[イアチムコラム] 神を見つめると喜びが湧き上がります

主に 望みをおく人は 新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、步いても疲れない。(イザヤ40:31) 主を待ち望むことが大切です。今日、この聖句と「視線」という賛美歌の歌詞が同じように心に響いて、涙を堪えるのに必死でした。主を待ち望めば、新しい力を得ます。神を経験すればするほど、神の驚くべき計画と摂理が完璧に感じられます。 それを知らずに生きてきたことを非常に後悔しているので、神を完全に信頼する心がさらに深まります。神がこれから行われる新しいことが期待され、驚くべきことであり、安心できます。私は1日2時間40分ほど祈りますが、ある日祈りの量が減ったときに、神に感謝しました。これまでの祈りの内容は大半が「知らないから、不安だから、心配だから」というものでした。神に上げられる祈りではなく、どん底に行く祈りでした。 今は祈りの量は減りましたが、深さが増しています。今は神に心を寄せるために祈ります。私を知っている神を信頼し、私の心を神に寄せることを決めて祈ります。「神様、心配と不安が予想されます、神様、満たしてください」と祈りましたが、実は自分のために祈っていたのです。 今は神が信じられるようになってきました。だから神に心を寄せ始めました。神を見つめ始めました。どのように待ち望み、どのように見つめるのでしょうか。十字架で一つになる道以外にはありません。 イエス様は、父なる神がなさったことだけを見て従っていきました。私もそれに倣いたいと思います。イエス様は、裏切り者ユダが自分を売ると前もって知っておられました。しかし、売られることへの渇望はありませんでした。心が実際に揺れ動くことはありませんでした。欺かれることもありませんでした。私はイエス様の祈りの力が理解できるようになってきました。その心を私にも与えてくださるよう神に祈りました。 イエス様はその出来事を見ても、心が揺れ動くことはありませんでした。むしろ、悲しみを感じ、裏切り者ユダに「お前は生まれなければよかったのに」と言われました。渇望の問題ではありません。イエス様は父なる神と心が一つになっておられました。 その神の心が与えられれば、すっきりします。天から頼もしい「後ろ盾」が降りてきます。ダビデの心が降りてきます。使徒パウロも、イエス様のように自慢屋です。使徒言行録26章で、パウロは、ユダヤ人アグリッパ王とギリシャ人フェストス総督の前で弁明します。 捕らえられて王と総督の前に引き出されたパウロは、尋問されながらも、ただイエス・キリストが救い主であること、そしてイエス様が十字架で死なれたことだけを話します。すると王と総督は、そのわずかな学問で自分を改宗させようとするのかと言うと、パウロは、自分が尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと言います。王の前で囚人が堂々と、尋問されていることを除いては、すべてが自分と同じであってほしいと叫びます。自慢です。話が通りますか? 使徒パウロの心は、この世とまったく結びつきがなかったため、この世に何の渇望も感じていない状態だったからこそ、そのような自慢ができたのです。神と密接に結びついていて、神の美しさに夢中になっていました。天の栄光を実際に見たからこそ、総督にあのように語ったのです。「尋問されていることを除いては、すべてが私と同じであってほしい!」皆さんも私に倣っていただきたいと祝福します。渇望を感じるたびに十字架に走り、天の栄光が臨む業が何であるかを深く悟るようになりますように。イエスの御名によって祝福します。 エピローグ 渇望が起こるときは、渇望が呼び求めるものがあります。そのときは心配と腹立たしさが湧きます。しかし、神を求めるときは笑顔になります。その神秘を必ず一緒に経験しなければなりません。他のものに対する渇望を感じるときは神経を使い、エネルギーを使い、落ち着きがなくなりますが、神を見つめると喜びが湧き上がります。神を求めれば表情が変わります。だから見分けることができるのです。神を求めることを祝福します。 しかしヤコブよ、あなたは私を呼ばなかった。イスラエルよ、あなたは実に私を疲れさせた。あなたは焼き尽くすいけにえの羊を私のもとに引いて来ることもなくあなたのいけにえで私を崇めることもなかった。私は穀物の供え物の重荷を負わせたことも、乳香であなたを疲れさせることもしなかった。あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなくいけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。かえって、あなたの罪で私に労苦させあなたの過ちで私を疲れさせた。(イザヤ43:22-24) イスラエルの民は神を求めました。祭りを捧げました。しかし、神は「祭りを捧げたことがない」と言われます。なぜでしょうか。 30代、40代の母親たちが集まると、塾の話をします。塾の話をしていますが、実は子供の話をしているのです。30代、40代の会社員が集まると、仮想通貨や株の話をします。仮想通貨の話をしていますが、実は金銭の話をしているのです。株の話をしていますが、金銭を呼び求めているのです。 イスラエルの民が神を呼んでいましたが、神を呼んでいたのではなく、欲求を満たそうとしていたのだと言うのです。欲求を呼び求めていたのです。それを悔い改めなければなりません。真に神の人となり、十字架に走って主と一つになる業が深く起こりますように。イエスの御名によって祝福します。 イ・アチム牧師 | 「神の御心に適うと見なされた教会」の担任牧師。次世代のために「トブ・原型学校」を運営しており、信徒たちが日常生活の中で信仰の実践を経験できるよう養育している。著書に『主が咲かせてくださるように』(トブ・ウォンヒョン出版社、2020年)、『はい、主よ。私は従順の専門家です』(トブ原型出版社、2019年)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈りの新聞。出典を明記して使用してください。> 情報提供および問い合わせ:gpnews@kakao.com

すべての状況を変化させる能力、福音!

神様の約束と誓い(3) 自分の心を自由に統制できれば、この世に悩む人がどこにいるだろうか?神様の御言葉が正しいと思って、御言葉通り従順にしようと決心したら自然にそうなれば、牧師がなぜ必要であり、牧会が何が難しいだろうか。自分の人生を自分が任意に調節することが最も不可能なことだ。 あれほど永生を追求して努力して律法を破ったことなく最善を尽くしてきた金持ちの官員に、イエス様がお金または永生から永生を得る道は二つのうち一つを選ぶことしかないと教えてくださった。神様の永遠の祝福を享受する永遠の生命がなぜお金と比較されるのか。見えない永生より一瞬享受するお金の誘惑があまりにも強いからだ。 そのため、目に見える誘惑に勝てず、永生を目の前にしても捕まえないまま、このお金に対する愛着と情欲に引かれていくのだ。 ルカによる福音書18章に出てくる金持ちの官員は、幼い頃から律法を破ったことのない模範青年だった。その上、ユダヤ人であり、母胎信仰である彼が永生と金の中でどれを選択するのが正しいことなのか区分できないだろうか。ところが、お金が永遠でないことを明らかに知りながらも結論を出せずに滅亡の道に転じるのがあきれた人間の実状だ。 十字架の福音を聞いて信仰に背を向けさえすれば、地獄から天国に運命を変えることができる。ところが、福音をそんなに聞きながらも決断できず、一生引きずって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いのか。厳重な警備網で囲まれた休戦ラインよりさらに堅固に越えられないのがまさに自分の心の境界だ。神様を離れて敵になった私たちの心を振り返って神様に向かわせることができるのは福音しかない。救いは人としてはできないが、ただ神としてはできる神の能力だ。人間の救いと変化は絶対に人から出ることができず、神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能だ。 教会が神様の召命を忘れてしまえば、現実に追われて召命の席を離れ妥協して変質せざるを得ない。したがって、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。神様の能力が私たちにあってこそ、教会は真の神様の呼びかけの場に立つことができ、世の中を変えることができる。 生きている神様がこの世の中を祝福する唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。エペソ人への手紙1章17節から23節までは福音の栄光と能力と祝福に対してこのように話す。「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 私たちの霊が死んで神様を感じる機能が消えた。私たちが霊的に目覚めて霊の目が開かれ、私たちの心霊に霊の機能が蘇る時に神様に会うことができる。聖霊と真理が私たちのこの鈍くなって呪われた霊の機能を回復させれば、生きている神様の言葉を理解することになる。それがまさにこの祈りのようになるのだ。 「わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるように」 アーメン。(2018年9月)<継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

