最近の文化では’嫉妬’という単語が否定的なニュアンスを持っている。なぜなら、怒りに耐えることのできなかったボーイフレンドの荒い行動を描写するか、或いは欲の目で他人を見る時、その単語をよく使うからだ。このように嫉妬するという言葉は、他人が持つ何かを妬み、欲しがる心を示すようになった。つまり、この単語の意味は、非理性的な行動、正当でない怒り、または辛らつな批判態度などとつながる。
そのために神様の性質を説明する時、’嫉妬’という表現を避ける人が多い。’神様が嫉妬を? そんなはずが、神様が嫉妬するなんて?’こう思ったのだ。ところで、聖書を読んでみると、その単語が神様を描写するときによく使われるという事実が確認できる。例えば、聖書は’神が嫉妬する’と教えるだけでなく(出20:3-5)、その方の聖名を’嫉妬’とまで紹介する(出34:14)。言い換えれば、神はただ嫉妬する行動をするだけでなく、その本性上嫉妬の存在だというのだ。それが果たして可能なのか?
聖なる嫉妬
まず聖書で使われる’嫉妬’は現代の文化で通用する意味と同じではない。むしろ、その単語は自分の栄光を表そうとする神様の強い意志を描く時、または私たちがその方のために神々しく区別されなければならないという絶対的な命令を修飾する時に使われることがある。 また、神の嫉妬は、その方の愛を反映する表現だと言えるが、この時の愛は非妥協的な愛、すなわち自分の栄光が自分の民の偶像崇拝で汚されることを決して許さない愛を意味する。
要約すると、聖書での’嫉妬’は、神様自身の聖なる栄光のための非妥協的な愛と、その民がその方にだけ返さなければならない栄光への絶対的な忠誠を描写するために使われる表現だ。したがって聖書の中のその単語は聖なる神様を反映していると言える。 このような場合に嫉妬とは、ある非道徳的性向を表す表現とは程遠く、むしろ神の義である性質と完璧な聖域、すなわち選ばれた民の生にまで反映されるべきその方の神々しいことを表す表現として理解しなければならない。
永遠に変わらない嫉妬
このような理由により、神の嫉妬は人間の罪悪な視線から見つめる嫉妬と違わざるを得ない。あの方は人間が理解しきれない無限の創造主であって、有限な被造物ではない。したがって、人間が感情をコントロールできないまま、誤った表出を行うように、神もそのように嫉妬すると考えてはいけない。
そうした考えから逃れるために、神様の本性を知る必要がある。すなわち、その方の単一性(神は部分的に分けることができないため、その本質と属性が同一であるという特性)、永遠性(神は時間を超えているため、その存在に始まりと終わりがないという特性)、不変性(神には変化がないという特性)、不感性(神は情緒の変化や苦痛に従属しないという特性)を覚えなければならない。このような本性をお持ちであるため、神は嫉妬からその有無や程度の変化を経験しない。これはまるで以前に自分の栄光のために嫉妬したことがなかったが、新たに嫉妬するようなことは、その方には起こらないということだ。むしろ神は一貫して、永遠に、不変に嫉妬する。
このように嫉妬が感情の変化ではなく、自分の栄光を最優先に考慮する神様の本質的な属性を指すなら、その方がイスラエル民に向かって自分の栄光を他人に与えないと宣言することは、至極当然のことだと理解できる’(イザヤ42:8)。
また、なぜ偶像崇拝が根本的に問題になるのかも知ることができる。偶像崇拝は、神の形象を歪曲する行為であるだけでなく、その方にだけ属する栄光を奪取しようとする試みだ。そのためにイスラエルの民は、シナイ山で荒野の旅路を再び開始する前に、次のような戒名を受けなければならなかったのである。 ”あなたは私以外に他の神々をあなたの前に置くな。あなたのために刻んだ偶像を作らず[中略]彼らに拝まず、それらに仕えるな。”(出20:3-5) そして、その理由についてこのように述べられる。 ”私、あなたの神様、エホバは嫉妬する神様[である]”(出20:5)。
わがままな神様?
