オンリー聖書 ! オンリー信仰! オンリーイエスキリストに

Date

2014-11-03

助けて下さる神様(2)

 “低くされたわたしたちを 御心に留めた方に感謝せよ. 慈しみはとこしえに.
敵からわたしたちを 奪い返した方に感謝せよ. 慈しみはとこしえに.”(詩篇136:23-24)

総体的な福音の前に立って、私たちに向う神様の遠大で雄偉な計画を見ました。2000年前の十字架の福音が私とどんな関係があるのかをわかった時に、福音は信じるだけで救援を得る神秘的で驚きの能力でした。

罪=私、私=罪と言う断ち切れなかった罪との運命を終えて、絶対に不可能たった義に至る道、これを神様が自ら成し遂げました。サタンの権勢に捕われて奴隷になった悲惨な存在、いくら努力をしても抜けられなかった死亡の体から救いを得たのは、天の神様が罪人である私たちを御心に留めて下さったから可能なことでした。

聖なる主が私を御心に留めて下さいました。ある誰かが私を忘れずに覚えてくれるだけでも感動します。なのに、なんの望みもなく魂の光を失くして地獄に落ちなければ成らない私たちを御心に留めて下さって息子を渡して下さるとは!

自分も自分を消したいと思うその時、主が私たちを記憶して下さいました。完全な恵みの福音の前で骨深く感謝を挙げるしかありません。行為にでも、律法にでも、善行にでもなりません。ただ完全な恵みでなければなりません。

私たちに救援される根拠が1%くらいはあるべきでしょうか。残念ながら私たちはそれまでも満たす能力がありません。ですから私たちは完全な信仰の根拠となる神様を全面的に依頼する信仰以外に他の方法はありません。福音がこんなに完全なのである事は事実なのに、神様の教会がこの福音を捨てるとしたら。。。!

ただ生ける神様の言葉が結論になるべきです。ただ聖書!ただ信仰!ただイエスキリストに帰るべきです。この生命の真理が変質され、混ぜてしまうのなら、これ以上のほかの希望はありません。

中世のカトリックはどこで、どのように神様の栄光を失くしましたか?聖書を奪われた時からです。神父らは主の祈り、使徒信条すら覚えませんでした。そんな時に主はマーティン・ルーサーを通して聖書の真理を持って声を上げさせました。知ってて叫ばない事を彼の良心は許しませんでした。ゴリアテの前のダビデ見たいに。

この事によって、世の中は光を見て、暗闇が引き下がる改革が起こりました。。生命を失くして死に掛かっていた者が、お言葉の光の前で生き返ったのです。遂に改革者たちは5大信仰綱領を立てました。オンリーお言葉!オンリー聖書!オンリー信仰!オンリーイエスキリスト!オンリー神様に栄光!

神様の召命が臨んで真理の味方に立つ者になったら、その中心に火が点いて決して以前のような平凡な暮らしは出来なくなります。このままでは生きられないと言う存在の乾きを感じたら福音の前に反応しなければならなくなり、人生は大変革を迎えます。

ダビデは平凡な少年で野原に居残るわけにはなりませんでした。ゴリアテを相手に戦って叫ぶしか成りませんでした。ゴリアテの前のダビデの姿を一コマの絵で表現するとしたら、私たちは現在、何の前に立っていてどんな姿ですか?

大きく騒ぐけど病みついている自分から足を抜けずに言葉だけ真似ってはいませんか?この様で福音を歌ったら世間にも、サタンにも嗤わせるしかありません。格好つけているが。髪を切られたサムソンのように、能力を出せません。

結論は私たちの味方である神様にあります。神様に捕られて生きたダビデはこのように告白しました。

 “お前は劍や槍や投げ槍でわたしに向かって來るが, わたしはお前が挑戰したイスラエルの戰列の神, 万軍の主の名によってお前に立ち向かう.”(サムエル記 17:45)

漠然としている現実、目の前に見える状況がいくら巨大に見えても、もう息を潜んで居てはいけません。再び福音の前に、ただ聖書に!叫びながら前に進んで行くべきです。私たちの教会を回復させて変化させる雄一の通路は、全部をかけて、その名前を頼りにして、主に向かう道だけです。(つづく)

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