【TGCコラム】福音の中で信仰の対象は実際だ

約2年前、ある記者が当時オーストラリア聖公会教会の首長であったパース市の大司教に質問をしました。「イエスの墓が発見されたと仮定してみます。イエスが死から復活せず、彼らが発見した死体がイエスという信憑性が非常に高いとすれば、これがキリスト教信仰にどのような影響を及ぼすでしょうか?大司教はこのように答えたといいます。 「何の影響も及ぼしません。私は私の心の中でイエス様が復活されたと信じますから」パウロは多少異なる見解でこの問題を理解します。はるかにストレートで明確です。「キリストが生き返ったことがなければ、あなたたちの信仰も無駄になる」と17節で言います。つまり、信仰を確証する 1 つの方法は、信じる対象が事実かどうかです。 もう一度言います。とても重要なことです。これだけが唯一の方法ではありませんが、信仰を確証する一つの方法は信じる対象の事実有無にあり、ここではイエス様の復活を言います。イエス様が復活しなかったとすれば事実ではないことを信じることなので、どれほど長い間信じていたかにかかわらず、依然として虚しい信仰に過ぎません。 パウロは続けて言います。もし事実ではないのにとにかく信じるならば「すべての人の中で私たちがより一層可哀想な者である」とです。 ただかわいそうなだけだということです。その大司教に怒る必要はありません。この問題についての彼の意見はただ可哀想なだけです。私たちの世代文化で多くの人々は信仰という単語を宗教と同義語だと考えたり、多くの信仰と多くの宗教があると見たり、または個人の宗教的な選択程度と考えます。真理かどうかは関係なく、個人の主観的な宗教的選択にかかっているということです。しかし、この一節でパウロは、キリストが復活しなかったとすれば、キリストが復活したと信じるのは単に無駄になるだけだと言います。したがって、信仰の確証は信仰の対象に対する事実性と確実性にあります。ここで、その対象は歴史的な出来事であるイエス·キリストの復活を指します。聖書は、事実でないものを信じるように要求したことはありません。同じように聖書で言う信仰の成長と強化のための主要方式の一つは、真実をよく説明して弁護することです。この関係を明確にする別の方法があります。 先日、新約学科で教授招聘のためにインタビューを行いました。教授が一人足りなくて追加するためでした。私たちが面接を行ったこの人は、トリニティで学位を2つも受け、牧会経験があり、ヨーロッパで博士号を受け、他の学校の教授でした。いろんな面でとても立派な人で能力者でした。敬虔で牧会の経験があり、聖書を信じる人でした。 面接中にこんな質問をしてみました。「もしある学生がマタイ福音書やルカ福音書に記録された内容の歴史性について質問をしたら、どのように答えますか?」彼の返事は、「そうですね、私はマタイ福音書を論理的な文書で読むことで接近します。マタイ神学とルカ神学を結び付けて理解させようと思います。 もちろん、私は福音書がキリストを証拠すると信じていますが、それでもこのようにします。その学生がそのような歴史性に対する質問から脱し、マタイ福音書の論理的神学に集中するように」 私はもう少し強く押し付けましたが、彼の答えはそれ以上はありませんでした。結局、面接を受けていた2、3人の教授ができるだけ優しく彼に言いました。私たちが生きている間は、私たちの学科の教授になれないんですよと。私たちは、彼が何を言っているのか分かるように、ちょっとショックを与えようとしたのです。彼の答えは福音が歴史的なイエス様とは別のアイディアだということです。 皆さんはイエス様に対する聖書の本文と歴史的なイエス様の間を連結させなければなりません。本文がイエスについて語ることだけに焦点を合わせ、その本文がイエスについて事実を語るかどうかは関係ないとすれば、私たちの信仰の対象が事実かどうかは構わないのです。 私たちは歴史的事実であるかを尋ねる質問と戦わなければなりません。ただ避けることはできません。なぜならイエス様に対する信仰が私たちを救うのではなく、イエス様が私たちを救うことだからです。 [福音祈祷新聞] ドン·カーソン Don Carson | カナダトロントのCentral Baptist Seminaryで修士号(MDiv)と英国Cambridge Universityで博士号(PhD)を取得し、イリノイ州ディアフィールドに位置するTrinity Evangelical Divinity Schoolの新約学名誉教授として仕えた。 ティム·ケラーと共にTGCを設立し、2019年まで代表として仕えた。 The Enduring Authority of the Christian Scripturesをはじめ、数多くの本を著述した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

主だけに従います!

ただ! 絶対! すべての福音! (14) 神は彼らに、この秘義が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘義とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。このキリストを、私たちは宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。それは、すべての人を、キリストにある完全な者として立たせるためです。このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。(コロサイの信徒への手紙1:25~27) 教会の目的であり、宣教の目的であり、この地に存在する私たちが成し遂げようとするビジョンがある。それは私たちがイエス・キリストを宣べ伝え、すべての知恵で各人を教え、キリストの中で完全な者として立てることだ。 人を嵐と台風に巻き込むこの混雑した世界の中で、あちこち真似して覗き込んで、台風に押されて歴史の向こうに投げられる者ではなく、この台風と嵐の真ん中でも永遠に揺れない絶対真理を握って、ただキリスト が絶対とすべてになった者として立てる事だ。福音がすべてになり、生きておられるキリストがすべてになり、自分の思想と自分の知性と自分の感情と自分の意志、自分の人格すべてがキリストで結論を下した人、ただキリストだけが残った人として立つのだ。 パウロは、彼が経験したすべての人生の結論を十字架で結論を下し、ピリピ人への手紙第1章20-21節で、「私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」と述べている。それは、十字架の福音を通して、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることだから、私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのだ。 アーメン。 パウロの生涯についてイエス・キリストを除いては語ることはできないのだ。 聖なる召しと完全な主の祝福、完全な福音の中に私たちを招かれた主が私たちに与えてくださる最高の祝福は、キリストの中で完全な者で、キリストがすべてになった者になることだ。嵐の渦のような人生の中で神の聖なる救いの働きを成し遂げる主の身である教会、神の聖なる切り株、神の人々はただ、絶対、すべての信仰で、まさにこの福音に生命をかけた従順の人だ。こんな人々を通して、神はこの最後の歴史の救いを成し遂げるだろう。 栄華を極めたけど、主を決して捕まえず、彼を全部とは思えなかった者たち。派手な出発を悲劇的な終末で終わらせた人々サウル、サムソン、ガルトユダの例を忘れてはいけない。その代わりにぼろぼろの出発だったが、主がすべてになり、ただ神だけの人々、ダビデ、アブラハム、そしてパウロを通して主の国をこの地に成し遂げられた。その主が休まずに私たちをキリストの中で完全な者として立てられている。 絶対という言葉を一番嫌いなこの世代の真ん中で神のみを信じて、ただイエス・キリストの生命がすべてになった信仰で、今は自我の呪われた運命を終え、イエス・キリストの命で自身を喜んで主の前にささげ、従うことに決断しよう。 中間地帯はありえない。ただ、絶対とすべての対象が自分なのか、主なのかをはっきりと決断しなければならない。主がすべてにならないようにする自我の余地を断ち切って、ただ主を文字通り全部だと告白し、宣言し告白しよう。「私は真理の側に立ちます。私のすべてを主に任せます。私の未来も私の夢も私の若さも私の家庭も私のすべてのものすべて主に任せます。主よ、私のすべてになってください。」 (2018年8月) <終わり> [福音祈り新聞] キム・ヨン (巡回船教師、LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。 出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:press@gpnews.org

