主だけに従います!

ただ! 絶対! すべての福音! (14) 神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。(コロサイの信徒への手紙1:25~27) 教会の目的であり、宣教の目的であり、この地に存在する私たちが成し遂げようとするビジョンがある。それは私たちがイエス・キリストを宣べ伝え、すべての知恵で各人を教え、キリストの中で完全な者として立てることだ。 人を嵐と台風に巻き込むこの混雑した世界の中で、あちこち真似して覗き込んで、台風に押されて歴史の向こうに投げられる者ではなく、この台風と嵐の真ん中でも永遠に揺れない絶対真理を握って、ただキリスト が絶対とすべてになった者として立てる事だ。福音がすべてになり、生きておられるキリストがすべてになり、自分の思想と自分の知性と自分の感情と自分の意志、自分の人格すべてがキリストで結論を下した人、ただキリストだけが残った人として立つのだ。 パウロは、彼が経験したすべての人生の結論を十字架で結論を下し、ピリピ人への手紙第1章20-21節で、「私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」と述べている。それは、十字架の福音を通して、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることだから、私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのだ。 アーメン。 パウロの生涯についてイエス・キリストを除いては語ることはできないのだ。 聖なる召しと完全な主の祝福、完全な福音の中に私たちを招かれた主が私たちに与えてくださる最高の祝福は、キリストの中で完全な者で、キリストがすべてになった者になることだ。嵐の渦のような人生の中で神の聖なる救いの働きを成し遂げる主の身である教会、神の聖なる切り株、神の人々はただ、絶対、すべての信仰で、まさにこの福音に生命をかけた従順の人だ。こんな人々を通して、神はこの最後の歴史の救いを成し遂げるだろう。 栄華を極めたけど、主を決して捕まえず、彼を全部とは思えなかった者たち。派手な出発を悲劇的な終末で終わらせた人々サウル、サムソン、ガルトユダの例を忘れてはいけない。その代わりにぼろぼろの出発だったが、主がすべてになり、ただ神だけの人々、ダビデ、アブラハム、そしてパウロを通して主の国をこの地に成し遂げられた。その主が休まずに私たちをキリストの中で完全な者として立てられている。 絶対という言葉を一番嫌いなこの世代の真ん中で神のみを信じて、ただイエス・キリストの生命がすべてになった信仰で、今は自我の呪われた運命を終え、イエス・キリストの命で自身を喜んで主の前にささげ、従うことに決断しよう。 中間地帯はありえない。ただ、絶対とすべての対象が自分なのか、主なのかをはっきりと決断しなければならない。主がすべてにならないようにする自我の余地を断ち切って、ただ主を文字通り全部だと告白し、宣言し告白しよう。「私は真理の側に立ちます。私のすべてを主に任せます。私の未来も私の夢も私の若さも私の家庭も私のすべてのものすべて主に任せます。主よ、私のすべてになってください。」 (2018年8月) <終わり> [福音祈り新聞] キム・ヨン (巡回船教師、LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:press@gpnews.org

神に召された者に求められるもの、「絶対信仰」

ただ! 絶対!全部の福音!(12) アブラハム、ダビデのようにひたすら信仰、絶対信仰で福音を信じた3番目の人はパウロだ。だからといって、彼が資格があって福音を受けた人ではなかった。パウロは自ら言うには罪人の中に怪獣であり、福音に敵対した者であり、殺人した者であり、そして悪行する者だった。彼は十二使徒の仲間入りにもならない非常に邪悪な宗教的秘密警察だった。彼には世の権勢はあったが、イエス様の弟子としては全く似合わない人だった。しかし、彼は説明できない神の恵みを受けた者だった。 彼には復活した主が個人的に教えてくれたことがあったが、それで人々に認められなかった。そのため、彼は教会に手紙を書くたびに、自分は人によるものでもなく、人が立ててくれたものでもないと話す。今で言えば按手も受けられず、学校も通えず、教壇で認定を受けられなかったという話だ。ところが、神様は彼を呼んで十字架の秘密を啓示し、新約聖書の大部分をパウロの手紙で満たしてくださった。 