信仰はヘライ語で‘πίστις(ピスチス)’である。この単語はいつも神様から降りるプレゼント(gift)の意味として使う。したがって人間から出る何からでも決して信仰にはならない。
信仰はまた人間の信念とか自己確認とは遠く離れている。聖徒たちの人生と関連して‘ピスチス(信仰)’は‘神様の神的な説得(God’s divine persuasion)’とも言えるのである。
これは聖霊様が主導権をもって病んでいる自我の信頼、偽った自己確認を終わらせるように、絶えず説得してくださるとのことである。そして信仰でない不正の物を除かして清くしてくださる。つまりこれが信仰の本質である。
‘見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダから支えとなり、頼みとなるものすべて‘ささえとなるパン、すべて支えとなる水’を取り去られる。・・・・老練な呪い師を取り去られる。(イザヤ3;1-3)‘
信仰は神様の真実さを所有すること
‘信じる’はヘライ語で‘ἔχετε πίστιν θεοῦ(エケテ ピステ ピスチン テウ)’である。文字的に神様の真実さであることを所有することが信仰だということである。‘信じよう’という表現を英語聖書のいくつかの翻訳本からはヘライ語の所有動詞‘ἔχω(エコ, have)’、 “have faith in God (神様で信仰を所有しよう、 KJV, NIV, NASB)”として翻訳されている。
しかしヘライ語の本文を正確に翻訳すると、‘神様の真実さを所有すること’として解析される。一語で信仰は真実さである。
ハドソン・テイラは彼の本‘イエスに従う道’で、信仰には重要な法則があると言った。
1.神様は生きている方である。2.生きている神様は聖書を通して私たちに言ってくださる。3.そして神様はその言葉を必ず成し遂げてくださる。神様は真実な方であるからだ。
信仰は能動態ではなく受動態
我が言葉とか英語では‘信じる(believe)’を能動態として使うので、信仰が私からでたように錯覚することがある。しかしヘブリ語では‘信仰’と関連した表現を使うとき、かならず‘ヒピル構造(Hiphil form, 受動態)’を使う。ヒピル構造は文章の主体が自分からはできないので、他人からその行動と動作をさせられるのである。
私が主体ではないので、私からはできないのである。自分の能力の限度外の範囲である。‘信じる’のヘブリ語は‘ヘエミン’である。初めに始まる‘ה(ヘイ)’がつまり受動を表す言葉である。結局信仰とは人から出れないと現している。
信仰は真実が必ず要求される
‘もしあなたがたが信じないならば、たつことはできない(イザヤ7;9)。韓国語の聖書にはこのように‘信じる’と‘立つ’として使われているが、ヘブリ語の聖書はそうではない。英語も同じく‘If you will not believe, you surely will not stand.’である’
しかしヘブリ語の聖書では二つの動詞が全部‘信じる’の意味を持つ‘ןמא(アマン)’の能動態と受動態を使っている。結局救いは人間の存在から由来できないことをはっきりと表している。
(イムロ タアミヌ キ ロ テアメヌ)(If you do not believe, you surely are not steadfast.)
翻訳すると‘もし貴方たちが信じないならば真に真実がないこと’である。
ヘブリ語 ‘ヘエミン(; believe, 信じる)’,
‘ヤムナ(;faith, 信仰)’,
‘アメン(;amen=so be it)’,
‘ネエマン(; trustworthy, 真実な)’はすべての語源が同じである。
このようにヘブリ語は‘信仰’自体が真実さであることを強力的に立証している。 [GNPNEWS]
金ミョウホ教授(福音祈祷神学研究所)