[イアチムコラム] 信仰は心を取り出して神様に差し上げる行為

私たちは喜びようとしています。喜びを通じてのみ真の満足があり、愛することができる力が生まれるからです。神様に深く会うと、「はい、神様! 「正しいです」という部分があります。神様はいつも喜びで終わるようにします。愛も喜びに帰結します。真理です。 人生は喜びに対する根本的な渇きがあります。喜びに対する渇きを満たせない理由を、今日の言葉を通じて見ていきます。なぜ基本的に喜びが満たされないのかを見るでしょう。そして、その喜びを見つけさせます。 アダムとハワがエデンから追い出されました。エデンの意味が喜びです。それで喜びから追い出されたのです。人間は心から喜びたいという欲求があります。それでエデンに帰ろうと思います。ところで、今日のお話はエデンに火炎剣、火の刀を置いたそうです。では、どうやってそのエデンに入ることができるのでしょうか? イスラエルの民が神様の強権で出エジプトしました。民衆の力ではありませんでした。神様の力でなさったのです。神学で出エジプト記を救いの模型と言いますが、すべてが正しい言葉ではありません。 神様の恩恵でできたものなので、救いの模型は正しいですが、また完全な姿ではありません。 出エジプト記はイスラエルの民の知恵と能力によるものではありません。救われたのは事実です。しかし、彼らの体はエジプトを去りましたが、心はエジプトから離れることができませんでした。彼らの体はエジプトを脱出して荒野にいましたが、心は依然としてエジプトに戻ろうとしました。神様がどうして私たちをここに導いて私たちを滅ぼそうとするのか、愚痴を言いながらエジプトを夢見ました。それは救いではありません。 聖書は出エジプト記を通じて、出世間しろと言います。出世間は体の問題ではありません。心の部分です。心が世の中から脱出することは人為的な努力や能力ではなりません。心が出世間するには十字架でイエス様と一緒に死ななければなりません。出世間が実際になるには、私たちの心には十字架が必要です。 信仰の原語は「クレド」です。クレドは神様に心を捧げることです。使徒の告白です。使徒神経に出てくる「信じます」という単語がクレドです。心臓を取り出して差し上げるという意味です。心を差し上げることが信仰です。私たちは信仰で救われます。心を差し上げたからこそ救われるのです。 それなら誰でも信仰を測定することができます。心がどこに行っているのか、心に何を盛り込んでいて、何を込めようと努力しているのかを見れば、信仰があるかどうかが分かります。救いは体だけ出るのではなく、心を神に置くことです。それが信仰です。 マタイ福音書8章、マタイ福音書4章、ヌガー福音書8章を見れば、海と風を静めたイエス様が出てきます。ヨハネ福音書の6章は少し違う背景があります。イエス様が急いで弟子たちを呼び集めた後、海の向こうに行こうとおっしゃいます。おっしゃってくだされば叶います。 導きを受ける時、詩編23編のイメージで慈しみ深くて能力のある神様が先頭に立って、羊たちがついて行く導きの風景だけを思い浮かべるならば、欲に倒れるかも知りません。信仰が腐ります。導きはただイエス様についていくことです。 いつでもどこでも、どんな環境でも! その方がご主人ならそうです。 神様についていくと、狂風が吹きました。嵐が起きました。神様の導きを受けたが、人生はめちゃくちゃになったという話です。 私たちは僕であり、主は主人なのでついて行ったが、人生が不渡りになったということです。時限付きの人生になったのです。神様について行ったら人生がこじれたのです。狂風、嵐です。神様について行ったのですが、風浪が起こりました。その時にも私たちは、神様!とできるでしょうか? カギは心です。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(マルコによる福音書/ 04章 38節) 信者が困難なことが起きた時、神様を呼ぶのは良い態度です。講壇で、人生が大変で苦しい時に生きている神様のところに行かなければならないと言いませんか? 「主よ、私の面倒を見ないで何をされているのですか? 神様が守ってくださらないと、私は立つことができません!」 信仰の告白に全く欠点がないように見えます。神様に行って神様を起こしました。熱心にしました。 「主よ、聞きなさい! 主が面倒を見なければ私たちは滅びます。明日はめちゃくちゃになります。神様!」このような信仰が信仰ではないと言ったら、どれほど荒唐無稽でしょうか? 私が不足していることは知っています。ところが、私は主の前に真心がありました。ところが、神様が私のことを全く知らないとおっしゃいました。私の信仰を全く認めてくれませんでした。幽霊が去って、治癒使役もして、数千人の前でみ言葉を宣布すれば、信者たちが悔い改めました。 それでも神様は私のことを知らないと言いました。不法を行う者たちよ、立ち去れ、言われました。神様が知らないとおっしゃると、すぐに思い浮かぶのが地獄です。存在的に地獄を感じると膝がただ折れます。考えが止まります。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。。(マルコによる福音書/ 04章 39節) 神様がおっしゃればその通りになります。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/ 04章 40節) 神様はその状況を恐れる弟子たちを叱っています。家がふらついて、子どもたちがふらついて、戦争や地震が起きると心は恐れます。ところが、主は叱ります。信仰がないとおっしゃいます。 この困難な時期に礼拝いたします。心を集めるのに努めます。人生にもつれたものが多いのですが、それでも整頓して整頓して礼拝します。それなら、神様、それをちょっと知っていただけませんか? ところが、主はその困難な時に主を起こしてそのように話したことを信仰がない言います。なぜそうされたのでしょうか? 私は存在的に悟ります。 信仰とは心を取り出して神様に差し上げることです。出エジプトしたイスラエルの民の心はエジプトに行っていました。神様を起こした弟子たちの心は、神様にあるのではなく、問題解決にありました。 実際、彼らが切実に叫んだようですが、心がこもっていたのは風浪が静まることでした。 それは信仰ではないと主がおっしゃったことです。それが信仰だとすれば、私たちは自分自身の信念を測定することができます。これを測定できなければ、必ず正しい思考、誰もが良いと言うその仕事をしようとするが、実は信仰のない人生になるのです。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