パウロは出産の苦労で教会を建てた。しかし、割礼派のユダヤ人たちは自分の割礼を誇り、律法と系図を持ってパウロが建てた教会を揺さぶり続けた。パウロに対する彼らの攻撃はたった一つだった。パウロがそれだけの資格を備えていなかったということだった。 アブラハムとダビデ、そしてパウロの3人には共通点がある。ただ神様に呼ばれた者たちだという事実だ。このため、彼らには人々の認定や評判や利益や保障のためではなく、ただ呼ばれた神様が全てだった。 不利な条件の中でも、彼らにとって実際は生きている神だった。誰とも代えられない絶対的な信頼だった。驚くべき信念の根拠を持つ人々には、彼らに責任を負う組織や教団、権威、またはいかなる保証も彼らにとって信仰の条件にはならなかった。神様が彼らに要求されたのは絶対信仰だった。 神様は今日も私たちを呼ぶ。私たちはその方を絶対的な神として知って、主はキリストであり、生きている神の息子だと告白するその信仰に進まなければならない。誰でも神について行くためには、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負ってこそ、神について行くことができる(ルカ9:23)。イエス様を選択するという言葉は、多くの中で一つを選ぶことではない。相対的に高い比重で誠意を持って従うということではない。絶対であり、ひたすらであるべきだ。アーメン. (2018年8月) <継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

[GTKコラム] 神様の愛(1):何が問題なのか?

一見すると、神の愛は深刻な神学的問題とは思えない。愛についての言葉として、ヨハネの手紙一4章8節より明確な言葉はないだろう。 「神様は愛だ。」この言葉は最も確実に神様を描写することなので、多くの人々に愛されている。 人々はどれほど簡単にこう言うのか。 「神様は愛だから決して____をしない。」その言葉の本当の意味は、「私は愛が何なのか知っている。 私は自分の思い通りに神を受け入れる」だ。これは今の多くの人々が、さらには多くの教会の聖徒でさえ受け入れている巧妙な形の偶像崇拝である。 問題は神様が愛するかしないかではない。問題は人々が宣言する神様の愛が、彼らが実際に話している最初の手がかりかということだ。そうだ。神様は愛である。しかし、愛がその方のすべてだとか、愛がその方に対して私たちが知らなければならないすべてだというとんでもないミスは犯してはならない。 神様の愛と神様がどんな方なのかについて無知な人々があたかもよく知っているかのように権威を装って人々に話してきたために今の神様の愛に対する問題は非常に曖昧になり混乱するようになった。 感じより大きいものだ 今の文化で堅固な愛の定義を見つけるのは容易ではない。ほとんどの人はそれを定義せず、単に自分が感覚的に感じることを愛だと信じてしまう。しかし、世の中で流行する愛の概念はせいぜいバラダーとロマンチック映画、急速デートのようなものに過ぎない。 ジョン·マッカーサーは好色的な愛と聖書的な世間観の間に横たわっている深い谷間を悲しみながらこのように話した。 「大衆的な歌で私たちが聞く愛はほとんどいつも感じを描写する。その感じはほとんど果たせなかった欲求を表している。ほとんどの愛の歌は、愛を感情的なものに変えるだけでなく、無意識的なものに変えている。恋に落ちる。彼らは恋に落ち、自分自身をコントロールできない。 愛をコントロールできないことで特徴づけるのは格好良く見えるかもしれないが、そのような「愛」はもう少し考えてみれば利己的で非理性的な愛だということが分かるだろう。それは聖書が語る愛とは程遠い。聖書によると、愛は抑えきれない欲望ではない。むしろそれは意図的なことだ。本当に愛する人は愛する人のために思慮深く献身する。真の愛は意志的なものであって、抑えきれない感情ではない。 魅力、愛情、あるいは欲望は真の愛の要素ではない。むしろ、それらは実際に真の愛の邪魔になり得る。使徒パウロは、愛は感情や感覚的なものではなく、犠牲的で利他的なものだと話した。 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、(コリントの信徒への手紙一13:4~7) コリントの信徒への手紙一13章は曖昧だったり、ただ通り過ぎることができる聖書の一節ではない。そのフレーズは、私が行ったほとんどすべての結婚式場で引用されるフレーズだ(さらには不信者の結婚式でも)。 