神様は私の実力ではなく私の従順を喜んでくださる。

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私が通っている学校では‛伝道′という科目がある。前学期から伝道を始めていて、学校で20回くらい伝道をした。これからは学校だけではなく、タミナルとバス内とお家周辺など、どこででも伝道をしている。

伝道をしているといろんな事件にあうのである。拒否とあざ笑い、時には怒られて、私を避ける人にも出会う。お友達と伝道を終えると私が渡した伝道紙よりもっと多くの伝道紙を拾うときもあった。道端で踏まれて破れている伝道紙を拾う時には気持ちが複雑である。しかしこれよりも私を苦しめることは私の内面から起きる戦いである。

福音を伝えながら主の恵みに満たされて、周囲の視線にも関係しなくて自由に福音を叫んだ時もあった。しかし主の前で資格のない自分の姿のために進めない足を無理やり引きずって伝道した時も多かった。

‘いまこんな姿で伝道してもいいのか。主の前で恥ずかしい霊的状態のままで福音を伝えてもいいのか。私のせいでよくない影響力が流れるのではないのか。’しかしこのような内面の戦いを通して主は私の実力ではなく私の従順を喜ぶ方だと気づかせてくださった。再び信仰をもってやっと声を出してみた。

“イエス様を信じてください。”しかしとても小さく感じるこの一言に、主の能力が多く含まれていることを感じる。主はこのような私の従順を喜んでくださると気づいた。

私はよく揺らぐが、主はいつも私に能力を注いでくださる。私は真実ではなかったが、主はいつも真実だった。私は転んで伏せたが、主は堅かった。主によって私は伝道することができて、主を伝えることもできた。

私が伝道をする根拠は神様である。私の弱さにおぼれてよろめく必要がない。私の間違いを問いただす必要もなかった。主が成さる働きにわたしができることはない。私ができることは主がゆだねる場にいるだけでよいのだ。そうすると主がなさるのである。すべては主にかかってあった。

“イエス様を信じてください。” 一言の能力

伝道をすればするほど、喜びがあふれるのに気づいた。しかしすべての民族に福音を伝えろという主のみ言葉に従順することがはじめから易しいことではなかった。自然とできることでもなかった。初めて従順できるときにどんなに大きな信仰が必要だったのか知らない。そうだとしていま伝道が易しいと言っているのではない。いまも主の御恵みが必要である。

たとえ口が鈍くてよく準備できてない言葉で福音の種をまいたとしても、聞く人たちの心の中でその種を育てるのは神様である。主は主の時に豊かな実を結ぶことを信じる。主が来られるときまで私は今日も福音の種を蒔く。[GNPNEWS]

金ウンス(20)

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