創作クリスマスキャロル「雪が降ってる」

イエス·キリストの誕生を称えるクリスマスの嬉しい知らせを伝えるための創作クリスマスキャロル「雪が降る(Snow is falling down)」がソプラノのチン·ユンヒ、テナーのリュ·ジョンピルによって最近発表された。 この曲は作曲家であり編曲家であるチャン·ミンホ教授の曲に声楽家で劇作家、作詞家であるイ·スンウォンの歌詞で世の中のすべての痛みと悩み、心配を白い目で覆ってあげたい気持ちを込めた。 ロシアのレニングラード州国立交響楽団の演奏で曲の完成度を高め、グラミー賞クラシック部門最高技術賞を受賞したサウンドミラーコリアのファン·ビョンジュン代表がマスタリングを担当し、多くのキリスト教音楽アルバムのプロデューサーとして活動したチャ·ヨンウン代表(ナヌミュージック)が製作を担当した。 音楽学博士でグリ聖光教会聖歌隊指揮者であるチャン·ミンホ教授(サンミョン大学ニューメディア音楽学科)は「この曲はイザヤ1章18節の『 お前たちの罪が 緋のようでも、雪のように白くなることができる』という聖書の言葉を黙想して、戦争と暴力、不義の中で苦しむ人々を慰め祝福と平和の便りを伝えるクリスマスプレゼントになることを願う」と曲を紹介した。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

ただ信仰の人、アブラハム!

ただ!絶対! みんなの福音!(8) 聖書が注目する人々がいる。 アブラハムとダビデ、新約ではパウロだ。 まず、信仰の先祖として知られているアブラハム。彼の信仰はただの信仰ではなかった。「ただ信じる」だった。彼の生涯は信仰を抜きにしては説明できない。聖書はアブラハムの生涯を絶えずに追跡しながら彼の信仰に注目している。 聖書は旧約の結論であるハバクク書2章4節の言葉で結論を宣布している。 「神に従う人は信仰によって生きる」ロ―マ人への手紙で1章17節でもその偉大な宣言を宣布する。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる 」と書いてあるとおりです」ただ良い信仰、熱心に信じる信仰ではなく「信仰によって生きる」を、「絶対信仰」を言っているのだ。 アブラハムが信仰の先祖だと言われる時、神は彼に信仰はどのようになければならないのかを話された。神様は一人の人生を通じてただ信仰を啓示してくださる。 これは教義的に、神学的に同意するレベルではない。「私はそれを信じます。ただ信仰です」と告白するレベルで終わるのではない。神様はアブラハムの生涯全体を主が使われて、ただ信仰という言葉が何を意味するのか混沌しないように啓示してくださった。 なぜなら、ただ信仰であってこそ、私たちが義とされて、そうしてこそ救いを得るからだ。私たちが失った「ただ、絶対、全部」が実際になるように生きて居られる神様に会うことが起きなければならない! ハレルヤ! ローマの信徒への手紙第4章で、ただ信仰だったアブラハムの信仰について見てみよう。 「では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていることについては、何と言うべきでしょう。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。」(ローマの信徒への手紙4:1~3) アブラハムが義と認められたすべての根拠は、彼の行為や彼自身になかった。徹底的に信仰によって神様の前に義とされた。彼が信じた信仰は神様が見るにはどんな信仰だったのだろうか? 「「私はあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われているとおりです。およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。」(ローマの信徒への手紙4:17~22) それはただ信仰だった。生きていらっしゃる神様を聖書が言った創造の主であり、全能の主よ、永遠の主として、完全に神様を神様と信じたということだ。 ひたすら信仰でだ。アーメン。(2018年8月)<つづき> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[TGCコラム] サタンに何かあったの?