この言葉は大きな恐れを持って深く考えなければならない言葉であるにもかかわらず、一般的には気分を良くする程度として受け入れられる。 パウロが定義した愛のリストは、つらい自己犠牲と自己否認でいっぱいだ。私たちはそのようなことに熱中しない傾向がある。私たちは何よりも自分のニーズを満たす愛に慣れている。 本当の愛は難しい。実際、私たちが率直なら、パウロが言う基準は私たちが守るにはあまりにも難しいことだ。私たちはこの地で決して高貴な天国の基準を満たすことはできない。ひたすら神だけが可能である。 神は愛だけどひたすら愛だけではない キリストは神の愛の究極の表現である(よはね3:16)。 多くの人はキリストの聖肉神が神の転換点だと考えているが、これは誤りだ。決して神様の性格が「怒り」から「愛」に転換するのではない。 神様は絶対変わらない。 「主であるわたしは変わることがない」(マラキ書3:6、ヘブライ13:8参照)。神様はいつも愛だったが、だからといって他の属性を捨てたわけではない。 神の愛が罪に対する憎しみをなくすものではない。実はその反対だ。 神様のその愛は私たちの罪によって縛られているが、それと同時に私たちの罪によってさらに大きくなる。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5:8) 神の愛が神の他の属性(人々に人気のない)に反対したりなくすと仮定するのは間違っている。D.A.Carsonは、神の属性が変わる可能性があると考える人々が教会に蔓延していると話す。 「今、大部分の人々は神様の愛を信じるのにほとんど困難がないように見える。むしろ彼らは神の公義と怒り、全能な神の非論理的な真実性を信じることにはるかに大きな困難を感じている」 さらに、ジョン·マッカーサーは神の怒りについて説教しないことは、実際に神の愛を理解できないことだと主張する。 「私たちは神の怒りに対する真実を忘れている。私たちはその方が罪を憎んでいるという事実を無視してきた。ほとんどの福音主義者は、神は愛だが、怒りの神ではないと言う。私たちは「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヒ10:31)という御言葉を忘れてしまった。 私たちは怒りの神をもう信じない。 私たちは神の義である怒りを正しく理解し、聖なる畏敬の念を回復しなければならない。私たちは神の怒りが悔い改めない罪人に下すという点を覚えなければならない。 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢はわたしを射抜き、御手はわたしを押さえつけています。わたしの肉にはまともなところもありません。あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません。わたしが過ちを犯したからです。(詩篇38:1~3) この真実が彼の愛に対して驚嘆せざるを得ない核心だ。したがって、私たちは神の愛を宣言する時、この真理が言っていることと同じ信念と情熱を持たなければならない。ただ神様の怒りを理解する時、神様の愛の完全な意味を正しく理解できる。それがまさにイエス·キリストの十字架のメッセージだ。 神様の愛と怒りがその方の荘厳な充満の中で一緒に現れたのがまさに十字架事件だ。 しかし皮肉なことに、神様が愛であることを信じる人々が神様の怒りについては考えていない。つまり、神様の愛が何かを本当に知っている人はほとんどいないのだ。 神様の愛は、神様と私たちの関係について聖書が語る他のすべてを覆い隠す神学的毛布ではない。神様の愛は、実際に聖書の中でも最も難しい教理の一つである。しかし、この教理は我々が耐えなければならない挑戦だ。多くの人がこれを避けようとするが、愛の教理を正しく知ることは聖書的緊張感に鮮明で調和のとれた答えを提示することだ。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブエット(Cameron Buettel) | グレーストゥコリアのコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本誌と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]神様が私に天国になる時

