ただ!絶対! 全部である福音!(9)
アブラハムは信仰によって神様のみ前で義であることを得られた。自分自身に何の根拠も置かなかった。彼も私たちと同じように弱点を持っていた。それで「アブラハムが彼が望み得ない時に望みを抱いて信じた。」とおっしゃる。神様が本当に生きていて全能であってこそ可能な話をアブラハムに約束された、それを信じろとおっしゃるのだ。
それはあなたの可能性を信じろということではない。「あなたの可能性を0.001%も信じないで、
他の可能性も信じるな。君の信仰は純度100%の信仰にならなければならない」ということだ。ただ神様だけを信じなければならない。彼が100歳にもなって自分の体が死んだようであることを知り、10歳差のサラが90歳のお婆さんになった時、妊娠と出産は生理的に不可能になった。いくら人間の肯定的、積極的な考え方を動員しても不可能な状況だ。子供を産むことができなかった。
ところが神様はアブラハムと彼の妻を通じて大きな民族を成すと約束し、その約束をして25年が過ぎていた。25年という歳月が過ぎてお婆さんになってしまったのだ。お婆さん、お爺さんになり、人間のどんな努力やどんな方法でもできなかった。
だから、すでに死んでいることが分かった」と話す。サラの胎がすでに死んで不可能な状況だが、アブラハムは神が死者を生かし, 無いものを有るもののように創造される神であることを信じたと話すのだ。
ただ信仰だけだ。これが極端的な信仰だ。これは話にならない信仰だ。その信仰にすべてをかけ、自分の運命をかけた。揺れる攻撃が来る時も絶対信仰だった。揺れることができなかった。揺れていても出発する時になったら信じたその神様を絶対に信じ、ただそれしかなかった。アブラハムは後に退くことができなかった。
その人生を始める時、アブラハムは生まれ故鄕、父の家を離れてた。心情的にアブラハムのように寂しい人がどこにいるだろうか? 彼は故郷を離れ、死ぬまで他郷をさまよっていた。彼の信仰はひたすらだった。彼がそのように漂う理由は故郷が遠くて帰れなかったことではない。神様が約束したそれをまた十分に成し遂げると確信したが、それが義とみなされたのだ。アブラハムの一生を語る時「ただ信じる、絶対信じる、ひたすら信仰」これ以外は言うことがない。
アブラハムが75歳でハランを離れる時、その時代には他の地域に入るということは侵略戦争と同じ意味だった。この部族から別の部族に行ったらそれは戦争状態になるのだ。ところが行き場を知らず目に見える何の保障もないのに、主が「行け!」と言われたら行くのだ。
多くの人は「信じる人が対策があってこそ常識があるのだ」と言う。しかし常識より、対策より「神様の呼び声」、その「呼ばれた神様」を信じるのだ。これを絶対信仰と言わずに何と言うだろうか?これをただ信仰と言わずに何と言うだろうか?なぜ私たちに福音の能力が現れないのか?なぜ神様の約束を経験できないのか?信仰の先祖アブラハムは、一歩踏み出す時からひたすら信仰であり、絶対信仰だった。(2018年8月) <続き> [福音祈祷新聞]
キム·ヨンウィ
(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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