“死ぬ30秒前。”
これはファンタジー作家、ブランドン・・サンダーソンが避けられないことを不吉に例示する、登場人物が死ぬ前の考えや感情について洞察力を提供する方式だ。あなたは何とファンタジー小説が与える不滅の魅力を求める読者にこのような表現があまりにも無惨だと考えるだろう。しかし、サンダースのStormlight Archiveシリーズに魅惑された数百万人はそこに同意しない。終末を見つめるのは、それ自体だけで人の魂に深い意味を投げる。
私は誰でもこれと似たように、死の直前の文章を書くことができると思う。新しい人に会う度に冷たいナレーターがその人の残りの寿命についてあなたの耳にささやくと想像して見てください。本当に奇妙でおぞましい知識になるだろう。しかし、同時にそれはあなたがその人と持つ関係の方式を根本から変えるだろう。厳重な現実は、次元が異なる緊急性を呼び起こす。時間がない。今が重要だ。
しかし、これは幻想それ以上だ。私たちは皆死が避けられないということを知っている。歴史的キリスト教信仰を守る人たちとして我々はイエスキリストを通じた神様の救援とは別に地獄、つまり悪人が意識的に永遠に苦痛を受けている実際の場所が無慈悲な口を開けて彼らを待っていることを知っている。時間がない。今が大切だ。彼らが知らない知識を知っているというこの荷物はどれ程重い責任感を与えているのか?
宣教師の重荷
多分も宣教師ほどその重さに耐えられる人はだろう。彼らは”その名御名のために(ヨ三1:7)行く人たちだ。イエスという名前は”天下に救われるべき有一の名”(使徒行傳4:12)だ。彼らの目的は”他の人たちを火から引きずり出し、救援”することだ(ユダの手紙1:23)。多くの宣教師が彼らのお召しの裏に隠れた中心の動機が他でなく、福音を知らない人たちが地獄に行く悲劇を防ぐためという事実を直ちに認めている。宣教師の人生と召命が持つ負担は地獄という厳然たる現実を見つめること、即ち死がいくら残ったのか教えてくれる、ナレーターの冷たい声を聞くことだ。
私はこのすべての過程を経験したからよく知っている。東アフリカ宣教師としてしばしば遠い距離を運転しながら、行く道に見える村のために祈りしたりした。私たちがどれほどたくさんの場所に止まったのか、私たちによってどれほど多くの人がキリストを信じるようになったか知らないが、私たちはこれまで数百ヵ所で数千人に会った。そうだ。私は新しい信者たちを見て喜ぶ。しかし、そのようなときもまだ福音を聞いていない人たちに対する痛恨の認識が頭を離れたことがない。
夕方に仕事を終えて家に帰ってきたら近所で泣き叫ぶ声が聞こえてくる時がある。誰かが先ほど死んだという意味だった。死んだ人がキリストについて聞いて見ただろうか?最近私が市場で会話を交わした人なのか?私が福音を伝えた人なのか?これはまるで悲鳴を上げようにセレナーデを歌う青年のように私自身を浄罪する質問だ。しかし、このような質問こそ、死という幕越しに永遠が待っていることをもう一度わたしを考えさせるのだ。
宣教師がうける誘惑
このような負担と付添いの誘惑がある。地獄の教理をしばらく抜いておいたらどうかな?それは全然難しくない。簡単な方法がいろいろあるから。
神様の救援が究極的には全ての人に拡張されることになると信じている普遍主義を選択することもできる。永遠の呪いは不必要であり、聖書の比喩に過ぎないということもできる。信じない人は死んですぐに消えるか、地獄で暫く苦痛は受けるけど、まもなくなくなるという霊魂消滅論(annihilationism)もそれなりにいい方法だ。この見解によると、不信者は、もはや存在しないはずだから永遠の審判の場である地獄も共になくなる。
しかし、地獄を抜いておく、最も簡単な方法は、そこに関して考えこと自体をしないことだ。信仰が残ってあるとしても負担はない。霊魂に対する緊急性は同時に減る。一時、宣教師を感動させた地獄に関するキリストの御言葉はもう無関心を起こすだけだ。夜に聞こえる号泣、四方に積もった薪の山、死が31秒残った隣人を見ながら感じた感情は同情が呼んだ疲労感または文化衝撃とみなせば良い。時間が経つほど地獄に関する心配と負担はますます減ることだ。