”神様は天国に行く唯一の道では終わらない。天国が天国なのは神様がそこにいらっしゃるからだ。” 福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。 人々はしばしば人生の重要な瞬間を「神様が私の世界をひっくり返した日」と描写する。思いがけない経験と対話、または試練が自分自身と人生、人間関係、周辺世界を見る方式を根本的に変える。私の場合には大学2年生の時、神様が私が考えていた天国をひっくり返した。 私はキリスト教の家庭に生まれ、愛が溢れるキリスト教徒の両親に育った。その事件が起こった時にも大学生だった私は明らかなキリスト教徒だった。ほとんど毎日聖書を読み、祈りを抜けなかった。正統教会に熱心に出席して周りには成熟して主に似ようとするキリスト人の友人たちであふれた。甚だしくは私は高校生に福音を伝えて彼らをきりすとの弟子にする使役にまで関与していた。その頃、ある瞬間、ある事件が起きた。それを一つの文章で言えば、突然福音が全く新しい意味で、全く新しい色彩で、そして新しい強烈さと喜びで私を巻きつけた。 私を福音の中にさらに深く導くためには、神様が先に私に会わなければならなかった。その出会いは実に甘い対面であり、最も満足できる訓戒だった。私が会った文章は私を座っていたその場で身動きが取れなくしてその後も決して私を去らなかった。 キリストは神を見て吟味するより、他のことをより尊く思う罪人を許すために死ななかった。キリストがいない天国でも、いくらでも幸せになれる人は天国に入ることができないだろう。福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。(ジョン·パイパー、神様が福音だ、47)。 今の時代に向けた質問 福音は人々を神様に導く道だ。福音は私を神様に導く道だ。それは荒廃と恍惚感を同時に与える珍しい悟りだ。なんで荒廃してるのかって?福音に会う前まで私たちがどれほど間違っていたかを悟らせるためだ。恍惚感は?一度も足を踏み入れたことのない土地、一度も航海したことのない海に出会うようで、想像もできなかった素晴らしい食べ物を食べる喜びを与えるからだ。 神様は天国に行く唯一の道で終わらない。天国が天国であるのは神様がそこにいらっしゃるからだ。神様は立派な食事だ。荒々しく驚異的な海だ。畑に隠した宝であり、貴重な真珠である(マタイ13:44-46)。 ジョン·パイパーは全く忘れられない驚くべき質問で、神様自身がどれほど卓越したプレゼントなのかを強調する。 私たちの世代だけでなく、すべての世代を問わず重要な質問はこれだ。あなたが天国に行ったとしよう。病気もなく、望むすべての友人がそばにいて、毎日好きな食べ物を食べて、各種余暇活動にまた毎日目の前で繰り広げられる自然の美しさ、味わうことができるすべての肉体的快楽に人間関係の葛藤や自然災害のない天国、そこで今あなたが生きているとしよう。ところでただ一つ、キリストがそこにいなければ、それでもそこがあなたにとって天国なのか?依然としてあなたは満足できるだろうか?(ジョン·パイパー、神様は福音だ、15) あなたはどうか。 私はどうなのか?これは私にとって天国自体を揺るがした質問だった。私はキリストがいない天国でも満足できるだろうか。そうでなければ、永遠に渇望するほど天国を本当に価値のある対象にするのがキリストなら、私は今なぜこの地でその方をもっと知り、より多く享受するためにもっと努力しないのか。 誰が天国なのか。 「福音は人々を天国に送る道ではない。福音は人々を神様に導く道だ。」神様は何とおっしゃるのか。その方が御自分について、そして福音と天国について本当にそうおっしゃるのか。 使徒パウロは神様が福音の中で最も大きなプレゼントであることを知った。”しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(フィリピの信徒への手紙3:7-9)。 世界のすべてを凌駕する真の宝物は、その方を知ること、その方を得ること、そしてその方を持つことだ。 キリストはなぜ十字架で死んだのか。使徒ベドロは言う。 ”キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。”(ペトロの手紙一3:18)。その方は私たちがただ許され地獄の苦痛から解放されるためだけでなく、私たちが神を持つように苦難を受けて血を流しながら死んだ。 罪がもたらす最悪の結果は硫黄の火ではなく分離である(テサロニケ一1:9)。様々な理由で地獄は苦しくて惨めだろう。