先日、私はイエス様の山上の説教を説教しながら、イエス様のように永遠の審判を扱った。主の口から出た言葉である以上、私はいくら不便な真理だとしても決してそっと避けながら聖徒たちにお世辞を言わない。考えてみよう、イエス様が本当に滅亡に導く広い道に関する警告と神様と財物に同時に仕えることはできないという内容、そして怒りと情欲が地獄の火に至らしめるという事実を伝えることが重要だと考えたなら、その方に従う人として、またその方の言葉を宣布する人として、私たちには他の選択の余地があるだろうか? 聖書にありのままそのメッセージを伝えること以外にない。それが現代人の耳にいくら恐ろしくてもだ。 礼拝が終わった後、ある女性が私に近づいてきて、「これまで多くの教会に通ったけど地獄について話す牧師を初めて見た」と話した。 彼女はその重要なメッセージを大声で宣言してくれてありがとうと言った。しかし、彼女は地獄という言葉をほとんどささやくように言った。まるで呪いの単語として乱用される地獄がその力を失ったように、しかし同時に依然として秘密であるかのようにだ。しかし、信実な信者たちは、その単語が依然として正統キリスト教の一部だが、それでも私たちが声を出して言ってはならない誰かの目的地であることを知っている。 このすべての状況が私の好奇心を呼び起こした。いや、審判を言及せずにどうやってイエスを伝えるのだろうか?イエス様のその多様な比喩をどのように説明するというのか?滅亡に対するイエスの継続的かつ一貫した警告をどのように処理できるのだろうか?これで終わりではない。イエスは確かに二者択一との対照を強調した。たとえあなたがパウロと他の使徒の教理にそれほど気を使わない、教団を越えた急進キリスト教徒(red-letter Christian)だとしても、滅亡と消える魂を警告したイエス様の肉声(the redletters)と地獄を象徴する死なない虫と消えない火のイメージまで無視することはできない。 グッバイ、サタン 地獄がないという事実と最も密接な関連を持つのは消えるサタンだ。 ますます多くの教会で神様と神様の民に対抗して戦争を繰り広げるサタンや鬼、勢力と情事に関する話を聞くのが難しくなっている。文字通りサタンが消えた。そうだ。恩師主義教会や五旬節教会にはたびたび現れるが、ますます裕福になり教育水準が高くなる福音主義教派では事情が違う。サタンという告訴者に関するイエス様と使徒たちの言葉の前で人々は震える。 悪魔がすべての問題の背後から覗いており、サタンの影響力が聖書の証言を歪曲する方式で過度に強調される他の信仰伝統に蔓延した一種の誇張を避けたがる牧師たちがいることを私は知っている。だから節制された方式で行った方がむしろましだということだ。ところが、このようなアプローチには唯一の障害物がある。それがまさに聖書だ。聖書だけでなく教会史も同じだ。そして非西欧地域にいるすべての兄弟姉妹も同じだ。 だから基本的に聖書がこのような態度に反対しており、キリスト教歴史の中のすべての信者もそうであり、また西欧キリスト教を除く他のすべての地域の信者も同じだ。 私たちは今、かなり変わっている。にもかかわらず、この問題に関する我々の沈黙はかなり精巧だと思われている。 サタンが消えて生じた様々な余波 問題はこれだ。サタンについて説教しなければ、聖書が証言する罪と救いではない。せいぜい一般的な善悪に区分される心理治療的で世俗的な範囲を越えることはできない。 地獄について全く言及しなければ、あなたが話す福音の中には緊迫感があり得ない。あなたが伝える福音は、単に人々が聞きやすくて、より満足そうな生き方にすぎない。これがまさにインスタグラムインフルエンサーから仏教徒に至るまで、皆がすることだ。 あなたが悪魔のことを全く話さないなら、当然天使も言及しないだろう。これは何を意味するのか?聖書が実在だと言う霊の世界を、すなわち見えない領域を本当だと思わないことを意味する。あなたは、御言葉から外れた宇宙観を持つ貧弱な想像力の持ち主である。しかし、古代教会は明らかに聖書の主張を確証した。そして今、世界の教会はそれに参加しています。 さらに天使、幽霊、サタン、地獄に対する貧弱な見方は、私たちが罪と戦う時、神様を正しく礼拝しようとする時、そして神を知り愛する心の純潔を追求する時、私たちの弱めになる。サタンの喪失はキリスト教徒の人生の脈絡が変わることを意味し、霊的戦場がいつのまにか平和な慰労と成就の現場に変形したことを示している。 永遠という持分の重さを減らす キリスト教が言う永遠がかかった問題の重要性を低くする時に伴う必然的な結果は、結局些細な問題がより重要になるということだ。イエス様と使徒たちが伝えた生死の緊急性を受け入れない時、どんな結果が生じるだろうか?生死の緊急性を他の問題に挿入することで、世の中の問題を実際より大きく見せかける。 これが西洋の教会で目撃する現実だ。私たちが宇宙的観点を失い「この世」と関連した人生の側面だけを強調する時、未来の審判という厳重な現実を軽視する時、私たちは結局永遠の正義に対する希望さえ失うことになる。 これは結局、地上の正義だけが私たちに残った全てだと認めることになるのだ。したがって、この地で完全な正義を達成しない限り、私たちは決して正義が究極的に実現する現実に出会うことはできないという意味だ。 「この世」しか残っていない人々に残された結果は何か? この世で追求する各種正義追求は事実上生死の闘争になる。 本当に深い関心を持たなければならない何かを探す過程で戦わなければならない本当の戦争の代わりに、私たちは休まず続く小さな戦闘に魅了される。偉大なドラマを逃した人の目には、この世が作る小さな世俗的ドラマが重要に見える。 イエス様のように教えているのか? 私は今日の人々にサタン、地獄、天使、悪魔に対する説教がどのように近づくか深く悩むことなく、生半可な説教を勧めない。状況化は重要だ。そのため、神様は私たちに言葉を解釈しろと説教者をくださった。ただ言葉は声を出して読むことで終わらない。いざ必要なのは聖書が教える内容を注意深く説明し、聖書が書かれた当時と今の文化的距離を認めながら、人々が世の中を違う方式で見るよう招待することだ。 しかし、いくら細心に配慮するとしても変な点を全部なくすことはできない。だからといって、現代人の耳に奇妙に聞こえるすべての部分をなくすために努力してはならない。特異な点は目につくものだ。 私たちがイエス様を見習ってその方を伝えるイエス様の宣言者になれば、イエスがおっしゃったすべてのこと、ひいては今日の私たちを不便にさせる部分までも苦心しなければならない。それは独善で神様の恩恵と慈悲を拡張できない人や巧妙さで審判に対する警告を笑う人に向けたイエス様の二重的な攻撃も含まれている。 正統的で健全な信仰告白を固守する教会も、いくらでも聖書が強調する教えに重きを置かないことができる。正しい教理に従いながらも、それにともなう適当な厳重さを持ってその教理をまともに扱わないことが可能だ。 今日、サタンが信者たちの感覚を鈍らせるために使う最も簡単な方法の一つが、牧師たちがイエス様のように話さなくても、まるでイエス様に関する真の教えを伝えるように説教させることだ。 [福音祈祷新聞] 원제 : Whatever Happened to Satan? トレビンワックスTrevin Wax | Life Way Christian Resourcesの神学とコミュニケーション学科の副学長であり、Wheaton Collegeの外来教授であり、The Gospel Projectの編集者である。 「ディス·イズ·アワー·タイム」、「歪んだ福音」、「私たちの時代の6つの偶像」、「Gospel Centered Teaching」を多数の本を著した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org […]

[GTKコラム] ヨセフのように成功するキリスト教徒?

