“黙想は私の病んだ自我を十字架に結論出すものである”

Date

2013年12月16日

‘ハガ’黙想の方法とは神様のみ言葉を私たちの心の板にきゅっと押して刻んで刻印する黙想である。

聖書で現された正しいみ言葉の黙想はどんな黙想でしょうか。

詩編記者は詩編1:2で‘このような人は主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを黙想する’と言っていた。ここで使う‘黙想する’の単語は、ヒブリ語で’ハガ(haga)動詞だ。‘ハガ’動詞は基本的に‘考える(think)’の意味をもっている。聖書では‘考える’の意味をもつ動詞が、‘ハガ’動詞以外にも、いろんな単語が出ている。

たとえば、私たちの主な関心の対象である‘世の物ら、特に財物、すべての世の愚像であるお金を考える’は、ヒブリ語で‘シャアル(shaar)’という単語がある。世俗的な考えを意味する単語である。箴言23:7で使われている‘考える’の動詞は、全体文脈から否定的な意味として使われている。

私たちが世のものを‘シャアル(考える)’。                                     お金と‘考える’との単語が、このように同一語源から出る、現代ヒブリ語がよりよく立証をしてくれる。‘シャアル ヤチグ(shaar yatsig)’という単語があるが、これはお金の為替を意味する。この世では、この為替のあがりさがりを通して、お金に結ばれて、この地での希望が行ったり来たりする地の事を考えて生きる者たちが多くいる。

また‘単純に考える、計画する(think,devise)’は意味を持つ‘ハシャブ(hashab)’がある。聖書で使われた大部分の単語らが、主に‘ハシャブ’である。これは一般的な意味をもって、肯定的でまた否定的でも使われている。

聖書をいちいち探してみることはできないが、ヒブリの学者たちは、パソコンという単語を‘ハシャブ’と同一語源をもって作った。ヒブリ語でパソコンという単語は、‘マフセブ’である。パソコンはだれもが命令をしない限り、考えを自らはできない。自体としては、考えの限界があるという意味だ。この1つの単語で十分な教訓が入っていた。福音に出会っても存在の変化をしてないものは、考える水準がいつもこの二つの面にとどまって、地の水準で生きていく。お金と考えの限界、つまり自己経験の水準で心配にしばられて生きていくしかない。私たちにはこの金鎖から抜け出すよう、ひたすら主の憐れみと信仰が必要である。

しかしみ言葉の黙想と関連して‘考える’という単語が使われるときは、前で説明した‘ハガ’動詞とタルムードで出た動詞‘ヒルヘル(hirher)があった。’ヒルヘル‘は’ある主題を反復して考える‘という意味に適するだろう。聖書の黙想の方法と関連されると、タルムードで出た動詞’ヒルヘル‘という単語は、一種の反芻法である。

み言葉は‘ヒルヘル(反復して考える)’                                       しかしいまのキリスチャンたちは、反芻説教を望まない。それで牧師たちは考えを与える説教はしない。なぜ?人たちは福音を嫌がっているからだ。とても知的で教訓てきな説教、すごい説教、笑えて終わる瞬間コメディーのような説教、全然負担を与えない祝福の説教、楽に聞く魂を慰める説教、気持ちをすっきりしてくれる恵みの説教、十字架の福音と弟子たちと苦難の福音は宣布されてない。

何より、み言葉の黙想と関連して、私たちが注目する単語は、詩編記者が神様のみ言葉を‘昼も夜も黙想する’という表現で使う‘ハガ’である。勿論‘ハガ’が使われた節は意味的に大きな差がある。詩編1:2で使われたヒブリ動詞を含めて、’ハガ‘と関連した形態は旧約聖書で大部分、’私たちの心の中である考えら‘と深い関連がある。

 ‘ハガ’の意味は‘単純に考える’の一般的な意味より、‘ある一定時間をおいて集中して考える、思い込む’という意味だ。それで‘最後を見る’という意味だ。私たちの人体の一番大事な領域である‘心(心臓)’に仕事の成就を現すとの意味だ。したがって以上のみっつのヒブリ単語(シャアル、ハシャブ、ヒルヘル)とは根本的に差があることが分かる。

したがって‘ハガ’黙想法とは、神様のみ言葉を私たちの心の板に、きゅっと押し刻んで刻印する黙想である(コロサイ人への手紙6:17)。こんな方法のよい実例は、み言葉と祈りとか、心に刻印する聖書の勉強、特に聖書の原文勉強になるでしょう。

 ‘ハガ’の黙想は心に刻印すること。                                         この時、私たちは神様のみこころを知り、そのかたと共に同行できる。現代ヒブリ語に‘ヘゲ(hege)’という単語があった。これは自動車とか船、飛行機の‘運転台(handle)’を意味する。この単語もやはり詩編で使う‘ハガ’の動詞から出た名詞である。

ヒブリの事故で見る時、運転台の機能は、ヒブリ’ハガ‘の動詞、’黙想する‘と深い関連があった。祝福あるその人は、神様が私たちにくださった運転台(hege、み言葉)を離れないで、集中して最後の終着駅まで掴んでいく人である。しかしもしかれが、運転台に集中しないとどんなことが起こりますか。事故、つまり死です。神様のみ言葉に集中しないで、思うままにみると、本当の黙想をしないとどんなことが起こりますか。永遠の死(地獄)、信仰の倒産を迎える。

祝福あるその人はだれですか。はい逆な心を変えて、単純に知的黙想を超えて、私を動かす神様のみ言葉を黙想する人である。私たちは聖書を目の前で開いて、膝まずく時にいつもハガの黙想を通して、私の病んだ自我の心を十字架に結論出す黙想をしないといけない。

私を動かせない信仰はこれ以上信仰ではない。正しくない黙想らをけっ飛ばそう。はい逆な自我の黙想を捨てて、昼も夜も集中して神様を黙想して、自分自身を死なせて、十字架の前に出ていく偉大な清い黙想で、大胆に足を運ばないといけない。病んだ自我を常に黙想して十字架に出ていかない結果は、罪であり、死である。心の苦労との戦いを信仰でやめて、十字架へ進もう。そしてガラテヤ人への手紙2:20が毎日実在になるようにしよう。

キム ミョンホ教授(福音祈祷神学研究所)

 

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