呪われた者たちも依然として神の臨在を経験するだろうが(黙示録14:10)、それは恩恵と喜びではなく恐ろしい怒りだ。彼らは決して神を享受することができないだろう。 しかし拘束された者たちは”私は神の祭壇へと、わが喜びなる神へと近づき、琴を奏でて、あなたをたたえます。神よ、わが神よ。”(詩編43:4)と歌う。 ”命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさが永遠にありますように。”(詩篇16:11)。 喜びと楽しさがただその方のそばまたは周囲にだけあるのではない。何よりもその方の中に喜びがある。その方は喜びそのものだ。楽しみそのものだ。その方の居られる所が楽園だ。私たちが愛して渇望する他のすべてが消えても、その方さえいらっしゃれば、そこは楽園だ。 キリストの中で私たちは今も部分的にその方の臨在を経験する。そうだ。私たちの中に残ってある罪とその結果がその方の臨在を妨害するけど神様が私たちの喜びになる時、私たちは今も真の喜びを味わうことができる。私たちは日常で今も快楽、永遠の快楽を味わう。そのために、詩編42編のような祈りを捧げることができる。”鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。”(詩42:1-2)。 救いや許し、治癒や供給、安心や和解のためではなく、ひたすら神様を渇望する。神様がくださる善良で完全な贈り物を渇望するわけでもない。 そのすべての贈り物より遥かに優れた贈り物、まさに神様、その方を渇望する。 新しい空と新しい地で天国 天国を待って熱望する時、私たちの中の多くの人がヨハネの黙示録21:4のような約束にしがみつく。”彼らの目からすべての涙を拭いてくれるので、二度と死がなく、悲しみも泣き叫ぶことも苦痛もないだろう。以前のものが全て消えてしまったためだ。”これ以上の涙も、これ以上の死も、これ以上の悲しみと泣き叫び、苦痛もない。私たちはこのようなすべての苦痛が消えた世の中が与える甘さ、だから影が全くない世の中を想像することができない。 しかし、天国はただ悪いことがないところと定義されない。天国はすべてを満足させるあり(presence)と定義されるだろう。神様が私たちのために天国になる時、3節は4節が含んでいる貴重な約束さえも隠してしまう。 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。 … そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、(黙示録21:1,3) 罪と悲しみ、死のない世の中よりもっと良いものは何だろうか。神様と共にする世の中だ。そうだ。その方は私たちの涙を拭いてくれるだろう。そうだ。その方は私たちの傷を癒して病気を治療してくれるだろう。そうだ。その方はついにその恐ろしい敵、死をなくすだろう。そのすべての祝福が無限に大きいけど、神様を所有して神様の所有になることに比べれば、そのすべての祝福は海のそばの水たまりに過ぎないだろう。私たちが流すすべての涙を拭いてくれる神様が私たちの神様だ。すべての癌を治す神様が自分自身を私たちに、つまらない私たちにくださるだろう。墓を空けて死を転覆させることができる神様が私たちのそばで永遠に私たちを守るだろう。 神様が私のためにできるすべてのことに目がくらみ、神様その方自体が私にどんな意味なのかを忘れるミスをしないようにしよう。水たまりで遊ぶのに夢中になって広大な海を逃す愚かな人になってはならない。神様を中心に置かないいかなる天国にも満足してはならない。 [福音祈祷新聞] |マーシャル·シーガル(MarshallSegal)||マーシャル·シーガルは作家であり、desiringGod.orgの責任編集者だ。 Bethlehem College & Seminaryを卒業し、韓国語で訳された「まだ結婚していないあなたへ」の著者である。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年に米国で設立されたTheGospelCoalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者>手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム]罪とイエスの使役

