祈ってみようとする自分の努力と奮闘を中断します。

Date

2015-07-13

エンヂュリュ・モレイ作| 2008 |

私の前に身を伏せろ / エンヂュリュ・モレイ作

速さを美徳として現代を生きているクリスチャンに、主との交わりはどの程度の価値であるだろうか。

忙しい日常に追われて神様と何の会話もなく、一日を過ごしていないのか。人の観点からの最善と努力で一所懸命生きていて、いま疲れていないのか。

神様は私たちの人生の主管者であり、統治者であるとの告白はしているが、実状は全人生を主に治まるよう捧げてない矛盾が私たちには存在する。

私たちの魂は主と交わる時、生命力が溢れて満足できるように創造された。神様と通じることを喜ぶのが私たちの本分である。

その交わりによって人生のすべての領域を統治されて、霊的生命が生かされ、十字架に従順することが可能になる。神様と交わるお祈りは祈祷の部屋、そこですべての勝利があることを知っているのか。

 ‘私の前に身を伏せろ’の著者エンヂュリュは、主に伏せている場所がクリスチャンの豊かな人生と勝利がえられる所だと言っている。お祈りという尊い道具を人間貪欲の道具として悪用する現実で、本当のお祈りの本質が何であるかはっきり言っている。

人と通じる道具である携帯電話は少しでも手から離なすと不安症になる時代。しかし多くのクリスチャンが主と通じるお祈りの場へ進もうとしないのである。

極端な人生の限界の状況に置かれた時、押入れの奥に放置しておいたお祈りの道具を取り出して誇りをとって使っていては捨てることが、お祈りに対する私たちの態度である。

この本はお祈りに対して人たちがなぜそんな態度をとっているのか説明する。肉に属している本姓は本質上神様を嫌がって嫌悪する。つまり神様との交わりを喜ぶことや、望むこころは肉的存在にはないのである。

みずからは祈ることが出来なく、喜んで主に進み出ることもできないのである。そうならばどのように祈ればいいのか。自らでは祈れない全的無能を認めないといけない。

 ‘主よ、私としてはできることが何もありません。私の情熱と努力を十字架の下に下します。自ら祈って見ようとする努力と奮闘を中断します。主よ。十字架の下に身を伏せて主の統治にゆだねします’ その時聖霊様が働き始めます。.

サタンの頭を破って全人類を罪から救った勝利の場。ガルボリの十字架!その十字架の下に伏せて祈る時、こんな素晴らしい奇跡がおこることを知らない生徒が多い。自我の牢に閉じ込められて一度も主が働くように全部を捧げない私たちに、ガルボリの十字架の場は神様の全能が臨む場である。

そこで人間のすべての希望が断たれる。主と交われない高慢、偽りの自我が壊れて人間の努力と最善が終わって、肉の欲張りが消えて罪に勝利できるのである。またこの世を治めている暗闇の勢力が力を失って、全ての戦争の勝敗がそこで決められる。

サタンは神様とのひそやかなお祈りの部屋が、サタンの国にどんなに致命的であるのか知っている。それなので神様と私たちの交わりを、サタンは全力を尽くして妨げる。テレビ、インタネット、忙しい日常、成功への野望、華麗な世の誘惑として。決して騙されてはいけない。自分を否認してお祈りの場へ進み出てお祈りを休むことをしてはいけない。

 ‘貴方がたは私をたずねもとめて、私に会う。もしあなたがたが一心に私を尋ね求めるならば(エレミヤ書29:13)’

わたしもお祈りの本当の意味を知って祈ったのが最近である。ただ肉親の欲を満たそうとする祈りが大部分だった私に、主は十字架の下にひれ伏す本当の意味を悟らせてくださった。

自我でいっぱいだった心を空にして、自分の無能を認めてひれ伏すと主が働いてくださることを数多く経験した。祈らない福音は全体にあり得ない。関係においても、主の働きにおいても主の国が臨むにも。主の日を待ち望んで戦えるのはただ主にひれ伏す時にだけ可能である。マラナタ! [GNPNEWS]

バク・ヒヨン宣教師

Morepost