罪が取り除かれた心の喜び

福音の力 あなたのすべての罪を許してくださった神の計り知れない憐れみに比べられるものが、この世に一つでもあるでしょうか? あなたの罪が許されたのに貧しかったとして何が問題でしょうか? あなたの罪が赦されたのに体が少し病んでいたとして何が問題でしょうか? あなたの罪が清められたのにすぐに死ぬとして何が問題でしょうか? 私たちの罪が許され、死の刺が抜かれたのに「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に感謝しようではありませんか」(第一コリント15:57)と歌わない理由がどこにあるでしょうか? 私たちは喜ぶべき最高の理由を知っています。「平安という花を胸に付けている人は幸せだ!」というジョン・バンヤンの言葉は妥当です。しかし、その花が「罪の赦し」という花畑でなければ、どこで育つというのでしょうか? 罪を抱えている心は非常に重いものですが、罪が取り除かれた心は羽のように軽くなります。私は罪の意識という良心の重荷を背負うくらいなら、むしろ肉体の苦痛に耐える方を選びます。[福音祈祷新聞] 『主に従え』(C.H.スポルジョン)より抜粋 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com

重い人生の荷があなたを縛っていますか?

人々は誰しも重い荷を背負って生きています。みんな辛くて、その荷を下ろしたいと思っています。それで財閥も、人気のある芸能人も、人々に認められていたどんな人も自殺するのです。重い荷を背負って生きることは、それでも大丈夫です。 すべての人間は罪に縛られて生きています。一人きりの淫らさ、嘘、貪欲、怒り、偽善。縛られた罪は言うのも恥ずかしいものです。誰に自分の罪状を明かせるでしょうか?だから隠し、取り繕い、縛られたままで生きているのです。縛られた状態から解放されたいと思って良い行いをしてみたり、自分だけではないと弁解したり、それでも自分はまだマシだと主張したりするのです。 誰かがあなたの荷を代わりに背負ってくれるなら、そして縛られた罪から解放して自由をくれるなら、あなたはまさに天国のような生活を送ることになるでしょう。でも、誰がその荷を代わりに背負ってくれるでしょうか?誰が縛られた罪からあなたを救ってくれるでしょうか?自分の罪すらどうすることもできない人間が、どうして他人の罪を背負えるでしょうか? 神様だけがそれをすることができ、すでに御子イエスを通して成し遂げてくださいました。イエス様に近づけば、重い荷を背負う人々を休ませ、罪から解放してくださいます。重い荷と縛られた罪のために受けなければならないすべての苦しみをイエス様が十字架で既に受けてくださいました。死をもってその代価を払われました。 もうこれ以上ためらわないでください。そのイエス様のもとにただ近づいてください。重い荷を下ろし、縛られた罪から解放されて天国を生きることができるのです。[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com

罪が取り除かれた心の喜び

あなたのすべての罪を許してくださった神の測り知れない慈悲に比べることのできるものが、この世に一つでもあるだろうか? あなたの罪が許されたのに貧しいなら、何の意味があるのか? あなたの罪が赦されたのに体が少し痛むなら、何の意味があるのか? あなたの罪が洗い清められたのにすぐに死ぬなら、何の意味があるのか? 私たちの罪が許され、死の棘が取り去られたのに、 「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します」(コリント人への第一の手紙 15:57) と歌えない理由がどこにあるのか? 私たちは喜ぶべき最高の理由を知っている。「平安という花を心に持っている人は幸せだ!」というジョン・バニヤンの言葉は正しい。しかし、その花が「罪の赦し」という花畑でなければ、どこで育つことができるのか? 罪を抱えた心は重くなるが、罪が取り除かれた心は羽のように軽くなる。私は罪責感という良心の重荷を背負うくらいなら、むしろ肉体の苦痛を耐えることを選ぶであろう。 [福音祈祷新聞] 「主にひざまずきなさい」(C.H. スペルジョン)から抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

