[GTKコラム] 神様の愛(7): 神様の愛を反映する

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネによる福音書15:12) 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5:5) 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙一4:7~8)。) わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙一 4:19~21) あなたが信仰を持っているという最大の証拠は何か? 祈祷生活、教会生活、熱心に聖書を読むことなど明確な「キリスト教的な」活動で現れる外的な証拠であるか? あるいは体験で感じたことか? もしそうなら、その体験は神様や御言葉があなたに感情的な反応を起こすのか、それとも単にあなたの中で働く聖霊様に対する「感じ」なのか? 全部違う。 信仰の最も確実な証拠は、あなたがどのように行動したり感じたことではなく、あなたの愛だ。愛は人が神を知っているという最大の証拠だ。 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙一4:7~8)。) この一節は愛することと神の愛を受けていることが明らかに連結されていることを指摘する。逆に言えば、愛がないということは神様を知らないと言う。 私は今日の感情的な愛の概念について話しているのではない。新しくなった心から流れ出る愛は、神様が生まれ変わった人々の心に注いでくれる純粋な愛だ(ローマの信徒への手紙5:5)。 宇宙の創造主は無限の知恵でご自分の愛の属性を示すために罪人たちを選んだ。神様は選ばれた者たちに救いの愛を注いでくださった。その愛がその方の民の間に愛を生み、その愛は私たちの堕落した世の中で3つの重要な目的を成す。 愛は信じない世の中に神を証する 神様の愛が私たちの人生で光を放つ時、それは私たちがその方に属しているということを信じない世の中に証拠する。イエス様はこうおっしゃった。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネによる福音書13:35) 同僚キリスト教徒に対する私たちの愛は、真の弟子たちを偽者のふりをする人々と区別するリトマステストだ。 ジョン·マッカーサー(John MacArthur)はこう語った。 「教会が正統な教理を持っており、真理を宣言することに活動的だが、信者が互いに愛さなければ不信者を説得させることはできないだろう。実際、イエスは世の中が他のキリスト教徒を本当に愛しているかどうかに基づいて、誰がキリスト教徒なのかという判断をする権利を世の中に与えた。」 私たちはこの真理に照らして、自分自身と他のキリスト教徒との関係を考えなければならない。 私たちは自分たちの人生を見守っている不信感者にどのようなメッセージを伝えているのか? 愛は救いの確信をもたらす 教会に出席することで救われない。しかし、教会に出席することが救われた証拠にはなれる。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15:12)というイエス様の戒名は信じる者の集まりの中で見つけられる最も強力な表現だ。 イエス様がおっしゃるキリストの中で兄弟姉妹を愛することに対する重要性は、なぜ私たちが地域教会に献身しなければならないことと、なぜ「オンライン教会」が常に不適切なのかを説明してくれる。真のキリスト教は、他のキリスト教徒と顔を合わせて相互作用することで立証される。愛しやすい人々と愛しにくい人々、すなわち聖化の過程にいる罪人たちを愛するよりキリストの姿で育つことができるより良い方法は何だろうか? 逆に、私たちが兄弟を愛することができなければ、神に対する私たちの愛が不足していることを表わすのだ。 誰もが神を愛し、その兄弟を憎めば、これは嘘をつく者だから見るところ、その兄弟を愛さない者は見ることができない。神を愛することができない。私たちがこの戒名を主から受けたのだから、神を愛する者はまたその兄弟を愛するだろう(ヨハネの手紙一4:20~21) 神と教会に対する真の愛は、真のキリスト教のしるしである。なぜならジョン·マッカーサー(John MacArthur)の言葉のように、愛する能力は神様の御業で起きた内的変化の外的な実だからだ。 全ての真の信者はこの愛を持っており、その愛を持つすべての人々は真の信者である。 この種の愛は人間の意志で作られるものではない。その愛は信者の心の中に神様が直接なさったものだ。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一4:19)。神に対する愛と信仰の仲間を愛することは、新しい生命を得た人々に必ず起こることだ。 そのような愛で”神の本性にあずからせていただく”者となった(ペトロの手紙二1:4)。 愛することが神様の本性であるように、愛はその方の真の子供たちの特徴だ。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5:5)。 したがって、敬虔な愛は信仰の真実を確認する最も重要な試験の一つである。 愛は神の愛を反映する 完全な動機で愛することは神の愛だ。  「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一4:19)。 私たちがまず愛さなければならない対象は同僚信者だが、愛に対する私たちの責任はそこで終わらない。 愛せよという主の命令は、すべての人々を受け入れるために教会の外に広がる。 テサロニケ人のためのパウロの祈りは「お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」(テサロニケの信徒への手紙一3:12)だった。 彼はガラテヤの人々に「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」と勧めた(ガラテヤの信徒への手紙/6:10)。 そう言いながら、私たちは他人に見せる愛を、特に悔い改めない罪人に伝道することと混同してはならない。人々を愛することは福音ではない。福音に代わるものでもない。むしろ愛は私たちが福音を伝えようとする動機を与え、福音を美しく飾ってくれる。 私たちが不信者に福音を伝えるのは、私たちが彼らを愛しているからであり、彼らが滅びることを望まないからだ。そして、失われた人を愛することが私たちの本当の動機なら、不信者はたいていそれを感じる。さらに、私たちは神様を愛しているので福音を伝え、その方の偉大な名前を宣言してその方に栄光を向けることを望んでいるので福音を伝える。 私たちは神の最も偉大な愛の行為、特に十字架を模倣することはできない。しかし偉大な愛の神様に向かう道の中で人々を愛するので、その方が私たちに注いでくれた愛(ローマの信徒への手紙5:5)を表すことができる。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 […]

