神様が堕落した人類に注がれたかった熱望はどんなものだろう?創造前に夢見ておられた神様の原形を回復させるために神様は希望のない罪人の中の一人に過ぎなかったアブラハムに訪られて彼と約束をお結びになられた。彼と彼の子孫であるイスラエルを通じて神様の栄光がどんなにすばらしいものであるかを現されたのがダビデまでの歴史であった。
特に、出エジプトの偉大なる歴史は、天地を創造されて、生きておられて、善たる御心のままに歴史を動かされて、一寸の誤差もなく約束を成し遂げられる神様の統治が、ある民族イスラエルを通じてそのまま現れた。歴史の中でイスラエルのように神様の権能で救われた国がどこにあるのか?土器の中に宝物を置くように神様は浅はかなイスラエルに近づいてくださった。彼らはシナイ山に臨在された神様を目で見て、律法を頂いて、幕屋を頂いて、毎日マナを食べて、岩から出た水を飲んだ。世の中のどんな民族も享受できなかった聖なる神様の栄光を最高に極めた。
原形に回復させる事を望まれる神様の熱望。
約束されたカナンの地を審判されて神様の民をその地に植えられて、彼たちを通して神様の栄光を現された。しかし、イスラエルはカナンの地に入ったばかりに堕落し始めて、滅亡されたカナンの七族とちっとも変わらなかった。彼らの体はエジプトの奴隷から救われたか、彼らの内面は生まれながらアダムの呪いを受けて神様の形が砕けたまま罪の奴隷になった。
栄光な名前は持っているがダビデの時代に至るまで士師時代ずっと彼らは神様に逆らって罪に引きずられて滅ぼすところになっても最後まで神様を拒否して王を要求した。彼がサウルだった。サウルすら神様がその民に許された聖なる栄光と祝福を享受されずに悪霊に取り付かれて狂って死んだ。
とてつもない神様の愛情を受けてその栄光な祝福を受けたが、水が漏れる器みたいに、すべての機会を流しだされたイスラエル。むしろ機会がなかったらこんなに悲惨ではなかったかも知らない。下さった神様の充満されたその栄光がイスラエルを通じてはまともに現れたことがなかったのである。
ダビデが見たかった栄光とは自分が王になることではなかった。イスラエルは存在自体が世の中のどんなものででも説明できないのだ。イスラエルの一番の栄光は神様が一緒に居られる事だった。同じく今の時代の一番大きい栄光は神様の臨在である。教会の建物の華やかさとか、組織の規模とか、構成員のすごさではない。教会の本質的な栄光は神様の臨在である。私たちの礼拝が栄光であるのは礼拝儀式の華麗さではない。聖徒の願いは神様が一緒に居られることにある。これがキリスト人の最高の栄光である。
最高の栄光、神様の臨在
神様が毎日片思いをするようにイスラエルを愛し続けたが、彼らの呪われた魂は神様の御座になれなかった。砕けて、汚くて、淫乱な心霊が主の神殿にはなれなかった。そんなわけでダビデは神様がイスラエルの中で真の王として居られる神殿を建てられたかったのである。そしてイスラエルは数多い国の中の一つではなく、神様の栄光を現す有一な民族、選択された民族として生きておられるエホバ神様を礼拝して、その方が臨在する栄光を見たかったのであるのだ。(2016.2メッセージ整理)<続く>
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