“宣教は神様を礼拝しない所で礼拝すること”

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従順の道を選択したシン・センジャ宣教師

イェス・キリストの十字架の福音は、私一人の喜びに制限される‘個人用’ではなく、全人類を躍らせる‘世界用’である。‘福音にであってから私に怒った一番大きな変化は、’神様が本当に早く来てほしい‘という希望が一つできたのです’と告白するシン・センジャ宣教師。インドで働く中、ビザ延長のために一時帰国した彼女に会った。

-信仰生活はいつから始めましたか。
“お姉さんについて小学校4年の時、教会に行きました。おばあさんが教会に通うのをすごくいやがっていて、おばあさんには隠して教会に通いました。その時は教会がただ好きでした。”

– ご両親は教会に通ってなかったですね。
“私が小学校に入る前に、お父さんがガンでなくなりました。デグで住んでいた私たちの家族は、お母さんが食堂で働いて生活していました。そんな人生で信仰に会う機会がなかったようです。家事は主に私たち姉妹がやりました。私は4姉妹中次女です。私たちはじゃんけんで勝った順で、皿洗い、部屋掃除、洗濯など家事を選択していました。”

-大変な時はなかったですか。
“特に大変なことはなかったですが、早く大人になりたかったです。家族に心配ことや問題が生じると、小学生の妹から全家族が一緒に知っていて、一緒に心配をしていました。そして望む事があっても、心の中で一人で整理して、早く諦める能力が出来たと思います。”

-信仰生活で特別な変化を経験したことがありますか。
“中学生になって、集会を通して‘イェス様が私のためになくなった’という事実が信じられました。それで教会にもっと熱心を出しました。教会の掃除、台所での働きからできることは全てやりました。しかし一所懸命行っても、何かが足りないと思っていました。気になるところと解決できない部分がありました。”

-具体的にどんな部分でしたか。
“2002年に親しい知人が、深刻な罪に陥るのを見て、‘渇き’が酷くなりました。‘私はなぜ教会に通っているのか’、‘神様のみ言葉は生きているのに、なぜ生きている感じがしないのか’、‘なぜ私をみても周囲の信じる人を見ても、神様のみ言葉の通りに生きる人はいないのか’、こんな質問が私を苦しめました。そのころの2-3年間、とてももどかしさを感じました。”

-そんな疑問は解決されましたか。
“2007年に中東地域で仕えている宣教師さんの紹介で、ある宣教団体が主管する学校を通して、罪に対しての真理を学びました。以前には他人が犯す罪を見て、いつも判断して裁きました。しかしその時、神様が私に‘貴方は何が違うのか。行動で現されてないだけで、彼らと違わない’と言ってくださいました。事実イェス様は殺人という行為と、嫌う心の動機を同じ罪として思っていました。私はその真理を知ってはいたが、まだ信仰として受け入れてなかったです。”

-罪に対しての認識の転換があったんですね。
“以前には社会法を違反して、道徳から外れることを罪として認識していました。それなので自分なりに最善をつくして、世の法の中で規則をまもって、悪いことをしないよう努めた私はきれいな人でした。まるで私は罪から自由な人のように認識したんですね。しかし神様の基準で、私の心を見つめた時、私が殺人者であり、淫行者で、罪に満たされた存在であると気付きました。私が本当に罪人であることを認識して、他の人の罪に対しての批判する心ではなく、その罪が私にもあると認めて、受け入れるようになりました。イェス様の十字架が本当に私のような罪人のためのものでした。やっと私の中に自由をいだくようになりました。本当の福音に出会いました。”

罪に対しての認識の転換があって

-その福音に気付いてからの人生の変化がありましたか。
“十字架の福音を経験しながら、福音と宣教は無関係ではないとの話を始めて聞きました。しかしその宣教と言う領域が、私の人生とは無関係の話として考えていました。大部分の人たちがそうだと思いますが、私はお家を離れるのを嫌っていました。お家の外では寝むれないし、他の環境で苦労することも嫌でした。新しいところで慣れるより、不便でも慣れた人生がもっとよいと思っていました。”

-しかしどのように宣教師になろうと思いましたか。
“福音宣教館学校という過程を通して、スリランカへビジョントリップに行った時でした。野生動物が入ってこられるような、みすぼらしい場所で寝ないといけない状況でした。その時現地の宣教師に、‘こんなところで寝て食べるのが好きですか’と聞きました。しかし予想外に好きではないとおっしゃいました。新鮮な衝撃でした。その部分では私と違ってなかったです。しかしその方の従順する人生の態度を見ました。わざとできることではなかったです。彼の喜びの従順を見て、‘神様は私にもそんな従順する心をくださるだろう’と思いました。‘神様が呼んでくださると、従える’という日差しを感じました。そのようにして一歩ずつ導かれました。”