このようなやり方の放棄をある人は”愛が勝つ”と表現する。ミルラドゥ・エリクソンが観察したとおり、”永遠の刑罰の教理は一部の人たちには、時代に遅れたり、非キリスト教的に見えて、しばしばキリスト教信仰で最も先に非神話化されるテーマの一つである。”それではなぜ宣教師はその主題がもたらす絶えない苦悩を固執しなければならないのか?エリクソンが続けて述べる。”しかし、私たちはこの地獄の教理を考慮しなければならない。…なぜならそれは聖書が明確に教えているためだ。”
知的にも感情的に地獄の教理を放棄した宣教師が急にもっと自由になってもっと道徳的な宣教師になるのではない。教理の喪失は正反対の結果をもたらす。さらにもっと制限された信仰と狭小な使役である。
宣教師の確信
聖書の中で、地獄に関する最も重要なお言葉はイエス様から直接出ている。マタイ福音25章 で、イエス様は世界の終末に関する長い説教をする。もちろん、使役する間にずっと教えの大体が義人の救いと悪人を罪に定めるのを暗示する。しかし、この章でイエスは具体的に説明している。
“泣きながら歯ぎしりして”(マタイ24:51;25:30)という文言を繰り返した後、そのような苦痛が起こる最後の審判を描写する。善良な”羊”は神様が彼らのために予備した国に迎え、呪われた”ヤギ”は”サタンとその使者たちのために予備された永遠の火に”入るのだ(マタイ25:33、41)。このような審判の範囲を繰り返しながら、イエスは”そうすることで、彼らは永遠の刑罰に入って、義人たちは永遠の生命に入るのだ”(マタイ25:46)と結論を下している。
マタイ福音書25章が描く地獄の姿は明らかだけど、だからといって地獄というこの重要な教理がただ一枚の聖書の御言葉に基づいて建てられたわけではない。私たちはマルコの福音書で地獄が「消えない火」(マルコ9:43)であり「彼らの虫が死なないところ」(マルコ9:48)と描写された。 ルカは金持ちとラザロに関するイエスの比喩を引用するが、ここでイエスは死んだ後に金持ちが「苦痛を受けて」いて、このように叫んでいると明確に話された。 「私はこの火の中でひどく苦しんでいます」(ルカ16:23-24)。 ヨハネの黙示録はまた、果てしない苦痛の煙が出て硫黄が多く、底のないくぼみについて繰り返し言及する(ヨハネの黙示録9:1-2、11;14:9-11;19:3;21:8)。
私たちはこれらすべての事実を考慮するとはっきり言える。 地獄に関して聖書は何の余地も与えないほど明らかだ。
カウントダウンへの慰め
地獄に関するあまりにも明確な聖書の教えのために宣教師はこの教理が持つ真理だけでなく、その善良さに対しても確信を持つことができる。 意識的に永遠の苦痛を経験するというこの教理のどんな点が良いだろうか? この教理が魂の教化に役立つのか? 使役にどんな実を結ばせるのか?
次から夜に泣き声が聞こえたり、ナレーターがささやく時にこの教理が与える次のような美しい有益を記憶せよ。
30秒前··· 地獄は神の言葉が信頼できるということを示している。
ユダヤ民族の中で失われた彼の親族を思いながらパウロが「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶え間ない苦痛があります」(ローマ9:2)と書いた時、彼が地獄を念頭に置いていたという事実は疑うことができない。 しかし地獄が事実で永遠の審判に関する神様の言葉が信頼できるならば、その方の恵みに対する言葉もいくらでも信頼できる。
聖書の信頼性を確信するより宣教師の使役に有益を与えることが他にあるだろうか? 「私たちは自分自身を伝えるのではなく、イエス·キリストを主と宣言します」(コリント第二4:5)。 イエス·キリストとは誰か? 記録された言葉を通じた生きて居られる言葉だ。 地獄の荷物が襲ってくる時、宣教師は地獄が実際に存在し「神様は誰も滅亡せず、皆悔い改めることに至ることを願います」(ペトロ第二3:9)という言葉の中で安息をすることができる。
25秒前··· 地獄は神の栄光を宣布する。
地獄教理に反対する最も強力な主張の一つは、それが神の愛を毀損するという点だ。愛の多い神様が一時的な人間の悪に対してどうして永遠の審判を行うことができるというのか?