[GTKコラム] 神様の愛(1):何が問題なのか?

一見すると、神の愛は深刻な神学的問題とは思えない。愛についての言葉として、ヨハネの手紙一4章8節より明確な言葉はないだろう。 「神様は愛だ。」この言葉は最も確実に神様を描写することなので、多くの人々に愛されている。 人々はどれほど簡単にこう言うのか。 「神様は愛だから決して____をしない。」その言葉の本当の意味は、「私は愛が何なのか知っている。 私は自分の思い通りに神を受け入れる」だ。これは今の多くの人々が、さらには多くの教会の聖徒でさえ受け入れている巧妙な形の偶像崇拝である。 問題は神様が愛するかしないかではない。問題は人々が宣言する神様の愛が、彼らが実際に話している最初の手がかりかということだ。そうだ。神様は愛である。しかし、愛がその方のすべてだとか、愛がその方に対して私たちが知らなければならないすべてだというとんでもないミスは犯してはならない。 神様の愛と神様がどんな方なのかについて無知な人々があたかもよく知っているかのように権威を装って人々に話してきたために今の神様の愛に対する問題は非常に曖昧になり混乱するようになった。 感じより大きいものだ 今の文化で堅固な愛の定義を見つけるのは容易ではない。ほとんどの人はそれを定義せず、単に自分が感覚的に感じることを愛だと信じてしまう。しかし、世の中で流行する愛の概念はせいぜいバラダーとロマンチック映画、急速デートのようなものに過ぎない。 ジョン·マッカーサーは好色的な愛と聖書的な世間観の間に横たわっている深い谷間を悲しみながらこのように話した。 「大衆的な歌で私たちが聞く愛はほとんどいつも感じを描写する。その感じはほとんど果たせなかった欲求を表している。ほとんどの愛の歌は、愛を感情的なものに変えるだけでなく、無意識的なものに変えている。恋に落ちる。彼らは恋に落ち、自分自身をコントロールできない。 愛をコントロールできないことで特徴づけるのは格好良く見えるかもしれないが、そのような「愛」はもう少し考えてみれば利己的で非理性的な愛だということが分かるだろう。それは聖書が語る愛とは程遠い。聖書によると、愛は抑えきれない欲望ではない。むしろそれは意図的なことだ。本当に愛する人は愛する人のために思慮深く献身する。真の愛は意志的なものであって、抑えきれない感情ではない。 魅力、愛情、あるいは欲望は真の愛の要素ではない。むしろ、それらは実際に真の愛の邪魔になり得る。使徒パウロは、愛は感情や感覚的なものではなく、犠牲的で利他的なものだと話した。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、(コリントの信徒への手紙一13:4~7) コリントの信徒への手紙一13章は曖昧だったり、ただ通り過ぎることができる聖書の一節ではない。そのフレーズは、私が行ったほとんどすべての結婚式場で引用されるフレーズだ(さらには不信者の結婚式でも)。 この言葉は大きな恐れを持って深く考えなければならない言葉であるにもかかわらず、一般的には気分を良くする程度として受け入れられる。 パウロが定義した愛のリストは、つらい自己犠牲と自己否認でいっぱいだ。私たちはそのようなことに熱中しない傾向がある。私たちは何よりも自分のニーズを満たす愛に慣れている。 本当の愛は難しい。実際、私たちが率直なら、パウロが言う基準は私たちが守るにはあまりにも難しいことだ。私たちはこの地で決して高貴な天国の基準を満たすことはできない。ひたすら神だけが可能である。 神は愛だけどひたすら愛だけではない キリストは神の愛の究極の表現である(よはね3:16)。 多くの人はキリストの聖肉神が神の転換点だと考えているが、これは誤りだ。決して神様の性格が「怒り」から「愛」に転換するのではない。 神様は絶対変わらない。 「主であるわたしは変わることがない」(マラキ書3:6、ヘブライ13:8参照)。神様はいつも愛だったが、だからといって他の属性を捨てたわけではない。 神の愛が罪に対する憎しみをなくすものではない。実はその反対だ。 神様のその愛は私たちの罪によって縛られているが、それと同時に私たちの罪によってさらに大きくなる。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:8) 神の愛が神の他の属性(人々に人気のない)に反対したりなくすと仮定するのは間違っている。D.A.Carsonは、神の属性が変わる可能性があると考える人々が教会に蔓延していると話す。 「今、大部分の人々は神様の愛を信じるのにほとんど困難がないように見える。むしろ彼らは神の公義と怒り、全能な神の非論理的な真実性を信じることにはるかに大きな困難を感じている」 さらに、ジョン·マッカーサーは神の怒りについて説教しないことは、実際に神の愛を理解できないことだと主張する。 「私たちは神の怒りに対する真実を忘れている。私たちはその方が罪を憎んでいるという事実を無視してきた。ほとんどの福音主義者は、神は愛だが、怒りの神ではないと言う。私たちは「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヒ10:31)という御言葉を忘れてしまった。 私たちは怒りの神をもう信じない。 私たちは神の義である怒りを正しく理解し、聖なる畏敬の念を回復しなければならない。私たちは神の怒りが悔い改めない罪人に下すという点を覚えなければならない。 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢はわたしを射抜き、御手はわたしを押さえつけています。わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。(詩篇38:1~3) この真実が彼の愛に対して驚嘆せざるを得ない核心だ。したがって、私たちは神の愛を宣言する時、この真理が言っていることと同じ信念と情熱を持たなければならない。ただ神様の怒りを理解する時、神様の愛の完全な意味を正しく理解できる。それがまさにイエス·キリストの十字架のメッセージだ。 神様の愛と怒りがその方の荘厳な充満の中で一緒に現れたのがまさに十字架事件だ。 しかし皮肉なことに、神様が愛であることを信じる人々が神様の怒りについては考えていない。つまり、神様の愛が何かを本当に知っている人はほとんどいないのだ。 神様の愛は、神様と私たちの関係について聖書が語る他のすべてを覆い隠す神学的毛布ではない。神様の愛は、実際に聖書の中でも最も難しい教理の一つである。しかし、この教理は我々が耐えなければならない挑戦だ。多くの人がこれを避けようとするが、愛の教理を正しく知ることは聖書的緊張感に鮮明で調和のとれた答えを提示することだ。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