そしたら、神様が自分しか知らない利己的な方ではないかと質問するかも知れない。もし、人間である誰かが何よりも自分自身の栄光を追求するために嫉妬するなら、彼を自我陶酔に陥った人と見ざるを得ないだろう。これは否めない事実だ。しかし、神は私たちと同じではない。エレミヤが他の異邦民族の偶像たちとエホバを区分して告白したように、神のような人はいない(エレミヤ10:6)。アンセム(Anselm)は”より偉大な存在を考えるのは不可能な’対象として神を描写し、エレミヤが告白したその真理を表現しようとした。神様はそのように完全な存在である。ここでアンセムが意味しようとしたところは、人々がよく思う考えとは異なり、神がその大きさにおいて私たちより偉大だという意味ではない。 それよりも、神の存在自体が私たちとは全く違うという事実を意味しようとした。 つまり、大きさでより偉大な存在ではなく、本質的により偉大な誰かは考えられないという意味で神の存在を描写したのだ。 なぜなら、その方の神的本質は無限で、測量が不可能であり、理解することもできないからだ。 一言でいえば、無限に必然的に完全な存在である方が神様だ。 これを教父神学者たちは’純粋存在’または’純粋行為’という表現で説明しようとした。
したがって、神は無限で完全であるので、その方の属性を制限しようとするいかなる概念も我々の思考から追い出さなければならない。 どのような概念がそうだろうか。 例えば、私たちがその方の属性を思い浮かべる時、変化と感情の浮き沈み、被造物に対する依存、分立可能な存在、時間の流れに支配される対象、知識の欠如などを思い浮かべるなら、これは間違ったアプローチだ。 このような概念は、いかなる方法であれ、神を制限するものであり、その結果、その方の無限の完全性を傷つけてしまう。
結局、完全な存在であるためには、完全な属性を持っていなければならない。 言い換えれば、他の限られた概念が位置しないように防ぐ絶対的な属性がなければならないが、例えば神的不変性、不感性、自尊性、単純性、永遠性、全能性、全知性などをその例として挙げることができる。このような属性を持った神様は、完全な偉大さを持った唯一の存在で、私たちに絶対的な忠誠を命令できる権威を持つ。
我々の喜びのための嫉妬
ジョナサン·エドワーズ(Jonathan Edwards)もアンセムと同じ方式でその完全な存在を理解しようとした。 彼は’真の美徳の本質’(The Nature of True Virtue)という作品で神様を、’すべての存在の中で無限に偉大な最上の存在’という概念で説明した。このような説明が正しいとすれば、それに含まれた意味がキリスト人の生活に及ぼす影響は甚大だといえる。まず、自分の栄光のための神の嫉妬は、我々のアイデンティティを決定づけることになる。 なぜならその嫉妬は、私たちが神の栄光を反映するために、その方の形で創造されたことを説明しているからだ。 そして、このようなアイデンティティは、私たち自身の喜びと相反する条件ではなく、むしろその喜びに必須の条件となる。
ウェストミンスター問答のように、”人間の最高の目的は神様を栄えさせ、その方を永遠に喜ばせることだ”。 ジョン·パイパー(John Piper)は、この命題を次のように明瞭に表現した。”人間の最高の目的は神様を永遠に楽しむことでその方を栄光に輝かせることだ。”もし、再び述べられた文章をウェストミンスター総会が検討していたとしても、その意味に十分同意しただろう。
結局、神様が利己的ではないのか’という疑問は、全く相反する回答に出会うことになる。神様が完全な存在である以上、それよりもっと偉大な他の対象は考えられないような存在である以上、その方は当然私たちの真の喜びと永遠な幸せのために神様自身を見つめられるように私たちを導くしかないというのだ。なぜなら、その方が最上の存在だから。最上の喜びと幸福も、ただその方の中にだけ発見されるからだ。
だから神のみを愛をもって忠誠を命ずることができる。つまり、その方自身の栄光を最高の価値とする命令を利己心ではなく、愛の心でできる方は神のみである。 [福音祈祷新聞]
Matthew Barrett |マシュー·バレットはMidwestern Baptist Theological Seminary の神学科副教授である。彼はCredo Magazine の総括編集長であり、Credo podcast のホストでもある。代表的な著書には『None Greater: The Undomesticated Attributes of God』がある。
このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org
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