[ソン·ジュンギコラム] 教会は弟子たちだ

教会はイエスの土台の上に立った。イエス様の言葉を信じて実行する人々が集まって教会に呼ばれてきて2千年を越える。イエスはこれまで一度も誰かに教会を開拓しろと命令しなかった。むしろ教会はイエス様、ご自分が直接建てるとおっしゃった(マタイ16:18)。ただ、私たちに行って弟子にしろと言っただけだ(マタイ28:19、20)。 ここにコシウォン教会を建てた私の話が一つある。 青年期。祈っているうちに私は教会を建てたくなった。狂ったように牧会がやりたかった。実際、幼い頃から周りの人々が牧師や宣教師になるよう助言した。しかし、一度も耳を傾けなかった。 そのようなことは変化山に登ってモーゼとエリヤと共にイエス様と対話した人だけがすることだと考えた。それとも雷と暴風の中で神様の大きな声を聞いたとか、突然深刻な病気が奇跡的に治ったとか、命を捧げると誓願した人たちが行く道だと思った。 そんな私に全く予想外のことが起こった。期待したように召命がはっきりとして与えられなくても構わなかった。無条件に牧師になりたかった。それも「今すぐ」になりたかった。 少しも遅れたくなかった。祈りの座で願いができるやいなや布団の包みを背負ってソウルに上がった。母校会の牧師が勉強した神学校があると聞いたからだ。 一応学校のあるさダン洞に行った。母に公衆電話で伝えた。夜9時だった。お腹がとても空いていた。ポケットには3万ウォンがあった。町を回ってみると、一見「寝食提供」アルバイト広告が目についた。コシウォンの前だった。 “マジックコシウォン” 他に選択がなかった。私はマジックコシウォンで24時間総務アルバイトを始めた。事務室を一晩中守り、120室を回りながら時期に合わせて家賃を集金することだった。ご飯は無料で、給料は部屋を提供する代わりに60万ウォンだった。 そこはとても狭かった。さらに事務室も机一つ、ベッド一つがかろうじて入る大きさだった。しかし、関係なかった。無条件神学大学院に進学しなければならなかったから。 部屋ごとに回りながら集金をするのに心が痛んだ。私よりもっと貧しい人々でいっぱいだった。アルコール中毒者、麻薬中毒者、家出青少年、職業女性たち、事業に失敗して借金取りを避けて隠れている家長たち。 彼らに会って胸に火がついた。教会を開拓するために長く待つ必要はなさそうだった。私は帳簿をもう一つ作った。元の帳簿は家賃集金のためのもので、もう一つは伝道のためのものだった。帳簿の表紙に「マジック教会」と書いた。 その中に部屋番号と名前を書いた。そしてそれぞれの祈祷タイトルを入れるカッコを作った。毎日7つの部屋を訪問し、それなりの訪問を始めた。 イエスは取稅人と罪人の友人だった(ルカ7:34)。当時、イエス様がソウルのどこかを訪問されるなら、私はそこがマジックコシウォンのようだった。彼らは一様にイエス様がとても必要な人々だった。貧しく、心身が壊れていて、真理の光がなくて苦労し、闇の勢力に精神的に抑圧され、霊的に押さえつけられていた。 そのようにコシウォン牧会が始まった。 事務室でノートを持って祈った後、各部屋を訪問した。人々は集金日ではないのに総務が訪問したことを不思議に思った。私は「新しく来た総務なので会話をしてみたい」と話した。一人も断る人がいなかった。会話は主に屋上で行われた。そこに古いソファが二つあった。 伝道が始まって数週間が過ぎた。ところが66号の部屋のおじさんに会うのが難しかった(名前は覚えておらず、部屋番号だけ覚えている)。その部屋からは死体の腐るにおいがした。ノックをしてもいつも返事がなかった。