神の約束と誓い (9)
信仰によって生きるということは、ただ信仰から出発し、信仰によって結論を下して生きることである。イエス様の死は、罪に対して完全に一度で終えられた死である。だから私もイエスの中で罪と永遠に別れ、古い自分に対しては死んだ者であり、神に対して生きる者になったということだ。この真理を信じるなら、私の古い感情や慣れ親しんだ罪の習慣が残っていても、このような告白ができる。
「私の古い感情や罪の習慣は、すでにイエス様と共に処理された。だから今、私は罪に対して死んでいるので、罪に縛られず、今や私の中にキリストが生きておられることを信じる。」
「ですから、あなたがたは罪があなたがたの死ぬべき体を支配することがないようにし、その欲望に従わず、またあなたがたの体を不義の武器として罪に捧げず、むしろ死者の中から生き返った者として神に捧げ、あなたがたの体を義の武器として神に捧げなさい。」(ローマ6:12~13)
私たちが信仰によって救われたなら、私たちの体の主人が変わったことを信じなければならない。そして私たちは、私たちの体を変わった家の主人に人格的に完全に捧げるべきである。それを献身という。つまり、イエス様が私の真の命の主体となって生きておられることを受け入れるのである。
神は創造のときに私たちに自由意志を与えられた。自ら進んで人格的決断を持って主の前に献身しなければ、主は私を支配することができない。私たちは長い間信仰生活を送り、多くの信仰知識を習得してきた。それなのに、なぜ私たちの中に力が現れないのだろうか?
ただイエスの十字架の福音だけが、私たちを真の再生の位置に導くことができる。主が私の真の主人とならなければ、この救いと献身の真理は実際のものとならない。自己追求をしていた古い自分が死に、今やイエスの新しい命によってひっくり返され、変わらなければならない。
天地の歴史を変えるには人を変えなければならず、人を変えるにはその中心が変わらなければならない。その中心を変える道は、再生の道しかない。神のすべての知恵と力が充満したイエス・キリストの十字架の福音を伝えるだけで、聖霊がこの福音を用いて真理を照らし、その道を歩ませてくださる。
私、すなわち罪に病んだ自我の悲しくも不可能な運命を解決するために、カルバリの丘で十字架にかかり死んで復活され、神の義と律法をすべて成し遂げられたイエス様を信じるだけで、神との隔たりが取り除かれ、神を父と呼ぶことができる。この驚くべき福音の義を聖霊が私たちに知らせてくださるとき、私たちの霊はその真理に調和し、アーメンと言うようになる。主の死とともに私が死に、主とともに生き返ると、今や私の中にいるのは私ではなく、キリストが生きておられることを信じ、信仰から信仰へと従うようになり、その方の命によって生きる奇跡を目にすることになる。
教会はイエスの十字架の福音で十分である。この事実を命のように握りしめ、叫ばなければならない。誰も自分を救わず、神の永遠の栄光を慕い、天国が実際のものとなった人々、罪を憎み、キリストにあって一つの兄弟となった命として生きる福音の証人である聖徒たちが一緒に集まり、一つの体を成す教会を仕えることこそ、私たちがこの世で享受する天国である。(2018年9月)
キム・ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表)
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