良いことをしても罪は赦されません

ご家族は健康で、十分な財産もあり、お子さんたちも成功し、配偶者は優しく、良い友人たちに囲まれ、さらに煩わしい人間関係もないあなた。社会に良い影響を与え、寄付もして評判も良いですね。ご先祖様を大切にし、来世の準備もしているあなた。生活は余裕があり、これ以上何も望むことなく、このままずっと続けばいいと考えるあなたに、ただ一つ問題があることをお伝えします。 ただ一つの問題ですが、これはあまりにも致命的で、結局あなたを永遠の刑罰に処します。それは、あなたが犯した罪です。 罪を多少犯したと思っても、生活に特に支障がなかったですか?だから宗教活動もして、良いこともしているのでしょうか?良いことをしたからといって、犯した罪がなくなるわけではありません。 犯した罪は赦されなければなくなりません。誰に赦してもらうべきでしょうか?罪を犯した相手から赦されなければなりません。あなたは誰に罪を犯したと思いますか?あなたは神に対して罪を犯したのです。 あなたが犯した最も大きな罪は、神を心に置きたくなかった罪です。神を嫌った罪。あなたが犯したすべての罪は、ここから始まっています。神は宇宙万物の主であり、あなたの主人です。しかし、あなたがその主人の座を奪ったその時から、あなたは自分が神となり、自分自身を崇拝し、ただ自己満足のために生きてきました。「それが何の問題なんだ?みんなそうできなくて苦労してるんじゃないか?」と思うでしょう。 そうです。問題なのです。人の心に生じるすべての苦しみは、自己満足のために戦うことから生じるのです。主人の座から降りてください。神に主人の座を譲りなさい。その方の支配の中に入りなさい。あなたが罪を告白する時、あなたの罪を赦すために死んだ神の子イエスの血が、あなたを清めてくださいます。神が望んでおられる美しく真に幸せな人生を、今から永遠に享受できるよう導いてくださるでしょう。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。>お問い合わせ: gpnews@kakao.com

罪を裁かない方が良いですか?

そんなに愛が多いと言われる神様が、なぜ地獄を作られたのかと聞きたいですか?厳しい世の中で生きていくのも大変なのに、その大いなる愛で私たちの罪を許し、みんなを天国に送ってくれたらいいのにと思いますか? ある日、あなたの最も愛する人が強盗にお金を奪われ、ひどく殴られ、亡くなりました。警察はその強盗を捕まえて裁判にかけました。しかし、裁判官が非常に愛にあふれる人物で、その殺人犯を無罪とし、釈放しました。 その時、あなたの気持ちはどうでしょうか?おそらく、その裁判官を殺したいほど憎むでしょう。あなたは、彼が裁判官としての資格を持たず、公正さを実現する責任を果たしていないと強く非難し、激怒するでしょう。 では、もし神様があなたが望む正義に従って、あなたと私たち全員を裁かれたら、私たちの犯したすべての罪についてどうされるべきでしょうか?当然、あなたも私たちも地獄行きです。あなたは「私は罪を犯していない」と言いたいかもしれません。しかし、罪とは行いだけでなく、考えや心で犯したすべての罪を含むのです。 しかし、愛の神様は、私たちが地獄に行くことを望んでおられません。そのため、罪のないイエス様を、あなたの罪のために代わりに死なせました。あなたを地獄に送らないために、イエス様の死を代価として支払われたのです。この裁判は、神様の正義と愛を証明する裁判です。神様はあなたに「私の息子があなたの代わりに死んだから、地獄に向かう足を止めて、私のもとに来なさい」とおっしゃっています。 神様は今、あなたを呼んでおられます。あなたのための正義と愛の裁判はすべて完了しました。今、あなたが神様のもとに帰るだけです。神様の愛は尽きることがありません。その愛の神様を信じて、歩み寄ってください。[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> お問い合わせ: gpnews@kakao.com