ヨセフは聖書に出てくる人物で、兄たちの嫉妬心でミディアン商人たちに奴隷として売られたが、神様が共におられてポティファル将軍の家の管理者になった(創世記37)。ボディバル将軍妻の誘惑に屈しないと、監獄に収監されたが、彼は監獄でも看守長の信任を受け、獄中囚人を管理する管理者となった(創39)。 そして、最終的にはエジプト王であるパロの夢を解釈し、パロの信任を受けてエジプトの首相になった(創41)。7年間の豊作が過ぎ、7年間の凶作が来た時、ヨセフの兄たちも食べ物がなくてエジプトまで来て穀物を買うことになるが、この時彼らは総理になった自分たちの弟ヨセフの前にひざまずくことになる(創42)。 ヨセフの兄たちは彼が自分たちに復讐をするのではないかと心配したが、彼は兄たちを許してこのように話した。 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5) 死んだと思ったが、生きてエジプトの首相にまでなったヨセフによって、彼の父親をはじめとするすべての家族がエジプトに来て暮らすことになり、エジプトのゴセンの地に定着することになった。 このようなヨセフを見て、多くのキリスト教徒は夢を見る。神様の意思が天のように地でもなされることを願うのではなく(マタイ6:10)、自分がヨセフのように偉大な人物になることを夢見る。ある説教者たちは、神様が共に居られたらヨセフのように成功できるとし言いながら若者たち、起業家たち、中小企業社長たちの心に希望の火種をつける。彼らは成功して家族を含めて多くの人を食べさせる人になるという大きな夢を抱けと言う。この文を書いている筆者の英語名はヨセフだ。そして、この英語の名前をつける時、彼の心にヨセフのように世の中で成功しようとする気持ちがなかったとすれば嘘だろう。 筆者がこの文で見せたいのは、まさに私たちの心に非常に巧妙に定着している欲と傲慢だ。私たちは生まれつき他人と同じような生活をしたがらない。事業をするならば小企業ではなく大企業を築きたいと思い、先生をするならばある地域の高校の先生ではなく有名なスター講師になりたがる。牧師も列外ではない。神学校の卒業生たちは、ある地域の小さな教会の信実な牧師ではなく、一時代を風靡する有名な牧師になることを望んでいる。 筆者はキリスト教徒が社会的に特に人気のある有名人になること自体を批判しているわけではない。どの時代でも、誰かは有名になり、自分の職業で非常に有能で人気のある人物になるだろう。しかし、問題は特別に社会的または経済的に成功することを目標に生きていくキリスト教徒の若者たちの心だ。私たちは世の中で社会的、経済的に最高になることを人生の目標にして生きてもいいのか?成功したヨセフのような人物を見て、私たちは大きな夢を見て、ただ一人の偉大なこの時代の偉人になることを願ってもいいのか? 真のキリスト教徒の目標 キリスト教徒が誰かを簡単に表現すると、彼は自分の罪を悔い改め、自分の罪を代わりに負って十字架で亡くなったイエス·キリストを救世主と信じ、今や自分の十字架を負ってその代価として死ぬとしても復活した主のみ言葉に従って生きていく人だ(マタイ16:24-26)。それなら、キリスト教徒の人生の目標は非常に単純だ。それは、主の言葉に従順する人生だ。 目標は旅行者の目的地と同じで、目的地は旅行者の行く方向を左右する。私たちの目標が本当に神様の意思がなされることなら、この目標は私たちが真実に(コロサイ3:9)、責任感を持って(コロサイ3:22)、情熱的に(コロサイ3:23)、勤勉に(箴言21:5)、自分に与えられた才能と機会を十分に活用して職業を得て仕事をし、福音を伝え(マタイ28:18-20)、主の中での兄弟·姉妹を愛するように(ローマ12:10)導くだろう。だから、自分が神様がくださった救いの恩恵を価値なく受けた者として、今日一日主の言葉に従って最善を尽くして生きているならば、どんなに収益があってもどれほど社会で認められるかに関係なく、すでに目標を成して生きているのだ。そして、このように生きていけば、私たちはますます経済的または社会的な結果に対する執着から自由になれる。 しかし、逆に私たちの目的が年俸10億も最も有名な俳優になることだとすれば、私たちはどんな手段と方法を動員してでもそれらを得るために慌てるのではないか?そして成功のために嘘もつき、悪い手段を使って事業をしながら「成功して献金をたくさんすればいい」と、考えて怒った良心を鎮めようとするのではないか?そんなに病気の良心を抱いて日曜日に教会に行って、無駄に涙をぬぐっては何事もなかったかのように、再び私たちの目標を達成するために罪を取り上げ、良心をバラバラに引き裂いてしまうのではないか? この時代の夢多き若者に訴える。私たちの夢は、今日キリストの言葉に従うことだ。今日、この文を読んだら、静かに自分自身を振り返ってほしい。今日、キリストの言葉に従うために全力を尽くして生きていくキリスト教徒は、毎日成功している最中だ。しかし、成功した未来の自分の姿を眺めながら全力を尽くして生きていく若者たちは、主の意思(言葉)を無視する人か、あるいは最初から生まれ変わったキリスト教徒ではないかもしれない。 1912年4月15日、タイタニック号は6回にわたる警告を無視して航海を続け、氷山にぶつかって沈没した。彼女の華やかさは一瞬にして暗い海に姿を消したのだ。私たちの人生も同じだ。今この文のような警告の言葉を聞いた時、心を謙虚にして良心の声に耳を傾けなければならない。これまで目的地を誤って設定して誤った道に進んでいたなら、今悔い改め、主に向かって正しい方向に旋回することを切に願う。 マタイによる福音書16章24-27節 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 [福音祈祷新聞] キム·イェジュン|マスターズ神学校でThMコースを修学中であり、現在米国LA近郊のグレンデールにあるグレース聖書教会で青少年使役を担当している。 GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

精神的混沌の時代の真っ只中で真実をしっかりつかめ

ただ! 絶対! 全部の福音! (1) 台風のような自然環境で近づく外的な困難だけでなく、私たちの内面の中にも本当に暴風のような時間を渡る時がある。私たちの生活が緩んで注意集中できない時に台風が吹き荒れると緊張もするが、一方で生きているということを感じることができてありがたい。誰もが恐怖の前に直面すれば、改めて考えてみることになる。台風に対する準備をしろと言われたら、窓にテープも貼りながら、揺れることはないか、飛ぶことはないか振り返ってみる。普段から適当にやっておいたものをもう一度点検することだ。 内面の中にも嵐のような時がある 我々の心霊も同じだ。自然災害は目に見えるものを脅かすが、本当に致命的なのは心霊の中で耐えられない激動が起きる時だ。とても大変で難しく、自分の意志が底をつく時、私たちはその時にもう一度考えることになる。 自分の心のあちこちに散らかってたものが嵐の時間を一度過ぎると交通整理ができる。信じるか信じないのか、これが頼るものかどうかも考えずに虚しいものをそんなにつかんで激しく格闘したのかを振り返ることになる。交通整理をしながらしっかり結ぶべきものは結んで捨てるべきものは捨てて、混沌していたものをもう一度整理仕立てるには危機の時間がむしろ役に立つ。 ガラディア教会も揺るがした嵐のような時があった。福音で変化されたガラディア教会は混沌の過程を経て外部の攻撃だけでなく、教会内に内部の攻撃もこっそりと入り混沌させ揺さぶった。内的·外的な暴風のようなこういう挑戦と威嚇が今私たちにも同じようにある。その時が普通の強い風だったとすれば、今は本当に台風のような複雑な時代を生きている。 ガラディア教会を揺るがした混雑して混沌とさせるいかなる挑戦も、大胆に真理の立場で拒否しなければならない。暴風の中に巻き込まれたこの霊的混沌の時代の真ん中で、神様がくださったその真理の中心、永遠に変わらない真理を堅くつかんで台風に巻き込まれてはならない。世の中の台風だけに巻き込まれないのではなく、霊的な暴風にも巻き込まれず、むしろその中心に堅く立ってこの世を救う神様の証人として立ちなさい。 精神的嵐に巻き込まれないで, しっかり立って証人として立ちなさい 嵐と台風が吹き荒れるこの混雑したこの世の真ん中で永遠に揺れない永遠の絶対真理をつかみ、福音が全部になって、生きて居られるキリストが全てになった者として立たなければならない。 ただ絶対という言葉を一番嫌うまさにこの世代の真ん中で、罪悪の嵐の中にある最後の時代の中で平凡と普遍という言葉で騙す欺瞞にだまされず、ただイエス·キリストの生命が全てになった信頼で立たなければならない。 (2018年8月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

