お祈りの場でみ言葉と祈祷の人生に気づく。

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▶ロ-マ書、エペソ人への手紙、ガラテヤ人への手紙を30分ほど大きな声で読む‘真理を叫ぼう’という時間を終えて下山する福音士官生徒たちの姿

初めて経験した5泊6日間の特別な祈祷時間であった。

この世のために祈るネヘミヤ52祈祷が始まる前。日曜日の朝の黙想の時、主に捧げられる香り発つ捧げ物はつまり‘私’であるといってくださった。

主の側ではすべてが豊かであるにもかかわらず、‘私は貴方を望んでいる’との言葉に泣き出した。

どのようにすると私を捧げられるのかと聞き、また聞いた。祈祷の初の時間を捧げろとの御心をいただいて、その言葉に従順した。

ネヘミヤ1章と共に福音の栄光という主題で始まったネヘミヤ52祈祷。最後の時間まで主は誠実に働いてくださった。

ネヘミヤ書を黙想して分かち合い、すべての問題をみ言葉によってお祈りを捧げる時間を持った。この時間を通してみ言葉と祈祷の生き方に関してわかるようになった。

迫害される教会のために祈る時、苦難の教会らの苦しみ、迫害と命への脅威までもうけいれて、真に進んでいく彼らを通して働いてくださる神様に会うようになった。福音として立ち上がる次世代のために祈る時は何をどのように求めればいいのかわからないくらい、次世代の切ない現実のために胸が痛かった。

神様の創造秩序を無視して行われている福音に反する罪。主はいないと思う人たちの姿をはっきりと見せてくださった。また世界に広がっている移住民たちはどんなに宣教に大事な存在であるかを教えてくださった。この祈祷をささげなかったら、すでに主が勝利したことを知らなかっただろう。

ネヘミヤ書を黙想して悟ったことがある。神様の御心をいだいたネヘミヤ、一人が民と連合して崩れた城壁を築く姿は、私と聖徒たちがお祈りを共にすることと重なって思われた。城壁が完成された時、二つの群れが賛美して城壁の両側を回って神様の聖殿に達したイスラエルの姿は、まるでヨハネの黙示録の一場面として思われた。

‘その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち(ヨハネの黙示録7;9)’

13章を黙想する時は、小さな隙を通して入ってくる悪の勢力によって、どんなに私たちの心を守りにくいかを見せてくださった。十字架の福音でないと決して勝利できないことをもっと確証する時間だった。特に次世代のためのお祈りがどんなに重要であり、急ぐべきことであるかもわかるようにしてくださった。

 ‘エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ(イザヤ書62;6,7)’

 ‘ユオル君、貴方が私の城壁で見張人になって、私がやすまないようにしよう。私が貴方のお祈りを聞いて休まず働こう’と言っているような気がした。

神様の国の復興と宣教完成は、ただみ言葉と祈祷で可能である。その場で信仰だけで進めることを決断する。主の前へ行く日まで、一人のネヘミヤとして立たせて下さる主を賛美する。マラナタ! [GNPNEWS]

シン・ユオル(召命教会)

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