私が十字架で死ぬことが殉教であることに気付きました。

Date

2015-10-09

コンゴ民主共和国の次世代を抱くジョン・ミラン宣教師

いつイエス様を人格的に会いましたか。

私は教会を一度も離れなかったクリスチャン家庭で育ちました。私と祖父母、両親、お兄さんが一緒に住んでいました。長老だったお爺さんと執事であるお母さんのお祈りによって私はいつも主のお守りの中にいました。しかし厳格な家庭環境でいつも模範になるための負担感がありました。主を本当に愛しますと告白したかったが、私はそんなことを言う資格がないと思っていました。それで主との深い交わりができなかったです。

大学生になって宣教団体で行う信仰訓練をうけて、主をすこしずつ知るようになりました。主に対しての熱望が大きくなって祈祷院に行きました。その時イザヤ54章11-17節の御言葉を通して恐れている自分に気付きました。そして御言葉が自分に聞こえました。礼拝をささげる時、本物のイエス様に出会って思う存分愛しますと告白しました。

満たされない渇きをお祈りの場で満たされる。

宣教師の夢はどのようにいだくようになりましたか。

主が青少年の時に貧しい者と迫害される者たちに対しての心を注いでくださいました。それでそんな人たちと分かち合えるカウンセラーになると決めました。大学に進学して共に訓練を受けていたお友たちと自分の気持ちを分かち合いましたが、彼らも同じ夢を持っていることに気付きました。私を含めて兄弟2名と共に、貧しくてさびしい子供たちのために対案塾を始めました。

対案塾は始めて聞きますが、どんなところですか。

教会には通っていますが、学校と塾のために休みがない子供たちを対象に勉強を教えながら礼拝する塾です。塾を始める一年前から一緒に教えている姉妹たちと共に礼拝して祈っています。その方たちがいま私と共にコンゴ民主共和国で働いている宣教師たちです。何も持ってなくて、お金ももらわなくても、私たちのビジョンはこの塾を通して主に栄光をささげることです。これを通して私は宣教に対して考えました。

-どのように考えが変わりましたか。

カウンセリングから習った私は子供たちから親までも相談しました。夏になると霊性キャンプで子供たちと共に海外へビジョントリップを行きます。子供たちに夢を抱かせて、主の国の働き者として育てる時間でした。6年間この働きをして宣教に対してのビジョンは日に日に固まりました。いつか海外でもこんな塾を建てよう。主が導いてくださるならばいつでも発とうと思いました。

ビジョンはどのように具体化されましたか。

2007年から準備して2008年7月にアフリカへ行きました。出発前に会う方たちに私たちのビジョンを言ったら、主が所々で支援者たちを起してくださいました。聖徒の身分では教会から支援はなかったので、本当に感謝でした。支援の問題が解決されましたが、一番重要な問題がありました。それは自分でした。急に怖くなりました。

いま主の時なのかに恐れを感じました。違ったら中断できるのか。本当に望んでいたが恐れている自分。私も自分がどうしてなのか知りませんでした。しかし自分の中に注がれた主への熱情は実在でした。その時協力者の一人から電話をもらいました。それは主の勧告でした。ついに心を決めて、2-3週間ですべてを準備しました。

宣教地へと発つ過程で家族は大丈夫でしたか。

長い間私が言っていた宣教でしたので、お母さんは理解してくれました。しかしお兄さんが大反対でした。時期が早いと私を引き止めました。お兄さんも当時は宣教師になる希望をもっていましたが、兄弟そろって献身すると誰が親の面倒をみるのかという心配がありました。しかし主が私たちの両親も主の子であるので守ってあげると言ってくださいました。祖父は今までも私の祈りの支援者です。

恐れに勝ってアフリカへ

主が驚くほどに導いてくださいましたね。しかしなぜアフリカですか。

いままで多くの伝道旅行をしてきましたが、アフリカは一度も行った事ない国でした。宣教地に行く準備をして、知人を通してモザンビクで宣教しているハイディ・ベイカの本を紹介されてアフリカに対して考えるようになりました。そしていま共に働いている宣教師の知り合いの宣教師と交わりながらアフリカを知るようになりました。

アフリカに対しての適応と言語の勉強が必要だと言われてタンザニアにいきました。タンザニアはスワヒリ語を使っていますが、当時私たちは言語学校に通えなかったので本で勉強しました。現地の人たちと会話をして早く習いました。2年ほどそこでシニア宣教師たちと交わって宣教現場を経験しながら学校に対して具体的に考えました。