説明のつかない神様の贖いの御恵

キリストの中で完全な教会(6) 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5) 神様は人としては説明できない「贖い」という方法を使った。 正義で借金を返すものの、資格のある人が代わりに借金を返させた。理解できない、話にならない方法で神様も義であり、私たちも義であるたった一つの道を用意された。これが「贖いの義」である。 自らを赦しができない私たちにキリストイエスの中にある赦しによって神様の御恵によって無報酬で義だということを得させた。この道しか他に道がなかったので御自分がすべての罪の代価を自ら払ってイエス·キリストを通じて審判を受けた。最も完璧な主のみ恵みだった。そして、分け前を残しておいた。イエスを彼の血によって信仰による和解のいけにえにされた。 私が直接罪の償いをしたわけではない。しかし、信じる私たちは誰かが私の名前と私の資格で返してくれたその功労を信仰で完全に受けてイエスに起きたことを自分に起こったことと受け止めれば良い。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死んで審判を受ける時、私の名札をつけて私になって死んだので、その方が死ぬ時、あれほど変わらなかった自分が一緒に死んだことを信仰として受け入れるのだ。それで自分を信仰で死に渡し、もう自分ではなくただ私のために死んでそして生き返られたイエス·キリストにすべての生命の主権を与え、新しい生命として受け入れなければならない。 今は私ではなく、私の中にキリストが生きる人生を生きていくようにしてさせた。ついに罪悪の呪いから抜け出し、罪と関係のない神様の水準、神様の形状を成すようにさせた。聖なる主の民で、罪から自由な者として、勝利する者として生きていかせる。 最初の創造の時は言葉でされた。しかし、私たちを救う時には神様の父親が御自分の一人しかいない息子をこの地に人として送った。律法の義を成し遂げるために女から生じさせ、律法の呪いを代わりに受けて十字架で死んで復活するまで、このすべての過程を成し遂げた。神様が世の中をこんなに愛して恐ろしい罪に売られて心の中心に神様と仇になった私たちの昔の生命を終えた。天地開闢よりもっと難しいことを成し遂げられた。 私が直接したことは何もない。 しかし、イエス·キリストが私の代わりに成し遂げたそのことを私に直接なされたと信じて信仰で参加しなければならない。イエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活! 二度と罪が主人の役割を果たせず、二度と律法が私を罪に定めることができない。今はただキリストが私の主人になって生きていくことで、神様だけを愛し真理に従って天に属した人生を生きるようになされた。この夢見るようなものすごい福音を主が準備しておいて「ただ信じるだけしろ。」とおっしゃる。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

キリストの中で完全な教会(5)

「兄弟よ、きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(コリントの信徒への手紙一/ 2:1~2) コリント地域は港町として華やかな都市であり、目覚めた都市だった。ところがパウロはコリントで十字架福音を伝える時、華麗で非常にレベルの高い言葉を並べることができるが、そうしないことにした。十字架福音そのものが能力であるためだ。 なぜ十字架福音がそんなに能力になるのか! 何のために愚かに見える十字架が神の知恵と能力になるのか! それは十字架が人の内面中心を変えるからだ。 人間は罪で汚染された。禁断の果実の犯罪を犯してから過ちと罪で死んでしまって本性的に神を反逆することになった。心で神様を遠く離れて仇になった。このような人間の心の中心を振り返り、神様を愛する創造の時の形状に戻すことは、天と地が変わるよりも難しい。神の知恵と能力である十字架の福音だけがまさにこのことを可能にする。 十字架福音だけが内面を変える 生まれ変わらずに人間が存在的に変わるという話は不可能だ。改善されるという話も不可能だ。神の国は改良された罪人、改善された罪人が行けるところではない。生まれ変わった生命であってこそ入ることができる。人間という存在は生まれ変わらなければならないと言うほど可能性がなく、生命の存在自体が変わらなければならない。生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。何が生まれ変われるのか。天下のどんなものでも人間を生まれ変わらせるものはない。生まれ変わらせる方法はイエス·キリストの十字架だけだ。このためにイエス十字架福音が必ず必要なのだ。 イエス様が十字架に刺さって亡くなり、復活してから50日後に聖霊様がいらっしゃった。初代教会であるエルサレム教会は福音の敵対的な環境の中で福音のメッセージを受け、十字架福音を叫んで喜んで殺された。これがまさに初代教会だった。 キリスト教の名前を持って真理を学ぶと追いかけているけど、それは人の目を欺くだけで真理には至らない人々がいる。常に学ぶけど真理に至らないのは、自分の私欲を追う先生を追いかけるからだ。木は実を見て分かる。木が生命を欺くことができないように、イエス様の生命には必ず聖霊の実が現れることになる。 十字架福音はイエス生命の実を結ぶことができなかった罪人になった人間の存在を変え、イエス生命の実を結ばせる。この十字架の福音は真の神の能力であり知恵である。(2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生

私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

世界への神様の唯一の贈り物、福音

キリストの中で完全な教会(3) 私たちは罪の中で生きていて、毎日罪に引きずり回される。 そして結局、罪の奴隷で地獄の審判に向かわざるを得ない存在的罪人だ。 私たちがどうやって主が呼んだ聖なる神の息子の形を着てキリストの中に充満した生命を持つ聖なる神の教会になれるのか! 出発自体が基盤もイエス·キリストであり、目標である使命も神様の水準であるため、人間のいかなる努力や方法でもなれないと聖書は言う。 ”武力によらず、權力によらず、ただわが 霊によってと万軍の主は言われる”(ゼカリヤ4:6) 最も不可能なことがあるとしたら、それは自分の人生を自分勝手にはできないということだ。ルカ福音書18章に出てくる金持ちの官員は幼い頃から律法を破ったことがなく最善を尽くして暮らした。あれほど永遠の命を追求し、苦労して生きてきて、イエス様の前に出てきた時、永遠の命を得る道を教えてくださった。難しい要求でもない。二つの中から一つを選べばいい。お金か?永遠の命か? 永遠の命とは何か。神様の永遠の命の中で神様の永遠の祝福と生命を享受することだ。そんな永遠の命がお金と比較対象なのか!それでも目に見える誘惑に勝てず、永遠の命を目の前にしても捕まえられないまま、私たちの心がお金に対する愛着と情欲に引かれる。 宗教的な努力と最善を尽くしたとしても、自分の心を変わる決断ができなければ、38度休戦線を越えるより難しいのが自分の心の境界を越えることだ。福音をあんなに聞きながらも決断できなくて一生だらだらとぶら下がって結局滅亡に連れて行かれる人がどれほど多いか! 厳重に警戒を守って立っている休戦線よりさらに堅固に越えられないのがあれば、まさに自分の心だ。私たちは心で神様を離れ、敵になった。そんな私たちを振り返って神に向かわせること、それがまさに十字架福音だ。人間の救いと変化は絶対に人から生まれることはできない。これは神の全面的な能力と恩恵でなければ不可能なのだ。 神様の召しを忘れてしまえば、教会は現実に追われて召された席を離れ妥協し変質するしかない。そのために、教会の基盤と目標を明確にすることは、私たちが生命を得ることと同じくらい重要だ。教会は人によって行われるものではない。神様の神的な能力なしには完全に福音どおり救われ、地獄の人間が天国の人に変わる真の変化は一人にも起こり得ない。人間のいかなる努力や方法や制度になることはできない。神だけができることだ。 神様が私たちを本当にこの世を変化させる教会であり聖徒に変化させる福音の能力。この能力が我々に臨まなければならない。その時初めて教会は真の神様に召された場所に立つことができ、この世を変えることができる。そして世の中は彼らを変えられる能力を教会を通じて得ることになる。生きている神様がこの世に向かってくださった唯一の贈り物がまさに福音であり、その福音はすべての状況で十分に変化させる能力を持っている。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師、 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[TGCコラム] 速度を落とせ、記憶せよ、楽しみにしろ。