イエス様が行われようとしたのは何だろうか? 彼の死と復活は現実に実際的な影響を及ぼすことだったのか? あるいは永遠の問題に全ての焦点を合わせたのだったのか? 聖なる神様の息子が、自分の栄光を捨てて、人の形を取って、義を貫いた人生を生きて、他の人たちの罪のために喜んで自分を完全ないけにえとして捧げたことを考えてみよう。その全ての事が罪を無くさないで、単純に罪を許すための目的だっただろうか? 使徒ヨハネは手紙の受信者たちが自分たちの信頼の真実性を試験するのを援助するために最初のソシン書を書いた。 このようなテストは、キリストの使役が彼らの人生に必然的に影響を与えているかどうかを試すものだった。 そして彼はヨハネの手紙一3:5-8で私たちを代わりにしたキリストの使役は彼の庶民の暮らしが画期的に聖化するのに影響を及ぼすためのものということを明らかにした。 "あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネの手紙一3:5-8) 私たちの代わりのキリストの御業 イエス様が私たちのためにこの地に”罪を除くために”(ヨハネ一3:5)来られた。彼は罪の代価を払うためにいらっしゃっただけでなく、罪を許すためにいらっしゃったし、すべての罪をなくすために来られた。キリストの贖いで信じる者は皆罪から分離された。一時、彼らの生活の特徴とも言える不法が除去された。 したがって、キリストの十字架の拘束でキリストの生命を共に分かち合った人が罪の中に生きるということはつじつまが合わないことだ。 つまり、イエス様は信じる者を聖火させるために死んだため(コリント第二5:21)、罪の中に生きることは信じる者の人生で罪の権勢を破った彼がされたことと反対であることだ(ローマ6:1-15参照)。 罪を滅ぼすために来られたイエス様の真理は単純に未来の希望ではなく、今起きている現実だ。ある人は、信じる人は死ねば罪から拘束されるが、死ぬ前には彼らが依然として罪の中にいる可能性があると言う。しかし、ヨハネはそうではないと話す。聖化の過程は遅くて漸進的に起こりうるが、救われた後に人生を変えるキリストの作業は即刻起きる事件である。(フイリピ1:6) 救われた瞬間、信じる者は本当にきれいになり、彼らの罪から分離されることを経験する。実際、その分離は彼らがイエス様の姿をより一層似ていきながら進行される。 テトスへの手紙2:11-14は、聖化の現在と未来の様子をよく説明している。“その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。" したがって、キリストが十字架でされた一度の業は、私たちの人生の中で彼が持続的にされることの始まりだった。 しかし、何がそれを持続的にできるようにしたのだろうか。 私たちがこの世で罪に勝てるようにするどんな変化が起きたのか。 キリストの中で私たちの新しい性格 ヨハネは5節を"彼には罪がない"という言葉で終えた。イエスは罪と何のかかわりもない方だ(コリント第二5:21)。この事実は実際的に大変な波及効果がある。ヨハネは手紙の前頭に”あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。”(ヨハネ第一2:29)と話した。神の救いの能力が新たに信ずる者に与える場合、彼らは生まれ変わって、新たな性格を受ける。そしてまるで生まれたばかりの赤ん坊のように神様の国で暮らすことを学ぶ生活を始まる。 その後に使徒は6節でキリストの御業で救われた人の特徴を説明している。 “御子の內にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく知ってもいません。”キリストの内にいるのは彼の法に従って彼の勝利を記念し、彼の王国に住むのと同じことだ。簡単に言って新たになった人は罪を遠ざけてキリストと近くなる。数年前にパウロは同じ真理をローマ聖徒たちに教えた。 “わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。”(ローマ人への手紙6:4-7) この言葉は新約聖書の中心を要約したものである。(エゼキエル36:25-31)パウロは続いてさらに詳しく説明した。 “しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。”(ロム6:17-18) パウロが強調するのは聖化である。 真のキリスト教人には聖霊様がいらっしゃる(ローマ8:12-17)。 新しい心を受け、(使徒行伝16:14)、完全な許しを受けて(1:14)、そして新たな生を受けている(コロサイ3:5-10)。 