「罪を犯す人は『悪魔』に属しています」

罪には形がありません。しかし、罪を見ればサタンを知ることができます。サタンの実体は正確に罪を通して現れます。 サタンは罪を道具にして神に反逆します。それゆえ、サタンに属する者は罪を犯さずにはいられず、罪を犯す者はすべてサタンに属しているのです。 「罪を犯す者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一 3:8a)」 あなたは誰に属していますか? 小さな湖に一匹の魚が悠々と泳いでいました。突然、美味しそうに見えるミミズがその魚の目の前でうごめきながら現れました。魚は冷静に何度も周囲を確認し、何も異常がないことを確認した後、ミミズを一口で飲み込みました。その時、突然強い引っ張る力が魚のえらを通じて感じられました。 見えなかった釣り針が魚をがっちりと捕えました。魚は全力で逃げ出そうとしましたが、強い釣り針は既にえらを貫いていました。もがけばもがくほど、釣り針はえらに深く食い込むばかりでした。 その釣り針は見えない糸に繋がっており、その糸の先には釣り竿があり、それは黒く煤けた釣り人の力強い手に握られていました。水中で自由に泳いでいた魚がミミズを飲み込んだ瞬間、その魚は釣り人の手中に入ったのです。 魚は悔しがりながら大声で叫びました。「私はミミズを食べただけなのに、どうしてこんなことをされるのか。私は釣り人と関係ない!」しかし、餌を食べた瞬間、その魚は釣り人に属するものとなったのです。このように、罪を犯す者は罪の元凶であるサタンに属するのです。 「罪を犯す者はすべて、不法を行っています。罪は不法です。彼が私たちの罪を取り除くために現れたことをあなたがたは知っています。彼には罪がありません。(ヨハネの手紙第一 3:4-5)」 「神の子が現れたのは、悪魔の仕業を滅ぼすためです。(ヨハネの手紙第一 3:8b)」[GPNEWS]

イエスの目には何が込められてたのだろうか?

バケツから水を浴びようと、 子どもたちが我も我もと手を伸ばす。指の間から流れ落ちる水が汚れを洗い流し、気持ちよく体と心を濡らす。微笑んで水を注いでいる少女の目には今何が込められているのだろうか。 神様は罪で汚れた人生をきれいにするために一人子であるイエスを十字架につけられた。罪のないイエスが十字架で死んで復活したことで、我々は新しい生命を得た。 イエス·キリストが流した血ですべての罪人は貞潔になった。罪人が貞潔になる瞬間、イエス·キリストの目には何が込められていたのだろうか。破壊される罪の押さえつけと爆発してしまうサタンの嘲笑と打ち砕かれる罪のくびきと…。. 称えよう!イエスが私たちを救って情潔にさせた。私たちを愛する神様を心を尽くして敬拝しよう! "この日にあなたたちを淸めるために贖いの儀式が行われ,あなたたちのすべての罪責が主の御前に淸められるからである。"(レビ記16:30) [福音祈祷新聞] <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

いったいイエスを信じるとは何ですか?

誰もが嬉しい知らせ、すなわち福音を聞きたい。福音を渇望する人のために多様な信仰の告白をカラシナの種宣教会が制作した伝道誌から抜粋、紹介する。 <編集者> "いった'いイエスを信じる'とは何ですか?" 教会に通っていることでしょうか? 聖書を読んで、献金することですか。 教理を正確によく知っているのですか。 善良に生きることですか? 正論のようですが、正解になるには不足しています。 イエスを信じることは、人生の主がイエスに変わるということです。これ以上自分が人生の王様の役割をしないということです。 それで自らは何もできず、自分の中の新しい生命になるイエス様が望む通りに考えて決定して従順することを意味します。つまり完全に違う人格になることです。 あなたの罪を無くすために神の息子であるイエスが十字架でそんなに無惨に死ななければならないのですか。'許してやる'って一言言ったらダメなんですか? そうです。あなたの罪は神の統治を受けたがらない神様の国に対する反逆罪だから当然地獄刑罰を受けて当然です。地獄は、神様のいないところだからです。 あなたはそれほど大きな罪を犯した記憶がないかもしれません。 しかし、神様を心に置きたくない罪は何よりも一番大きな罪であり、この罪によって状況と条件が与えられればすべての罪を犯すことが可能なのです。 依然として人生の主であることに固執しますか。王座から降りたら問題が発生しそうですか。違います。今あなたを治めようとするその方は、あなたを命がけで愛し、あなたを天下より尊く思う方です。その方はあなたのすべてを治めるのに十分な権能と知恵を持った方です。今、イエス様の統治の中にお入りください。新しい人生が繰り広げられるでしょう。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞> お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

