犯罪だ。一人の不従順がヨ·ホスアの軍隊を死に追い込んだ(水7:5)。それだけではない。アダム以後、あるリーダーの犯罪は皆の贖罪を要求し(レビ4:3)、新約教会が始まるやいなや起きたアナニアとシャベルビラの嘘は教会全体の純粋性に対する脅威になった(使徒5:1-11)。
同じストーリーは今日も繰り返される。「私一人くらいは」と思って隠れた罪悪に一貫する態度は私たち皆の罪悪になり全体の敗北を呼び起こす。
我々は戦闘を行っている。地の果てまで至ってイエス様の弟子を立てていき、弟子化、会中心の教会を持続的に開拓している。この召命は個別に隠された罪を悔い改めで除去し、一緒にイエスに従う時に遂行可能だ。
教会は苦難を受ける
イエスに従うことは大きな代価を要求する。主は弟子を自任する人々に真実を話した。イエスに従うという青年にキツネや空中の鳥より劣る人生を予告し(ルカ9:57、58)、父親の葬儀よりさらに大きな優先順位を要求し(ヌック9:59、60)、さらには家族よりイエスに従うことをもっと重要に思うようにとまで言った(ルカ9:61、62)。これはついてくるなという言葉に他ならなかった。
それにもかかわらず、ついてきた弟子たちがいた。彼らは「すぐに網を捨てて」ついて行った(マルコ1:18)。しかしイエスはそのような信実な者たちにさえ莫大な代価を要求した。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。(マタイ10:38)
愛する主が教会のために残しておいた苦難がある(コロサイ1:24)。一緒に勝利するためには、その苦難に参加しなければならない。
教会をするということは主を愛する過程であり、主に従う過程だ。教会はキリストの苦難の上に立ち、その苦難はキリストに従う人々の中でまた進行される。
教会は弟子たちの集まりだ。弟子たちは弟子化をする。弟子化の進行は手間がかかることだ。キリストの弟子を産んで育てることは犠牲を要求する。
キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。(コリントの信徒への手紙一4:15)
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8:34)
教会をするということはキリストの苦難の価値がその方に従う弟子たちの中に体得される過程だ。そこには正規カリキュラムによる教室授業のようなものがない。むしろ子供が母親を愛するように、恋人がお互いを懐かしむように、誰かが教えてくれなくても体得される自然な愛の過程がある。
物一つを買っても支払った価格だけの価値を得るのにまして、まして教会をするということは神様が支払った一人息子の代価、その価値を呼び値するのではないか? 教会にはキリストが体で支払った高価な苦難の実が含まれている。その実が熟したら落ちて腐って新芽を生かせなければならない(ヨハネ12:24)。
イエス様の体を引き裂いた芽が教会の実になった(ローマ3:25、26)。イエスが体で代価を払って教会を買った(使徒言行20:28)。十字架愛で開いた教会だ(ヨハネ14:24、ローマ5:8)。
教会が進められるということは、その犠牲の価値を盛り込む人がいるという意味だ。弟子化の進行は神様の愛の価値を盛り込む人がいるという意味だ。十字架にかかった人、宝血に染まった人、犠牲の価値を示す人が教会になる。
教会の成功
イエスに従ってこそ弟子であり、弟子でなければ弟子化の進行が可能であり、弟子化を進めてこそ教会が誕生する。つまり、イエス様に従ってこそ教会が誕生する。一般的な成功の意味で見れば、教会は成功とは程遠い。弟子化使役を通じた教会開拓者たちに聖書はこのように語る。
今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。(コリントの信徒への手紙一4:11-13)
辞書的意味での成功は「目的を果たす」という意味である。一般的には富と名誉の取得がその目的だ。甚だしくは教会の成功においても同じ考えをする場合が多い。
しかし、教会はイエス様のものなので、その方の方法で進行されなければならないだけでなく、その方の目的がなされなければならない。 つまり、一般的な成功ではなく、イエス様の目的を果たす成功でなければならない。
教会をすれば、私利私欲の代わりに十字架を負って死ぬまでイエスを追わなければならない。利益をもたらす人の代わりに、自分を捨てる一人の魂を献身的に愛さなければならない。
趣味や素敵な旅行の代わりに昼夜を問わず人々の間で過ごさなければならない。金を稼ぐことや財テクの代わりに貧しい人を食べさせ、底抜けの甕に水を注ぐべきだ。
