ジン・エドワド作 | 2007
構成の面でよく作られたフィクションドラマも感動を受ける時があるが、実際あったお話そのものが与える感動には比べられない。
このような観点から〈お話ガラテヤ人への手紙〉は、シラとバウルそしてその仲間たちの危険と冒険に満たした伝道旅行を読者に聞かせるように事実を根本にお話し形式で再構成した。
聖書に直接表現できなくて分からなかった内容。また聖書には短く表現されていた事件などを当時現場にいた人の目線で生々しく聞かせてくれるので、深い感動と涙をいただいた。
特に最初の異邦人の教会だったアデオク教会を通して異邦民族へと送られたバウルらが伝道旅程で船が破船して死にそうになった事件等と、体全体にイエスの痕跡が残るようになった拷問事件を見て、私はバウルが経験したことを生中継ではなく、録画放送を見ている時のように何気もなく聞き流していたと思う。
バウルが経験したその現場は、私の過去の自我がキリストへ帰るための事件だということにあらたに気付いた。
“ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。(コリント第二 11:25)”
同時にバウルと私たちにまかされた地上待機命令の尊さを覚えて、空しい惨めなこの世で美しく永遠の主の国を見上げて命を惜しまず捧げる本当の献身が、今日を生きる教会である私たちに起こるよう祈る。バウルの告白のように。
“わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。(使徒の働き 20:24)”
この本を通してバウルがガラデア書を書いたその背景と、異邦人の教会であるガラデア地域の教会を‘再び福音の前に’立たせようとしたバウルの心情を理解するようになった。
一世紀のクリスチャン。特にエルサレムを中心としたヘブリのクリスチャンたちには大きな偏見と壁があった。彼らが持っていた偏見は福音がユダイ人だけに限られた福音であること、それでヘラ人のような異邦の民族に福音を伝える理由がなかった。
また異邦人と食事を共にすることも罪に定められていたので、使徒ベテロさえも異邦人と共に食べていたとき、エルサレムから人たちが来た時彼が割礼者たちを恐れて離れてしまった(ガラデア書2;12) そのくらい福音は徹底してユダイ人用だった。
そして彼らが持っていた壁は後で回心した異邦人たちに‘完全な福音+モセの律法と割礼’を救いの必須条件として決めた。それがガラデア地域の異邦人のクリスチャンたち(大部分奴隷出身)が福音を通していただいた自由を奪って、600個以上のモセの律法順守と割礼儀式を通して彼ら自ら縛られる悲劇をもたらした。
福音を知って信仰で生きと言いながら、実はいまだに私の最善を尽くして生きてそれを何か律法で作って成し遂げよう、神様を満足させようと思う私たちに‘主はそんな方ではない。福音はそんな福音ではない’と言ってくださるような気がした。福音に律法と最善を加えようとする自我を見て‘神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛してくださった’という御言葉にひざまずいた。
み子を与えるまでに愛してくださる神様との関係が回復した私たちに、主を知らせてくださって愛を注いでくださる神様。天と地のすべての権勢を与えてくださったので、貴方たちは言ってこの福音を知らなくて、自分の最善と熱心さで自分自身を迫害している彼らを救ってくださるように、またこの福音が知らないこの世が救われ成すようにと祈っている。
私たちを聖書の主人公として、今日のバウルのように呼んでくださる主に、私たちを通して十字架の福音の命を産む者として、福音の愛の共同体として、命をかけて福音のために全てをささげる教会にしてくださることを、信仰をもって宣布する。[GNPNEWS]
ジョン・ジュンヨン宣教師