アポリュミ (άπουλλι), 弟子道のクライマックス

ヘブライ語で出会う福音書(11) ルガの福音書9章23節は24節と繋がっており、24節で弟子道の最高の絶頂をなす。イエスは皆に言われた。“わたしについて来たい者は,自分を捨て、毎日自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。”とピリオドを打ち、新しい文章が始まるのではない。 続いて“私に従い”の後、重要なことは“自分の命を救いたいと思う 者は,それを 失うが,わたしのために命を失う者は,それを救うのである。”と述べなければならない。 ヘラ語の言葉遊び(word-play)を通じて、“自分を捨てるー十字架を背負う-主に従う-自分の命を失う”、この4つの単語が合わせて救いに至るというイエス様の言葉になる。これはヘラ語の最初のアルファベットである”アルファ”(α)で始まる3つの単語が結合して作られたが、本当に不思議で驚くべきことだ。 “ἀρνέομαι”(アルネオマイ=自分を捨てる)、“αἴρω σταυρός”(アイロス=十字架を負う)、“ἀκολουθέω”(アコロールテオ=従順して最後まで神様に従う)、弟子道の頂点である”αοποιιι”(アポールリミー命を失う)に至ることになる。 弟子道の頂点は自分をこの世で徹底的に憎み破壊し、自分に対しては何も残さないことを意味する。 この地で‘私’という病んだ自我(ego)に対して空中分解させてしまうのだ。このように4つの単語を合わせると(シグマ、Σ=合算)、”Σ́ωω”(ソゾ=救う!)、そうすることで救いが得られるということになる。 これが聖書が語る福音である。このような福音が講壇で大胆かつ当然に宣布されなければならない。 そうして初めて神様の前で私たちの魂が震えるようになる(エペソ6:19-20)。“わたしが 顧みるのは苦しむ人,靈の砕かれた人、わたしの言葉におののく人”(イザヤ66:2) 私たちは神様の御言葉を徹底的に塞いでいる自我を徹底的に憎まなければならない。福音は最も嫌悪でいやらしい自己への徹底的な憎悪を求める。 この自己嫌悪は神様の国に入るまで続けられなければならない。実際、自分を捨てる(ἀρνέομαι)というヘラ語の単語の意味は‘交際を拒否する’ということである。 真にキリストの弟子になって罪を許されて永生を得て神様の国に入ることを望むなら、これ以上自分自身と交際して付き合うことを“駄目!”と拒否しなければならない。病んだ自我と交際してそこに取り付いて得られるものは何もない。 罪である自我に対しては身震いをして、これ以上何の関係も結んではならない。決断しよう!そしていつも神様の御言葉に耳を傾け、無条件に言葉に従おう!そして、何事があっても御言葉の前にうつぶせにならなければならない。 自分を捨てるのは自分自身だけでなく家族も含まれている。そこで、主はルカの福音書9章23-24節の言葉が抽象的にならないように具体的に述べた。“自分の家族の者が敵となる…。(中略)…また, 自分の 十字架を 擔ってわたしに從わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを 失い、わたしのために 命を失う者はかえってそれを得るのである。”(マタイ10:36-39) [GNPNEWS] キム·ミョンホ教授(福音祈祷神学研究所) 筆者はイスラエルで旧約を専攻し、ヘブライ語が神様の心を込めた言語であることを悟り、現在聖書言語学校を通じて信仰の世代を築くことに全力を傾けている。