[信仰で生きる福音(1)]
夜が深く、暗闇が濃いからといって、あちこちをさまようべきか。 違う。夜明けは日が昇る東側でのみ開かれる。 “我々は知ろう。主を知ることを切に求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、雨のように我々を訪れる。地を潤す春の雨のように。”(ホ 6:3)
ホセア預言者は悲鳴のように叫ぶ。 生命を得る道は、太陽が東から昇るように、ただ1つの道しかない。 歴史の暗鬱な時期ごとに、時代を悟らせる預言者たちの叫びを通じて、神様の声が聞こえた。 神様のもとに戻れ。 主に会う時に主を呼べ。
希望がなさそうなこの時期に、我 の目を挙げて歴史の主管者であり、救いの唯一の希望である主を見つめなければならない。 この世の運命は生きている私たちの神様にかかっている。そして、その御座を動かす人々は福音で変化され、神様を父と呼びながら祈る者たちだ。
毛虫は松葉を食べて暮らし、蚕は桑の葉を食べて生きる。 そのように、肉の人は世の中の餅と葡萄酒で暮すが、御霊に属した天の民はただ信仰で生きる。 この混沌で望みのない歴史に聞かせる最後の答え。 “また福音の前に!”
ヤコブには帰るベテルがあり、どら息子には帰る父親の家があるようにさまよう人類に与えられた唯一の答えは、十字架福音で帰られることだ。 そして、この完全な福音が要求するのは、ひたすら信仰だけであるのだ。
詩編第23編で、ダビデの告白はこのように始まる。 “主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。”(詩23:1)今の言葉で表現すれば”完全な福音をくださった神様の御前でただ信じればそれだけで十分だ”という話だ。 唯一無二で全知全能で無所有で永遠なる神様。 万物の根源であり歴史の統治者であり義の王、生命の主管者である三位一体神様!
ダビデは荒野で羊を飼っていた16歳の少年牧童に過ぎなかった。 ある日突然主権的な神様の御恵みで、王として油を注がれたけど、むしろサウル王に追われる身になった。 何の保証もないまま10年以上追い回された。 その間、両親も彼を捨てざるを得なかった。 友達は1人も彼のそばに残っていられなかった。彼が経験する困難は言葉で言い尽くせないほどであった。
ダビデは毎日、死を目前にして激しい社会の現場の中で誰よりも熾烈に生きた。 あらゆる患難の中で、何も信じることが出来なかった。 その時、ダビデはこのように告白した。 “私の一生にエホバは私の牧者になったので、自分には決して不足はありません。 ひたすら信じるだけです”。 ダビデは”ひたすら信仰”の人生を”エホバは私の牧者だから私に不足はない。”と表現した。 これはダビデの知恵ではない、神様が啓示してくださった福音の秘密である。
信心だけで生きていける人生は福音の人生だ。 信仰で十分生きられるし、信仰で十分だ。 (2017年9月)<続く>[福音祈祷新聞]