聖書は‘神様の御心を抱いた愛の手紙’であるので、聖書を記録したもともとの言語は当然やさしいはずである。全人類が救われるべし(ヨハネの福音書3;16、テモテへの第一の手紙2;4)神様の心からの愛の手紙が難しいのは論理的にあってない。実際に聖書の言語はとてもやさしい言語である。
神様の心が川のように流れる聖書の原文であるヘブリ語は小学生も、執事も、み言葉に乾いて主を愛する人ならば、誰でも消化されやすい言語である。習えば習うほどやさしくて、頭がすっきりして、心霊が熱くなってはっきりした真理によって、もっと習いたくなる言語である。
ヘブリ聖書は、各単語に‘味(taste)’を持っていることを知っているのか!それで本当の聖書の味を知るためには原文をみないといけない。本当の真理のみ言葉である原文だけが、本物と偽りを区別させることができるのである。
ヒトン・カリジ(Wheaten College)の主なスピーカであって、アメリカの福音主義教会を揺らいだエイドン・トジョ(A.W. Tozer)が、彼の本‘この世にひざまずかないで’で英語の聖書のある翻訳文を鋭く批評した。‘その翻訳文を読むとき、私はバナナで剃刀する感じをうけた’
聖書原文の重要性を確認してみよう。
‘しかし、私が顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である(イザヤ66;2)
‘B is more than A’の原理によると、三人の中で‘私の言葉を聞いて恐れる者’に焦点が集中している。つまり心が貧しくて、心霊が嘆いて、何より神様のみ言葉を聞いて恐れる者に神様の関心は集中する。一次強調は‘こんな人’であり、二次強調は‘私が見る’で、三次強調は‘私のみ言葉を聞いて恐れる者’になっている。しかし一番重要な核心はアビトである。
アビト
アビトは‘顧みる、好きだ、高く評価する、見る’として各翻訳されている。そうするとヘブリ語ははたしてどんな意味を持っているのか。
ヘブリ語のアビトは全体を見るとの意味でも‘一目ですべてをみとる’という意味をもっている。この単語はイスラエルの9時の総合ニュースが始まる直前初の画面に出る、ニュース上映を知らせる信号である。それで私の主任教授だった方は、この時間には絶対電話を受けなかった。
そうである。神様も同じである。み言葉の前で、恐れで震える者の人生を‘私が一目で彼の人生全体をみとる’と言っている。恐れて不安な人生に対しての完全なる保証を私たちに約束してくださった。人によく見えるように偽っていた苦労の人生をおろして、神様の前に恐れおののいて、あの方の目に人生全体を見取られる人生こそ、祝福の人生ではないのか!人ではなく、私たちの神様に委ねられた人生。これがヘブリ語のアビトがくれる霊的な教訓である。
神様のみこころがそのまま、私たちの心霊に近づくとき、み言葉が働く重さと魂が変化する反応は確実に違うでしょう。‘最高の神学は他ではない、言語であり、テキストである’
皆さんの人生を全部ひっくり返られる真理を、純粋なままに教えて学べる聖書言語訓練学校(Bible Language Training School)へと招待する。そしてその味を見れる福音の新しい観点から見たヘブリ語のインテンシブスクール(Hebrew Intensive School)の講座にも招待する
[GNPNEWS]
金ミョンホ教授(福音祈祷神学研究所)