”降臨節、これは何か驚くべきことが近づいていることを意味する” クリスマスが近づくと、何か素敵なことが起こりそうな気がする。あなたもそうかな? 遠くから聞こえてきた音がだんだん近づいてくるように、愛する人が空港ターミナルを出てくる姿を見るように、水平線の向こうから太陽が昇る瞬間のように、そして長い間待ち望んでいた夢がついに現実になるまさにその瞬間のように、クリスマスには何か素敵なことが起こりそうだ。フレデリック·ビクナー(Frederick Buechner)は次のように書いた。 ほんの一瞬、あなたは空気の中で一度も行ったことのない場所、そして言葉では言い表せない時間を思い出させるある香りを嗅ぎます。今、自分の心臓の鼓動を感じるほどです。これから起きようとする特別なことは、ただそれが起こる直前がもたらす特別な瞬間とだけ比較することができます。その瞬間の名前は降臨節です。 降臨節、これは何か驚くべきことが近づいているという意味だ。 速度を落とす時間 今週は教会の節気によってクリスマス前の4週目に始まる降臨節が始まる日だ。今はキリストを宝物にするために心を準備する時だ。しかし、忙しい年末の混雑の中で、私たちはこの大切な待ち時間をあまりにも簡単に浪費したりする。慌ただしい12月をまともに記憶することがどれほど大変なのか、消費主義時代が作り出したもう一つの犠牲者になってクリスマスを目前にする気持ちがどんなものなのか、私たちはとてもよく知っている。 反応する。組織する。ショッピングする。計画する。包装する。予算を策定する。ストレスを受ける。食べる。ストレスのために食べる。 私が今この文を書く理由は、私と同じように速度を少し遅らせなければならない人々、有名なキャロル「私たち皆が主を迎える準備をしよう」(Let every heart prepare him room)が必ず必要な人々のためであるのだ。 覚えなければならない時間 クリスマスに成就した神様の約束を記憶する時、私たちはキリストの成肉身がこの世をどれほど強力に揺るがしたかを思い出すことになる。クリスマスの意味は家族の伝統、きれいな照明、古い靴下をかけておくのとは比べ物にならないほど深い。 クリスマスは革命を意味する。クリスマスは奇跡を意味する。クリスマスは神様が私たちのために来られたことを意味する。天の王が王座をゆりかごに変えたことを意味する。全能者が自分を弱さで包んだことを意味する。創造主が被造物の中に入ったことを意味する。著者がページの中に自分を入れたことを意味する。無限の人が赤ちゃんになったことを意味する。与える方が贈り物になったことを意味する。 イエス様はイマヌエル、すなわち私たちと共にする神様として来られた。ずいぶん前にアウグスティヌスはこう言った。 「その方は御自分が創造した母親から創造されました。その方は御自分が作られた手によってこの世に出てこられました。」神様がどのように私たちのそばに近づいたのかを熟考すれば、その方をもっと知りたいという欲求が深まるだろう。 期待の時間 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、その方の再臨に対する深い熱望を悟らせる何かがある(計22:20)。この時代の教会は旧約の終わりに向かっていた神様の民と色々な面で似ている-まるで流刑者のように周辺に押し出されており、闇の中で希望を抱いており、トールキンの言葉を借りれば「すべての悲しいことを消える」ようにするキリストの再臨を息を殺して渇望する-位置にある。 神様の民は過去のクリスマスの幸せな思い出と来るクリスマスの興奮が与える息詰まる期待の間で浮き立ってクリスマス前夜を過ごす幼い子供と変わらない。私たちはキリストの復活が与える「ハレルヤ」とキリストの再臨が与える「マラナータ」の間で暮らしている。そして降臨節を待っている今、この場で神様の民は礼拝の期待というレンズを通じてのみ見ることができる独特の喜びを発見する。ティモシー·ポール·ジョーンズ(Timothy Paul Jones)は次のように説明する。 降臨節を迎えたキリスト教徒は、うめき声が現在の貧弱さのために生じた希望のないすすり泣きではなく、イエス様が私たちのために準備している神聖な宴に対する切実な熱望のためであることを認識して受け入れる。 … 古代イスラエルの民が肉身で来られるメシアを待っていたように、私たちもメシアが栄光の中で再び来られることを待っている。降臨節を迎え、信仰のある信者はこう告白する。童貞女の膝の間から荒い息を吐きながら生まれた赤ちゃんには、まだ言うべき最後の言葉が残っていると。 降臨節は私たちはこの世を通り掛かる巡礼者であることを、罪悪で壊れたこの世の中がずっとこのままではないことを、真の王が本当にすぐ来られることを再確認する時間だ。[福音祈祷新聞] 降臨節にはキリストの初臨に対する幸せな記憶だけでなく、彼の再臨に対する深い熱望を呼び起こす何かがある アダム·ラムゼイ(Adam Ramsey) | アダム·ラムゼイはLiberti Church(Gold Coast)を率いており、またActs 29 Australia/New Zealandのネットワークディレクターとして仕えている。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

福音の前に立つ時が来た。

福音に対する二つの反応(7) 闇が勢力を拡大し、からしの種のような光を覆い隠そうとしても、闇は絶対に光を覆うことはできない。もちろん人間の弱さやミス、罪悪は必ず整理されるようになっている。しかし、主の福音が冒涜を受けることが続けば、私は生きている限り、すべての機会を持ってこの蛮行を全世界に知らせるだろう。 500年前の宗教改革当時、聖書を持ってれば燃やして殺した。すべての信者は魂の抜けた人として扱われた。しかし、マーティン·ルーサーが宗教改革の炎を起こした時に無知で何も知らないようだった平民が爆発的に起きた。それが宗教改革となり、その実を今我々が享受している。私たちは霊的な存在なので何が正しくて何が間違っているかは知っている。今はだまされないで違うことは違うと言って福音の前に立たなければならない時が来た。このままではいけない。福音を栄えなければならない。 主は生きて居られる。神様に立ち向かって真理に反する者は決して安全ではない。良心に逆らったり、神の聖なる真理の前に正しくない態度は決して安全でも正しくもない。マーティン·ルーサーのように、私たちは主の前で叫ばなければならない。「主よ、私がここにいます。私を助けてください。私は他のところに立つことはできません。」生きて居られる神様の国がからしの種のように小さく見えて麹のようでもその国は誰も耐えられない生きている神様の威力を表すだろう。神の統治が臨む私たちの中にある天国は、聖なる国であり、誰も汚すことはできない。十字架復活、福音の能力が私たちを聖なるものに導き、勝利させ、真理で結論を出させ、「イエスならそれでいい!」を叫ばせる。この世が待ちわびている福音はただイエス! キリストの血のついた福音だ。この福音が歴史を変え、列強のすべての魂を救うだろう。ハレルヤ!我が主は生きて居られる! 私たちの教会は腐っていない!神の教会は神聖だ! 福音は光栄だ! 普遍妥当な世の中の権力や教権、流行、時流によって恐れられたまま押し流されるか、それとも一日だけを生きるとしても神様の聖なる真理の前に立つか。「主よ、福音で詐欺を働いたり偽善者にならず、福音を生命で証言する者にしてください。 私と一緒にいてください。私は真理以外のものを選ぶことはできません。」自分は果たして真理の側に立っているのか。自分はキリストの側に立っているのか。自分の利益に従わずにいつも主の国の側に立つだろうか。「御霊よ、私たちを照らして下さり、私たちが悔い改めて神様の福音に駆けて進ませてください。」(2018年6月)<終わり>【福音祈祷新聞】 キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載してご使用ください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org