このすべてのものが神様の法に従う新たな能力で証明される。 聖火と確信"罪を犯す者"(ヨハネ第一3:6)はキリストの内にいることはできない。 この言葉はキリスト人になった人は二度と罪を犯さないということではない(ヨハネ第一1:8)。しかし、彼らは彼らが生きてきた人生を再び生きることはないだろう。なぜなら"御子を見て彼を知っている人は"(3:6)習慣的に生まれ変わっていない人のように"罪を犯さない"からだ。 ヨハネはさらに、手紙の受信者に対し、聖化について正しく理解していると騙されているのではないか確認するようにと注意した。逆に偽りの教えがあるが、ただ"義を行う"者だけが"イエス様が義であるように義である"(ヨハネ第一3:7)という確信を持つことができる。 ヨハネははっきりと結論を下した. "悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネ第一3:8)本当に信じる者たちが悪魔のような行動を続けることは不可能なことであり、考えられないことだ。 今、サタンは依然として神様の計画と神様の人々を対敵する(べテロ一5:8)。しかし、信じる者はもはや彼の影響の下にいるか、彼の支配の下にはいない。キリストを知り、キリストを愛する私たちは罪の束縛から自由になった。そして聖霊の感動を受けた使徒ヨハネは、「私たちはそのように生きなければならない」と話す。 これまで我々は罪のある生活様式は罪が不法であるため、救われる信仰と似合わないということを見た。そして、本当に信じる者は、その反抗的で不法な心を悔い改める心に変えたため、罪のある生活様式は救われる信仰とは似合わないということを調べてみた。今、私たちはどうやってイエス様の使役が私たちの罪を許すだけでなく、一生にかけて進行される聖化の過程を始めるということを調べた。 ヨハネは最後に罪がなぜ救われる信仰と似合わない理由を言う。そして、それは止まない御霊の使役に焦点を合わせたものである。 私たちはその最後の問題を次に調べて、このシリーズを終える。 [福音祈祷新聞] (上記の文章はジョン·マッカーサーの新約注釈:ヨハネの手紙一–三から抜粋したものです。) 出所:http://www.gty.org/blog/B140626?term=b140626 |ジョン·マッカーサー||グレイストゥコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起きるすべてのことを聖書の言葉から答えを探そうとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGracetoKorea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム]ジョン·パイパー_もっと良い天のお父さん。

イエス様は’あなたにお父さんがいらっしゃる’という激励をおっしゃっています。’君に天の父がいらっしゃる’という次元を越えておっしゃっています。’あなたに完璧な父親がいて、その方は悪い方ではない’とイエス様は対比させます。神様は悪い方ではありませんが、すべての父親は悪いと。もし最高の父をもうけたなら、これから良いことがあるでしょうが、神様はその良い父より1万倍も良い父だということです。実は私は詳しく調べてみて、とても小さな違いがあると言いたい誘惑を受けます。ここで言い間違えたらダメなんですが。これを深く考えてみませんでした。良いお父さんと悪いお父さんの違いがこれくらいなら、神様と良いお父さんの差は無限です。いわばそうだということです。悪い父と希望する父の間には大きな差がありますが、その差は神様と良い父の間の差と比べてみたらとても小さいです。神様の父性に対する理解を皆さんの父に対する経験に照らして制限しないでください。皆さんのお父さんがどんなに良くても悪くても関係なくです。[福音祈祷新聞] ジョン·パイパー(JohnPiper)|ジョン·パイパーはdesiringGod.orgの創立者であり、Bethlehem College&Seminaryの総長として33年間ミネソタ州にあるBethlehem Baptist Churchの担任牧師として仕えた。代表作に’神様を喜びなさい’があり、最近著述した’私がパウロを愛する30個の理由’の他に50冊余りの本を著した。 この映像は改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org