そんなある日、彼がドアを開けて対話に応じてくれた。 ほとんどの時間を部屋に閉じこもっていた彼は、麻薬中毒者であり逃亡者だった。事業に失敗し、同業者に裏切られ、詐欺の汚名まで着せられたようだった。 有名な大学を優秀な成績で卒業して留学まで行ってきた秀才で、幸せな家庭を築き、薬局事業も好調だった。10軒以上の薬局がすべてうまくいっていた。しかし、問題は麻薬性薬品を引き抜き始めたことから始まった。 この事実を知った同業者が先に彼を通報した。その過程で裏切りを感じてから壊れ始めた。二人は幼なじみだった。しかし、ある瞬間からひどく憎み始めた。 そんなある日、同業者が書類を作り、すべての財産を処分して消えた。それで彼は莫大な借金を負うことになったと言った。以後、家庭を保護する次元で書類上離婚をし、1年ほど隠れて暮らす過程で再び麻薬を始め、監獄に何度も行ってきた。そうしているうちに家族はばらばらになり、彼は今だに毎日酒と薬を飲んで暮らしていた。 昼間に始まった話が夕方まで続いた。話を終えた後、彼は私にお肉をおごってあげたいと言った。誰かが自分の話をそんなに長く聞いてくれたことがないんだって。そして、会話をしながら半日もお酒を飲まなかった自分を感心した。 食堂で彼が尋ねた。 「ところで何をする人だから私の話をこんなに長く聞いてくれるの?」 私は思いつき次第すぐに答えた。 “愛してるから” 突拍子もない短い言葉に神様が働いてくださった。しばらく沈黙していた彼が突然涙を流した。 彼は行き来しながら私が祈っていた姿を何度も見たと言った。最初は私が病人だと思ったという。ところが、見るたびにうずくまってつぶやいて、一度は何と言っているのか盗み聞きしたという(コシウォンは防音が全くできない。いくら小さくつぶやいても、少しだけ耳をすませば全部聞こえる)。 すると、コシウォンの人たちの名前を呼びながら祈ったというのだ。その後、新しく来たコシウォン総務が部屋ごとに訪問して対話をし伝道をしたという噂も聞いたという。私が牧師になる人だという噂も。 彼は生涯教会に一度も行ったことがないが、自分の番になるのを長く待ったと言った。そして涙をぬぐいながら言った。 「神様は本当にいらっしゃいますか? では、私は何をすればいいですか?」 私は何もしていない。ただ彼のために何週間祈っただけだ。そして会ってからも何もしなことがない。ただ半日、彼の暗い人生の話を聞いたのが全てだった。彼は神様がすでに伝道をしておいた魂だった。 私は答えた。 「イエス様を信じればいいです。兄貴、私が祈ってあげます」 私たちはハラミを焼いていたその場で一緒に祈った。迎接祈祷もした。そして私が読んでいた聖書をすぐに渡した。私たちは食事の後、屋上に戻った。 その夜、マジックコシウォン屋上では徹夜礼拝が行われた。私は彼に賛美歌<私のような罪人を生かした>を教えた。私たちは400回ほど繰り返した。賛美している間、ここ数週間迎接した人たちの一人一人が思い上がってきた。 真実は真実の行動によってのみ他人に伝わる_トルストイ(Leo Tolstoy) [福音祈祷新聞] このコラムは筆者の著書『最後まで行け』から著者の許可を得て抜粋、掲載します。 |ソン·ジュンギ|総神神学院卒。ウェイチャーチ担任牧師。「教会と宣教は一つ」という主張を理論だけでなく、宣教的教会開拓実行を通じて従順を通じて示している。 著書『最後まで行け』など10冊の本にこれまでの考えと従順の旅程を盛り込んだ。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

