いま、十字架の主の足元に身を伏せないといけない

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モーセの告白

‘それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか’(出エジプト記 33:16b)

異邦人になってエジプトに住み、奴隷になったヘブリ民族。アブラハムの約束を覚えて、大きな国と神様の軍隊にして荒野へと導いた神様が、歴史に有一無二の国であり、この世で神様の栄光を表わして救いの通路になるように選んだ清い民である彼ら。彼らが神様の特別な所有になった象徴、それは幕屋と律法だった。

幕屋と律法はイスラエルが留まる時、彼らの中心で、行進する時には彼らの先頭で彼らと共にいる神様の象徴だった。

渇いて荒れた荒野、熱い太陽の熱気、敵の脅威、渇きと飢え、暑さと寒さ、葛藤と恐れ。。。 このすべての状況とどんな瞬間でもたったひとつの答えがあった。生きている神様!エジプトから救いだしてくださった全能の主!約束をなし遂げてくださる真実な神様!その神様が私たちと共にいらっしゃる!

いまは約束の地が与えられて、荒野の野宿の生活は安定した生活に変わった。毎日マンナを待たなくても。雲と火柱の動きによって引っ越さなくても城壁と豊富な収穫物。よく組織された国と人材ら。合理的な制度と武将された軍人たち。。 所有が増えて複雑な人生の要求が多くなり、幕屋と律法は人生の中心から遠くなって、急用の危機突破用として、願いをかなえるために、問題解決用として尋ねる物になった。

偽装になってしまった節期、礼拝。。 不便になった神様の存在は、ついには自分たちの王を求める彼らによってもっと無視されるようになった。

王である神様を拒否して、民が望んでいる王に立てられて初代のイスラエル王、サウルの不敬虔と悪行はすでに予見されたものだった。律法(十戒)は敵の手に奪われて、サウル王は捨てられた。

神様が立てた王、ダビデ

神様のみ心に合った人。彼を通して無気力で分裂だった王国は回復されて、国の所々が元の姿に戻った。世俗王国だったらこのままで十分だったが、ダビデには違った。ダビデ王の宝座は固まっていたが、イスラエルの真の統治者はダビデではなく、神様でないといけなかった。

当然イスラエルの中心にいないといけない幕屋と十戒はまだそうでなかった。

失った十戒を探して!

ダビデのすべての心配。彼が神様に誓ってヤゴブの全能者に誓ったのを、私が私の幕屋の家に入らず、私のベッドにも上がらず、私の目の眠らず、私のまぶたも寝ないように、神様の幕屋すなわちヤゴブの全能者の幕屋を版発見するまでするであろう(詩編32;2-5)

主の聖殿の栄光。神様の臨在の栄光を見るまで、ダビデは決して休まなかった。失われた十戒を見つけて聖殿まで運び移すまで、彼の熱情は決して冷めなかった。いま私たちにはダビデの悩みと熱望がある。すべてを得ても、それなしでは何もなくて、全てを失ってもそれだけがあればいい一つの希望がある。福音が高められることである。

失われた十戒を探して、一番よい場におくように、私たちの人生の中心には十字架の福音であるイェス様が、本当に王の座に座っているのか。

礼拝が礼拝らしく、教会が教会らしい真の復興のために、いま!福音に帰らないといけない。傲慢な罪人の知性から、貪欲の谷から、世俗主義の霧から、早く発って!十字架の主の前にひざまずかないといけない。

命をつくして忠誠を捧げる私たちの大将として、尊厳と栄光と賛美をささげる永遠の王に座に、この世のすべての種族が共に敬うべき、永遠の主だけに捧げないといけない。

福音祈祷同盟。ダビデの悩みと熱望を持つ主の栄光を望む者たちが、共に声を高めよう。一つの呼吸で進もう。一つの宣言、適当な行動綱領によって進もう。神様の名が全地と万物中で、最高の敬拝を捧げられるまで!主よどうぞ来てください!

<巡回宣教団 代表>
「その日が来るまで」から転載

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