宣教師はウェイン·グルデムの言葉を覚えなければならない。 「処罰されないまま残っている悪は神の栄光を毀損する。」別の言葉で言えば、「神が悪を懲罰し、悪に勝つ時、神の公義と義とすべての敵に勝つ能力の栄光が現れる」
謙遜に福音を伝え、また謙遜に地獄に対して警告する宣教師は、神様が光栄であり、公義であり、また全能な方であることを宣言することだ。いくら福音を伝えるとしても、その中で神様の最高の栄光が現われなければ、それは聞く人に何の役にも立たない。そのような福音は地獄火の危険にさらされている人を少しも哀れまない。
20秒前··· 地獄は神の主権に対する信頼を育てる。
神の主権を強調する改革主義に対する私の確信は宣教現場で誕生した。ある日、うちのチーム長が私を山頂の広々とした眺めの前に連れて行った。アクセス不能な町は何マイルにもわたって何千ものブリキ屋根の形で輝いていた。その夜、私はすべてを諦めて家に帰る飛行機のチケットを買うところだった。そんなに遠いところにいる人たちに近づくことがひたすら私の力にかかっていたら、私は絶望に陥ってやめただろう。
ありがたいことに私は当時ローマの信徒への手紙を読んでいて、「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマの信徒への手紙9:17)というパウロの宣言に接した。神様の主権的な魂の選択が私を宣教現場に留まるようにした慰めになった。私は神様の作業に参加していたのであって、その逆ではなかった。その自由は今までも私に安息を与えてくれる。
15秒前··· 地獄は伝道に動機を与える。
私が言う安息は先導活動から一歩離れた安息ではなく、私の魂のための安息を意味する。神の主権が与える力で私たちはもっと努力する(ヘブライ4:11)。これが地獄の教理の最も明らかな利点かもしれない。地獄が実在してあなたが出会うすべての人が数秒後に死ぬなら、宣教師は福音を持っていかなければならない。 パウロの緊迫感を聞いてみよう。
ところで、人々は自分たちが信じたことのない方をどう呼ぶことができますか? また聞いたことのない方をどうやって信じることができますか? 宣言する人がいなければ、どうやって聞くことができますか?
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができますか?聖書に記録された通りに、「嬉しい知らせを伝える人たちの足取りがどれほど美しいか!」ということと同じです。(ローマの信徒への手紙10:14-15)
なんてすごいモチベーションなんだろう!
10秒前···. 地獄は神の神聖さに息をのむようにする。
私は牧師として誰かに地獄の教理を黙想するように勧めたことがない。しかし、私は地獄の重要性と明確に一致する神の神聖さに対する教理だけは深く省察することを促した。旧約と新約は一様に天の徽章が開かれた時、「聖なる聖なる聖なる主よ」(イザヤ6:3、黙示録4:8)叫ぶ被造物を描写する。これは神様がすべての悪から完全に区別されたという意味だ。ひたすら自分の栄光を追求し、その栄光を毀損するすべてのことに反対する神様は正しい。
意識的な苦痛を永遠に経験する地獄をいつも考える宣教師は、当然怖くならざるを得ない。神の恵みのないところで(テサロニケ第二1:9)、ひたすら神の怒りだけがある地獄で(黙示録14:10)、魂が永遠に悲しむことが本当に必要なのか? 神の聖なる御前ではそうだ。地獄は私たちが神様の神聖さの高さを理解する最も効果的な尺度でありうる。詩篇記者と共に宣教師もいくらでも感動に満ちて「私たちの神様は聖である!」 叫ばなければならない(詩99:9)。
5秒前··· 地獄は神の恵みを祝う。
宣教師として使役するのは大変だ。数百万人の救われない人々の中で少数のキリスト教徒として生きることは特権だが、同時に霊的戦争の最前線にいることを意味する。宣教師が忍耐するために最も必要なことは、神の恵みに浸ることだ。地獄が私たちに神様の神聖さの高さを表わすならば、それはまたその方の慈悲の深さに対する記念碑も提供する。
感謝は困難な時期に慰めになる。そしてイエス様は私たちの喜びが充満することを願う(ヨハネ15:11)。私たちが地獄を避けて永生(恩恵)を相続するように、実に驚くべき愛で選ばれたことを記憶する時、神様は私たちの心にどれほど大きな感謝と喜びを与えてくれるのか。
結局、宣教師自身も数秒後には死ぬ。 冷たいナレーターにいつ私が死ぬか自分の耳にささやかせなさい。しかし、神様の恩恵で宣教師の未来は地獄ではない。天国だけがあり、その次には新しい創造があるだけだ。これこそ王の道だ。ひたすら神様に感謝する! [福音祈祷新聞]
ブラッドリー·ベル(Bradley Bell) | ブラッドリー·ベルは元宣教師だ。 今は米ルイビルのAntioch Churchの担任牧師だ。 書いた本はThe Sending Church Definedがある。
このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org
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