福音の能力

この時代の悪行に関するすべての統計を私にくれ。可能であれば、悪を行うすべての者の名前を言ってほしい。できれば、破壊された家庭と停滞状態に陥った教会の名簿をくれ。できれば、大国が世界支配のために開発した秘密兵器のリストをくれ。これらすべてをあなたが私に与えても、私は震えたり涙を流したりしない。 「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(ヨハネの手紙一:4:4)この言葉を覚えろ。もし神様が私たちの内にいらっしゃらなければ、私たちのすべての希望は消え、我が国のすべての教会が門を閉めなければならないだろう。しかし、もし主が私たちの中にいれば、私たちのすべての愚かな行為を悔い改め、私たちのすべての肉体的なものから清さを得て、聖霊に満ちて勝利に向かって前進しよう!こうすると、地獄の門は決して教会に勝つことはできないだろう。 [福音祈祷新聞] 「神の方法で復興せよ(レオナード·レイブンヒル)」より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

神様の知恵、神様の能力、十字架の福音

キリストの中で完全な教会(4) 「どうか、わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるようにし」(エペソ1:17) 神様に出会う唯一の道は霊的に目覚め、私たちの霊の目が開かれ、心霊に霊の機能が蘇ることだ。私たちの鈍くなって呪われた霊が生きて居られる神様のみ言葉を理解させて、私たちの魂に話される。福音の真理を聞く時にその事が起こる。 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24) このためにはまず信仰を通じて私たちの霊の機能が蘇らなければならない。ところで信仰はどこから生まれるのか! 粗末な哲学や宗教や人間の数多い知識の言葉を聞くからといって成り立つものではない。神の生命、真理の福音を聞く時に私たちの死んだ魂が蘇って主を見ることになる。 中世に堕落したカトリックのように十字架救援の真理を覆い、行為で救われるという誘惑に目が回る瞬間、私たちは神様の呼び掛けを離れるしかない。行為救援のような考えは、まさに教会の堕落であり、腐って座り込んだ中世の暗黒時代を作り出した教会の悲劇だった。宗教改革に従う私たちの心が緩むと、神様の呼びかけを逃す恐れがある。 イエス·キリストはすべての世界の万物を統治し、治め、万王の王、万主の主になさる。そのように復活されて昇天されて、その栄光を回復された主が、十字架の死で連合させた教会を御自分の体にさせて万物の中で万物を充満させる方の充満だという。教会は外見上、みすぼらしいし、たいしたこともなく、軟弱な素焼きのようだと言える。しかし、その中にいらっしゃるキリストは栄光と能力と祝福に満ちた方だ。イエス·キリストによって命を得た人は世の中が耐えられない。世の中をひっくり返して歴史を揺るがした人々は、個人の人柄がすごい偉人や能力のある人々ではない。素焼きの中に宝されたイエス·キリストが歴史を変えて、世の中をひっくり返す福音の能力として現れたのだ。 したがって、教会は福音で新しくなることができる。教会は驚くべき主の約束、福音の栄光と能力と祝福で現れる。 それなら、私たちを神様の形でキリストの中に充満した者として完全な者に立てる神様レベルのことを神様がどのように成し遂げるのか! 絶望的な私たちにそのことがそのまま現れる秘密は驚くべきことに私たちが注目しなかったイエス·キリストの十字架の福音にある。人々にあれほど軽蔑されて愚かに見えるイエス·キリストと十字架の福音がまさに神様の能力であり、神の知恵だ。その十字架の福音の能力がまさに最も不可能な人生を丸ごと存在的にひっくり返して変化させる。そして、そのように変化した人間たちを通じてこの世が変化する。神様の最も完璧な知恵であり、最も完璧な能力がまさに十字架復活の福音であるのだ。これが秘密だ。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

危機の時はちょっと立ち止まって

キリストの中で完全な教会(2) さまざまな 道に立って眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、 魂に安らぎを得よ。(エレミヤ書6:16) しばらく立ち止まって、主の呼び掛けに私たちの焦点が正確に合っているのか。神様の呼びかけを完全に理解して目線を変えず、妥協せず、変質せずに正しく立っているかを調べなければならない。 危機に瀕した教会が一番先に調べなければならないことは、神様が保障してくださったその心強い基礎の上に立っているのか! もしかして砂の上に家を建てていないか! ということだ。 主は砂の上に家を建てるな! 言われる。福音を聞いてその福音を行わない者は、必ず砂の上に家を建てる者のように愚かだから危険な目に会えばその基礎が明らかになって激しく崩れると主は言われた。 私たちの人生も同じだ。主は「拠り所がこわされたら、正しい者に何ができようか」(詩篇11:3)おっしゃる。自分の人生を耐えて頼りにしている居場所がどんなものなのかを見なければならない。自分の人生、自分が主人になって頼りにして、何らかを基盤にした人は、それが崩れれば終わりだ。ところが義人は言う。「すべてが揺れる日、拠り所が崩れれば私の避難所である主のところに駆けつけろ。’ 自分の人生の拠り所を今どこに置いたのか!教会は果たしてどこに立っているのか!世の中の世論、思想哲学、あり集団の教権という場所に立っているのか! 主は教会をそのような場所に建てたことがないと言われる。教会の敷地は永遠の岩であるイエス·キリストである。イエス·キリスト以外の何も教会の敷地にはなれない。教会はただイエス·キリスト、その十字架福音の敷地に立っている。神様が夢見る教会は建物や組織ではなく、まさに神様の呼び出しを受けた群れ、すなわちイエスキリストの十字架を通じて神様の聖なる子供に生まれ変わった神様の民たちだ。そして一人一人を呼んだビジョンの最後は「すべての人を キリストにある成人として 立たせるためです。」(コロサイ人への手紙1:28)と言われる。 神様が夢見る教会は十字架に生まれ変わった民たち 教会は生命力のある、頭になったキリストの体になった生命の有機的共同体だ。キリストの生命力が各肢体ごとに流れ、すべての肢体の中にイエスの生命が充満して育ち、キリストの成長した分量に至るまで、キリストの中で完全な者として一人一人が建てられるのが教会を呼んだ神様の呼びかけだ。もしかしてこの目標を逃しているのではないか! 果たして韓国教会の聖徒たちは、この呼び掛けの目標にふさわしいように、その目標に向かって育っているのかを見なければならない。 真の信仰で生きている新しい被造物となった聖徒で構成された聖なる教会、世の中と罪悪に勝って、自分に勝って、最後の勝利を勝ち取る神様の聖なる主の教会! これがまさに教会に対する神様の呼びかけである。 (2018年7月) <続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム]根本主義(3):根本主義の衰退