-インドを働き場として決定した過程がありましたか
“2010年ある日でした。毎日一時間ずつ世のために祈っている祈祷24365時間に、‘主が訪れる日が10年も残ってない’という記事を見ました。その時、この10年という数字が、単純な数の概念ではなく、‘急ぐ’神様のみ心として受け入れました。それで2010年を普通に過ごさないと決めました。そして何日かたって、日曜日の説教と通して、‘神様がいま私を呼んでいる’という確信をいだくようになりました。それでどこでも従うことにして、決められたのがインドでした。”

-インドに始めて到着した時を覚えていますか。
“生々しいです。2011年2月24日にインドのデリ空港に到着しました。迎えに来るはずの方が来なかったです。戸惑いました。本当に何もできなかったです。出発前に神様が、‘私だけを信頼して、とおっしゃっていたのに、訓練をさせているのだろう’と思いました。とにかく紆余曲折の末に目的地まで到着しました。‘どんな状況が与えられても、恐れず神様を信頼しなさい’という教訓を得ました。その時以来、無茶な人だという噂がありました(笑)。”

-初めての2年間、現地人たちと向き合いながら感じたことがありますか。
“インドに対しての偏見がありました。そしていつでも現地人に裏切られて、盗まれるかもしれないと思っていました。それでリクシャ(人力車)に乗る時には、一銭も損害されないよう交渉して、市場でも価格を騙されないよう、神経をたっていました。インドとインド人を愛するのではなく、彼らを判断して、無視する自分の姿を神様が見せてくださいました。そして私のまがった観点を捨て、イェス様を通して、彼らを愛の目で見つめている神様の観点を信仰で取らないといけない大事な原理を学びました。”

神様の観点で現地人を思うようになる

-女子宣教師として一人で住んで、危険を感じたことはありませんか。
“私は始めから一人で出回りました。特別な危険は感じてないです。しかし去年10月一人でデリからバラナシへ行くバスで、一人の男性が私の体を触ったことがありました。とても驚いて、すこし戸惑いましたが、警察を呼びました。  よくまとまりましたが、ひと時の騒ぎを経験しました。事実最近インドである女子大学生が集団性暴行で殺害された事件が、国際的にイッシューになりましたね。しかし韓国に来て見ると、韓国がインドより危ないと思います(笑)。”

– 2年間どんな働きをしましたか。
“一語でいうと礼拝と祈祷でした。2年間私が学んだ宣教は他ではなく、神様を礼拝しない地で礼拝して、神様をみずから求めない人たちのために、一人でまたは祈祷の集まりで祈ることでした。勿論、‘何か目に見える事をしないといけないのか’という質問が浮かびましたが、まずは本質を見つめようと努めました。”

-もっと具体的に分かち合ってください。
“私の場合には誰も見ないところで、ただ神様の前で敬虔と信仰を守ること。それが一番大きな戦いでした。家庭があるとか、共にいる共同体があれば、互いに守ってくれる有益があります。しかし私は一人なので、この部分でもっと多く努めないといけないです。み言葉を黙想して、祈ることや、全ての日常でも徹底に一人で神様の前に立たないといけないです。いろんな沢山の悩みが押し寄せると、悩んで心配もしますが、時ごとに神様がみ言葉で導いてくださり、教えてくださるので、全ての悩みと心配がなくなります。その時が一番うれしい時です。”

神様を礼拝して祈ることが働き

-宣教地で一人で神様を経験する時間でしたね。
“実は自分でもよくやったと思いました。誠実に、み言葉と祈祷で信仰をよく守っていたと思いました。しかしある事件を通して、信仰は経歴を積むことではなく、続く信仰であることに気付きました。”

-どんな事件でしたか
“インドで始めの1年間は洗濯機がなくて、手で洗っていました。それで洗濯機があればと思っていて、周囲からも洗濯機はあるべきだと言われました。それで祈っていると、偶然妹がお金を送るとの連絡が来ました。しかしその時から洗濯機を下さった神様より、‘妹がいくらを送ってくれるか’というのにもっと関心をおく自分を発見できました。恥ずかしかったです。それで早く悔い改めて、‘洗濯機を買うには足りないお金が来ても関係ありません。大丈夫です’と告白しました。”

-再びインドへ帰る計画を持っていますか。
“いま私にゆるされた人生の台は韓国ではなく、インドです。韓国に長く留まりたくないです。いまビザの状況を考慮すると、少なくとも5カ月は待たないといけないですが、インドを長く空きそうで、気持ち的に辛いですね。韓国で過ごす時間も神様が導いてくださったので、み言葉で主の導きを受けたいですが、早くインドへ帰りたいです。”[GNPNEWS]

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