私は衰えなければなりません。
私たちはバプテスマのヨハネの使命宣言をよく知っている。キリストの成功のために、弟子は衰えなければならない。
彼は興奮しなければならず、私は衰えなければなりません(ヨハネ3:30)
教会は名誉達成に全く適していない。教会の仕事はミニストリーの履歴ではない。むしろ聖霊が尽くし、すべての栄光も主がとられる。
弟子がすることは何か?能力の証人となることも(使徒1:8、4:8)、迫害の中で大胆なもの(使徒4:31)、教会が平安で心強く成長していくこと(使徒9:31)、働きの方向性とその進行も聖霊が主導していく。(使徒16:6-10)。また、使役者を呼び、立てて送り出すことも(使徒13:1-5)、奇跡とその中で福音を伝えることも、聖霊がなされる(使徒2:43、4:16、30、31、5:12、6:8、 8:6、13、14:3、15:12、19:11)。
使役者の優れた部分さえ、聖霊の主導的な働きの下ですべて消える。教会をしている人たちは、すべてのことをしても栄光をとらない(黙示4:10)。どんな苦労をしても、自分の成功ではなく、主の成功を図る万物のかごであり(コリント一4:13)、無益な僕であり(ルカ17:10)、給料取りであり(ルカ15:19)、見知らぬアルバイトの生徒(ヨ 10:12,13)に過ぎない。また、苦難を受けるように定められた人生であり(コロサイ 1:24)、主に仕えるために弟子化の底に腐敗しなくてはならない人々だ。(ヨハネ12:24-26)。
成功した教会
リーダーシップのために復興するか。システムのために聖徒が増える?容貌が青年だったら青年の使役になり、老人になれば老人の使役になるのか? 働き方に溶け込んだ同時代の文化的アプローチが成功をもたらしている?
そうではない。聖徒たちを教会に送り(使徒2:47)、福音を聞く人々の心を開く方は主だ。(使徒2:37、16:14)。神の言葉が教会を成長させる主役であり(使徒6:7、12:24、13:49、19:20)、救う力は使役者から出るのではなく、福音そのものから出ている(ローマ1:16、コリント一 1:18)。みことばは人間の知恵ではなく、聖霊の力の中で宣べ伝えられなければならない(ローマ15:18、19、コリント一2:4、5)。
主がみなされる。それで、主に従う人は誰でも教会をすることができます(コリント一1:26-29)。私たちがすることは、一緒にイエス様に頼って従うだけだ。そしたら教会は主が成し遂げられる。
数多くのプログラムで忙しく汗を流しても祈りとみことばに邪魔されればすぐに中止しなければならない理由がここにある。主が働かせるためには、まず主に従わなければならない。祈りとみことばで主についていなければならない。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ 15:07)
それでも教会をする2つの理由
少しでも成功するつもりがあるなら、なぜ教会をするのか? 教会の一部になったとき、私たちは終わった人生を始めたわけだ。教会をする限り、すでに滅びた人生、終わった人生を生きている。
天の報い以外には寄り添う老後資金がなく、キリストの前での有名以外には寄り名誉がなく、いつか私を去る魂たち以外には遺産がない人生だ。教会開拓者の人生、弟子化使役者の人生がそうだ。
それでもなぜ教会をしたいのか?愛のためだ。主が先に愛されて(ヨハネ4:19)、私もとても愛し、また頼りになるからだ(詩篇13:5、6)。わたしが愛する主のみ一人で栄光を受けることに、チリのような重さでも使われたいと思って(イザヤ6:8、ヨハネ1:14)、主に近づきたいと思っているからだ(詩84:10)。
また召命のためだ。主がわたしを呼んで(マタイ 4:19)、罪の中で主を裏切った時にも訪ねて来て「ご飯を食べよう」と言われたからだ(ヨハネ21:12)。その方に従うとき、手に握ったものを捨てて出て(マタイ4:20)、その方がこんな罪人に自分の羊の群れを任せたからだ(ヨハネ21:15-17)。
愛と召命の中で、教会はイエスに従う。
教会はその使命を拒否するとき、もはや教会ではない_ドナルドミラー(Donald Miller)
[福音祈祷新聞]
このコラムは筆者の著書『最後まで行け』から著者の許可を得て抜粋、掲載します。
|ソン·ジュンギ|総神神学院卒。ウェイチャーチ担任牧師。「教会と宣教は一つ」という主張を理論だけでなく、宣教的教会開拓実行を通じて従順を通じて示している。 著書『最後まで行け』など10冊の本にこれまでの考えと従順の旅程を盛り込んだ。
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