母であることに気づかない息子を見ながら、偶像崇拝する国々の姿を考える

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出産後すべてを辞めて我を忘れて育児に専念していたある日、ふとこんな告白をしたことがあります。

’神様、生きることに精一杯で、国々のこととは自分と無関係の生活をしてきました。一日中家に閉じこもって、鬱になるなど、感心はただ自分しかありませんでした。神様の心を知ろうと訓練を受けたり、祈ってをしていたあの頃は遠い昔の話のようです。’

その頃、教会ではインドビジョントリップを募集中で、夫からはインドに行きなさいと進められました。私は子どもを置いてどこかへ出かけられるかと断りましたが、夫は子どもは自分が世話をするので、行きなさいと応援してくれたおかげで、ビジョントリップに参加することを決意しました。

毎週のチームミーティングをする度に私の中に起こる葛藤。個人的な財政もない、稼ぎも少ないうえに、まだ赤ちゃんを置いていくというのは、常識的にも話にならない話でした。本当に自分を呼んでくださったのか、やらなくてもいいことをやろうとしているのではないかなど、悩みは続きました。

その時、神様はイエス様の十字架を思い出させてくださいました。主の立場ではあえていかなくてもいい十字架の道。主はその道がどれほど辛いかを知りながらも従順したことを思い出せてくださいました。もう一度御言葉の約束を信じてインド行きの飛行機に乗りました。

神様の視線で見ようとしたインドは私の目には希望のない場所でした。人々の表情は暗く、道は汚れていて、街はうるさく、無秩序そのものでした。彼らが崇拝する牛と猿たちが街中を闊歩していました。インド滞在の12日間、神様はどのようなことを見させてくださるか期待感と恐ろしさがありました。

首都のデリーで一日を泊まって次の日にバラナシへ到着、私達をガイドしてくださる宣教師からこれからの日程を聞かされました。私たちの計画と違って神様は雨を降らせて、次の予定であったヌヘミヤ52祈りで、全ての日程の始まりを知らせてくださいました。

インドにいる間私は家族に対する心配と恋しさでビジョントリップに集中することが難しかったのですが、初日、私がその場所にいることよりはるかに守ってくださる神様を信頼しなさいという宣教師のメッセージが、ずっと心に残り、心に刻みながら毎度決意しながら進んでいきました。

各々が心に願っていることを信じている宗教、ヒンドゥー教の365日休まず偶像崇拝している姿が愚かに見えるもつかの間、自分自身は神様に対してこのような信仰の熱心さがあるのか省みながら悔い改めました。福音がすべてであるある証人によって、変えられるインドの地をもっと期待し、偉大の神様を賛美しました。

すべての日程を終えて韓国に帰国した日、神様の心を知り、栄光を見たと自慢していた自分に神様はもっと大きな事を用意してくださいました。家族に会う前に、牧師先生から携帯電話から見た子どもは、神様の守りと多くの方々の世話で、幸せ太りのようでした。早く会いたかったです。

教会に到着後、母をみたやいなや自分の所に走って来るだろうと思っていた子どもは、いくら両腕を広げても、名前を呼んでも私を除いた他の人々にはにこっと笑うものの、自分には視線をくれませんでした。インドで想像していた期待が非残に崩れました。全てをうしなったかのように、ただただ涙がこぼれました。心が痛かったです。これまでのビジョントリップを台無しにしたようなその日、神様に自分の悲しみを打ち明けました。

母であることに気づかず、他の人の胸に抱かれて微笑んでいる息子の姿が、まるで天の父を知らず、偶像崇拝しながら満足している国々の姿のようでした。習慣のように告白していた国々が主に戻って来ることを待ち望んでいる言葉が、奥底から告白せざるを得なかったです。

神様が望むその日が、もはや神様だけの夢ではありませんでした。妻コメルからホセアに話された神の御子を通した小さな出来事として悟らせてくださった神様を賛美します。

いつも寝不足で、食事もきちんとできず、育児に追われ何の変化もなしに生きる人生。体は疲れても愛する夫と子どもを与えてくださったことに感謝し、毎度国々のことに興味を持つことになりました。中断していたお祈り24365を、息子に祈りの情報と祈りの内容を呼んであげながら共に過ごす時間だけでも感謝でした。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩編 46:11)

アーメン、国々が主をあがめられるその日が、一日も早く来るように願いします。マラナタ!

カン・フンヒ姉妹(ムンカン教会)

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