“歴史には神様の目的がある”

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永遠な愛の福音(3)

危機の前に置かれた教会に対する主の解き方は愛である。“主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ · タ (主よ,来てください)”(コリント第一12:22)愛は何にも勝つ。愛がなければ何にもならない。だから教会が愛を失くしたら主は燭台をその場所から取り外される。エペソ教会は初恋を失くした。褒められて、裕福な教会だった。真理を守るために戦っているうちに愛を失くした。争いでは勝ったが、愛を失くしてしまった。教会の一番深刻な危機は愛を失くした無関心である。

このように教会は危機の前に置かれているのだ。私たちは肉親で生きておられるが、血肉を相手にして戦わない。聖なる福音に出会って、罪に対して死んで、神によって生きる私たちは、もう血肉に従うのではなく、御霊に従っていきる、霊に属された者である。しかし、時々、人、事件、状況と戦うために本当の敵を見分けられなくなる。でも忘れてはいけない。天に属された私たちの戦いは血肉を相手にするのではなくて、支配と權威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのだ。(エペソ教会6:12)

教会は霊的に戦争中である。最後の審判の日、その日まで休憩はない。ヨハネの黙示録はこの世で起きている社会的な現状の背後にある実体を明確に見せてくれている。この国と教会の運命はこの国の政府ではなくて、天にある御座で決定されるのだ。

旧約聖書のダニエルもこれを見せてくれている。バビロン王国の英雄であったネブカドネツァル王、彼を立てたり低くさせたりされた方は、歴史の主管者である神様だ。世間の歴史は難事の英雄によって左右されない。究極的に歴史を統治される方はいきておられる神様であるのだ!神様の民はこれを信じている。

神様の歴史は神様の国と宣教完成という究極的な目的に向かって流れている。この歴史を統治されている神様の統治の方式が詩編2編に鮮明に書いてある。サタンに操られている世間の王達と官員たちがエホバとその方に油を注がれた者を対敵する。(詩編2:1∼3)これがこの福音に納得しない世間の反応なのだ。しかし天に居られる神様は嘲り憤って、恐怖に落とし怒って、彼らを驚かせるのだ。そして、‘聖なる山シオンでわたしは自ら、王を卽位させた’と宣布された。(詩編2:4∼6)

神様の国の権勢と御座を、みすぼらしく見える、弱く見える、キリストの御血の値で買われた教会に置かれた。そして宣布された!“あなたは、わたしの子。今日わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鐵の杖で彼らを打ち砕き燒き物の器のように粉々にする”(詩編2:7∼9)
終わりの時代、苦痛の時に主は新しい天と新しい地を準備されている。この地に歴史を許された一つの目的は、神の国の復興と宣教完成である。“この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来る”(マタイ24:14)この歴史の最後を信じているからイエスキリストの御名によって生まれ変わた教会は、銃剣を持たないで愚かに見える十字架と復活の福音をもって‘アメン、主イエスよ、早く来てください’と叫ぶ祈りで各地に向かっているのだ。<続く>[福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師(巡回宣教団、LOGミッション代表)

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