神様からの仲介祈祷学校のお呼びに順従してから、もう何ヶ月の時間がたった。神様の導きを信じながら順従の道に踏み出したあの頃は、私に’信心の試験’がやって来るとはまったく予想できなかった。ただお祈りについてもっと知って持続的なお祈りの人生を生きるように期待しただけだった。
結果的に神様は私が期待していた全てを聞いてくださった。でもその過程は本当に予想する事もできなかった苦しみと葛藤の時間にぶつかった。恐らくこんな過程があるのを予め知っていたら始める勇気も出せなかった筈だった。神様は私の事が本当によく分かる方だと、もう一度経験できた時間だった。
祈祷は順従です。
仲保祈祷学校の課程中、腰の椎間板ヘルニアで苦しんだ。私は神様に”どうして私にこんな痛みをゆるすのですか?神様が呼んだじゃないですか?”と怨みながら放棄しようと思った。でもこの全ての過程が拙い私を教えるための主の恵みだったのを告白する。
最初はお祈りしようと思っている自分の頼りに順従したと思った。でもこの事を通じて主は私自身が条件と状況によっていつでも不順従できる存在的罪人なのを表してくださった。祈祷は選択の問題じゃなくて、どんな条件と状況の中でも順従しなければならない事であると分かっできた。
お祈りは聖書の教えです。
ヨハネによる福音書21章を読んでいた時だった。主はペテロに”本当に私を愛していますか?”と聞きました。ペテロは”私があなたを愛する事はあなたがご存じである。”と答えたがペテロはなぜか自信がなさそうだった。ペテロはもう自分がどんな存在か気付いたのだ。
主を従うけれど従える能力が無い存在的な罪人。そんな彼に主は”私の羊を養いなさい”と話しました。主の前に立っているペテロの様子に私の姿が重なった。主の前でただ泣いていた。
‘主よ、私がどんな人か分かっていますよね?あなたが命をあげて取り替えた羊たちを私に任せるなんて、その羊たちを養うには主みたいに私も命を与えなければいけないのに、私はそんなことが出来ないことを主も知ってますよね。
結局主は’お祈りは私の望みを求めることじゃなくて主の御心が叶うように求めるのだと聖書を通じて話してくださった。聖書とお祈りが別々だった私の生を一つに縛ってくださった。
お祈りは人生です。
私に”私の羊を養いなさい”と話してから何日経てなくて神学校の同期から青年部の担当を頼まれた。でも、何か気が向いてなかった。
‘きっと主が私のために呼んだ席ではないだろう’と忘れろうとしたが、会ったこともない知らない青年たちに向かった主の心が注いで私を苦しめた。もうちょっと確実な主の応答を待っている時、’私は福音を恥としない’と言う邪道パウロの告白を通じて私の様子を見せてくださった。
主の確かな意を待っているとしたが実は十字架の福音が伝わった時起こる問題を怖がっていたのだ。福音を恥ずかしがっている所望のない私にあなたの血の値を払って買った羊を任せる主は本当にどんな方なんだろう?
‘主よ、許してください。私はもう主といっしょに十字架に釘を打たられた存在なのをしばらく忘れていました。これから主が私の中にいます。どんなあしらいを遣られても大丈夫です。主の羊、たったお一人の人が待っていても行きます。この福音に命を掛けます。
私の仲介的な人生、それは私の人生じゃなく、私の中に住んでいるキリストが生きる人生だ。私のために自分の命をくださった主のために今日もお祈りする。’ただ私の中に主しかいないように…’
[GNPNEWS]