ある日福音に出会った。その福音が全部になる人生になりたくて共同体訓練をうけて、ついに主の愛に包まれた完全なる福音に導かれた。
訓練を終えて家に帰ってきて家庭でも主の愛で十分だというのを経験した。主は命を与えてくださることによって私に向けての愛を確証してくださったように、私も‘私を食ってあなたは生きてください’という人生を通して働いてくださる主の栄光を見た。
どう努力しても変わらないだろうと思っていた状況と環境と人間関係を通して私を割ってくださって、信仰に反応するとその中で主の命がすべてを回復してくださることを経験した。しかしこの驚くべき御めぐみは続かなかった。特に育児の領域ではそうだった。
2歳になったばかりの子供は少し敏感な子である。夜によく寝ないで頻繁に泣き続ける姿に私は大変さを感じていた。子供を見る間には何の仕事もできなかった。子供を真心を込めて愛せない自分の姿に気づきながら、ある瞬間‘育児の領域で主のように清く反応できないのかな・・’と疑問に思った。
サタンの嘲弄と笑われながら十字架の前へと進むのを拒否して、すべての問題の原因を子供に向けた。あるとき‘あの子さえいなければ私はもっと清くなれるのに・・・’という弁明と口実を思いながらどんなにたくさん心の中で子供を嫌っていたのか知らないのであった。それは結局殺人に値することでもあった。
育児領域も福音だけで十分
ある日世界のために祈る仲介祈祷会を担当していた。次世代のための祈祷課題に親が子を殺害する内容がよく登場していた。その日はそれが自分の話のように思われた。状況と環境だけ整えれば愛する子供の命さえも絶たせる恐ろしい罪が私の中にもあると気づいて苦しんだ。そのころ主は私を青少年福音キャンプの協力者として呼んでくださった。
キャンプは休み明けの前だった。ある学校はすでに開学をしていて、子供たちは欠席までもしてキャンプに参加する情熱を見せた。その子供たちの親は大体牧師、宣教師、信仰生活に熱心な方たちであった。しかしそんな親から育った子供たちの告白は私にとても衝撃だった。
‘親たちがお家で喧嘩するため家出したかったです’、‘お父さんが暴力を振っていたので心では殺しました’。人たちに見せる姿は福音によって生きるように見えても、ご家族にうつった姿はイエス様とはまったく無関係の人生だった。
この告白をしている子供たちの姿が瞬間私の子供が行っているような気がした。‘私が信仰によって生きていかないと愛する子供に罪の扉を開く余地をあたえるであろう’今まで観念的に知っていた内容をその時に直面した。
家庭で言えない子供たちを主の命のように思わないとどんなに信仰心がよくても全部嘘であることに気づいた。家族たちが主の証人として思ってくれないのに、外ではすべての人たちに’私は福音の証人です、主の人です‘ということは虚しいことでしょう。
このことを経験してから主は再び栄光豊かな福音の場へと招待してくださった。私の力では到底子供を愛することも、抱くことも、妻を理解することもできないが、私の中にいる主がこのことを成し遂げてくださるでしょう。ただ信じて進むときに私に実在になると思う。
主が注いでくださった福音は永遠で、根本的で、絶対的な福音である。どんな状況と環境も主の命の中にいればたやすく勝利できる福音である。イエス・キリストの愛は、すべての問題を沈めさせて決して揺らがない福音であると信じる。育児の領域でもこの福音だけで十分であった。[GNPNEWS]
イム・チウン牧師