お祈りが人生、そのものだった人の手

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▶ Jakob Heller, , 1614年,ヘラがディラの祭壇画をコピーした絵で【お祈りの手】はこの絵を描くための習作だった。(現在ディラの原作は残ってない)

大きなしわ。目立つ血管。ゆび骨は太いが、痩せ細そうな長い指。これで考えてみると、手の主人ははっきりして楽な人生は送ってないでしょう。しかしその手はちゃんと会わせられて天に向けている。手は‘お祈り’をしていた。

ディラは教会に捧げる祭壇画を描くために習作としてこの【お祈りの手】を描いた。ディラの祭壇画は使徒たちを描いたものだった。画家はこの世に福音を伝えるためにすべてをささげた初代教会の使徒たちを描く時、お祈りを一番重要に考えた。お祈りが使徒たちの人生、そのものだったからである。

画にはただ手一つだけ描いたのに、普通ではなかった使徒たちの人生と、それにもかかわらず絶えず祈っている敬虔と忍耐、このすべてがひとつに溶けてある。小さい画一枚が私たちに深い感動を与える理由が、つまりその理由ためである。

ドイツで活動した画家ディラが宗教改革が芽生え始めるころの1508年、この絵を描いたという事実は、またこれがただ目に美しく見える画ではない事実が言える。ディラは画を描く前に、はっきりお祈りに対して、お祈りの本質に対して深く考えたでしょう。

 ▶ Albrecht Durer,, 1508年 作, インク画

お祈りが創造主、神様と被造物の人間が通じ合える一番の偉大な行為であるという事実を知らなくては、お祈りが持つ敬虔、畏敬、忍耐をこのように表現できただろうか。それだけではなく画には顔が描かれてなくて、皆の手のような共感を形成する。また背景がなくて、時間と場所このすべてを超えた‘絶えないお祈り’を意味する。まるでイェス様が私たちに教えてくださったお祈りのようである。

事実、この【お祈りの手】にはディラを偉大な画家にするため、炭鉱の仕事をしていた兄弟の手だという美談がある。この美談が事実がどうかは確認できないが、確実なのは人たちがこの作品にそのような美談をおくほどに、皆が感動と能力と敬虔を感じるのは事実である。お祈りは人だけではなく、神様を感動させる。お祈りの偉大さは、つまりここにあった。

文 李サンユン(美術評論家)

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