どのようにして学校に関しての働きを始めましたか。

まず地を探そうと思いました。本当に貧しくてさびしい子供たちを教えて守ってあげる主の働き者、民族の指導者を育てる学校が必要な所がどこなのか、タンザニアとケニャ、ウガンダ、ブルンディなど調べました。ブルンディに到着した時、首都ブジュンブは環境が本当に悪かったです。そこで一年間幼稚園をして学校に対しての計画を具体化しました。

そんな中、ブルンディの隣国であるコンゴ民主共和国に関して偶然聞きました。内戦が多くて一度入ると出ることが難しい国だと聞きました。主のみ心がどこにあるのか知りませんが、そこへ行ってみようと決めました。唯一な交通手段であるオトバイに乗っていけばいいですが、距離測定が難しく村々を見ることが出来なくて徒歩で行きました。それで本当に捨てられたような地を発見しました。

そこでどのように村の人々と学校のビジョンを分かち合いましたか。

村の人たちと話をしてみて、本当に私たちの助けが必要だと知りました。4か所の村で1500人ほどの人たちが住んでいます。長い内戦の苦しみもあって、首都キンシャサから遠くて教育をちゃんと受けてない痕跡がありました。大体未婚母と未亡人、子供たちが住んでいます。韓国の23倍大きい地ですが、政府の力が届かない地域です。外国人である私たちが学校を立てると言ったら、皆信じられない反応でした。

いままで多くの人たちがここを来ていましたが、何も起こらなかったです。でも多くの人たちは学校を望んでいました。学校の土地を認められるまでに長い期間がかかりました。およそ8カ月間村の人たちと共に待ちました。学校を建てるために材料を載せたトラックが来た時、村の住民皆が泣いて喜んでいたのをはっきりと覚えています。

いまは学校を通して教会が立つように

待つ間村の住民たちと心を一つに出来ましたね。

建築材料購入と労働者たちに仕事を依頼する時にも私たちが直接担当しました。支援金は大事なので節約しないといけないからです。建築がそんなに大変なのか知りませんでした。多くのことを学びました。主は私たちに模範になるようにと言ってくださったので、私たちは女でもシメントを作ってレンガを運び、遠い距離を行き来して水も運びました。時には食堂のお婆さんになって村の人たちと共に楽しい時間を持ちました。

6カ月でついに異邦の光だという意味のロア学校(LOA, The Light Of All nations)が立てられました。私たちがそこで協力者として行きましたが、宣教は私たちの力だけでは不可能であると学びました。宣教は連合です。

学校運営をどうしましたか

そこは貧しい子供たちが多いです。その子たち全員に学びの機会を与えたいですが、貧しいからと無条件に助けることはしないです。私たちと先生たちは家庭訪問をして学校の校則を言って、貧しい子供たちは勤労奨学生として勉強をして学校を手伝うようにします。学費は50-100円くらいに決めました。勿論この費用は現地人の方たちにやすくありません。先生を採用する基準はとてもきびしいです。現在現地教師4人と、韓国のヨセップの倉庫ミニストリから送られた宣教師夫妻、そして開拓メンバ3人が共に働いています。

学校はどんなビジョンを持っていますか。

私たちが会っている方たちは内戦のために自分と国に対しての信頼がありません。それに自分の民族は変わらないだろうという確信があります。そんな声を聞くと悲しくなります。子供たちを本当に指導者として立たせたいです。朝鮮戦争の時の韓国の状況を国民の誠実さと犠牲によって変えたと分かち合いながら、子供たちが福音によって回復する時を期待して祈っています。この学校を通して教会が立てられることを夢見ています。現在日曜日ごとに学校で現地の伝道者と礼拝をささげています。10月からは青年、壮年層と礼拝をささげる計画を持っています。

お祈りの課題はありますか。

以前は私がとても未熟であったので、死も覚悟する殉教師になるようにといのってくださいとお願いしていました。しかし7年間宣教地にいて知ったのは、実は私が十字架で死ぬことが殉教だと気付きました。私の熱心、知識、経験のために主が働くことが出来ないことに気付きました。自分を否認してイエス様と共に死んで、新しい命になるようにと祈ってください。 [GNPNEWS]

S.Y.

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