創造の理由は神様の溢れ出す喜びのためです。

人々は人生の中で多様な喜びを享受します。温かい人間関係において喜びを感じたり、逆境と困難を乗り越えて行く中に喜びを感じたりします。また、夢見ていたことを成し遂げる時にも喜びます。 このように喜びには、さまざまな理由がありますが、一つの共通点があります。それは嬉しいことが起きたら、その嬉しい知らせを他の人に話したくなるということです。このように喜びは溢れ出す属性があります。 そして、喜びの理由の中で最も根本的な理由があるなら、それは存在的喜びでしょう。存在的喜びとは、ある対象が何か優れたことをしたり、功績を挙げなくても、存在すること自体が喜びを与えることを意味します。 例えば結婚して10年以上子供を待っていた夫婦に、ようやく第一子が生まれたとすれば、この子の存在が親に与える喜びがあります。まさに存在的な喜びです。 このように父なる神、御子、聖霊の間には、お互いの存在に向かって無限の喜びがあります。このような三位神様の喜びはお互いに完全な満足を与え、永遠に幸せな愛の交際でした。 そして、神様の中にあるこの無限の喜びは、そのあふれ出る属性に従って、三位の神の中に留まらず、外に爆発するように噴出してきました。このような神様の喜びの表れが創造事件なのです。 神様は御自分の完全な愛と喜びを分かち合う対象を永遠の前から夢見ました。そして、最初の人のアダムを御自分をかたどって作ることと計画されて、彼から始まったすべての生命を自分の息子たちにすることに決めました。 そして、神様は、その御子であるイエス·キリストの中で、この計画を創世前にすでに完成されました。 イエス ·キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって與えてくださった輝かしい惠みをわたしたちがたたえるためです。(エペソ人への手紙1:5-6)[GNPNEWS] 資料提供:ティーアンドアールミッションコミュニティ