私たちは根本主義運動の先駆者に大変な負い目を負っている。悲しいことに,過去の世紀に彼らの戦いの必要性を理解するキリスト教徒はほとんどいない。彼らが大胆に乗り出さなかったら,多数のアメリカの教会が宗教改革の心臓部であったヨーロッパを霊的に荒廃させた,偉大な力を持つ神学的自由主義の影響に降伏していただろう。 元々根本主義者たちは聖書的教理が軽く受け入れるにはあまりにも貴重だということを理解していた米国の神学者たちと牧師たちだった。彼らは聖書の無誤性、キリストの唯一性、復活、永遠な生命と永遠な呪いの現実、人間堕落のような根本的なキリスト教の真理を断固として弁護した。この初代の根本主義者たちは神様のみ言葉に対する固い意志と真理に対する交渉を拒否することで勝利した。これが、自由主義が米国教会の景観を絶対覆せない理由であり、聖書を最高に考え、福音を忠実に伝える教会が今にもある理由だ。 しかし、悲しいことに、根本主義運動は初期に成功するや否や、ほぼ同時に緩み始めた。学問的に認められるために必死だったある集団の根本主義者たちは、時代の流れであった多元主義から自分を守ることができなかった。神学的自由主義に対抗して設立された学校は、自由主義神学に過度に露出されて、初期の根本主義の強力な立場(聖書の無誤謬)を放棄し、聖書の無誤謬について妥協し始めた。驚くべきことに、一部の根本主義学校と教会は、創立した一世代が過ぎる前に、聖書の無誤性に対する彼らの献身を放棄してしまった!これらの機関と関係のある人々の大半は速やかに「根本主義者」という名を否定して捨てた。 もうひとつの根本主義の集団は反対方向に動いた。彼らは学問的に認められることに執着していた仲間たちが、根本主義の基本をあきらめてしまったことをよく知っていた。そのような理由で彼らは学問に不信を抱いたり、または学問を完全に捨ててしまった。このような根本主義的運動の右派は争い好きの分離主義者によって絶えずに分裂してしまった。彼らの中で律法主義者たちは外面的に現われる問題だけを極度に強調した。時々些細な問題が主な討論や議論となり、重大な教理を代替することがあった。これらの群れは、信者たちの実在的な根本を守るための時間よりも多くの時間を人々の髪の長さや女性の服装など重要でない問題を討論することに多く時間を費やした。 つまらない口論を好むすべての極端な律法主義者はついに根本主義という用語を傷つけてしまった。知能的にも気質的にも,この集団の根本主義者たちは根本主義運動の父達があれほど強力に守ってきた高い信念を完全に捨てた。その結果,根本主義運動は教理を巧みに軽視する誘惑に負けてしまった。この集団の根本主義者たちが出版した資料の中に、真の教理的または聖書的な深みを持った重要な著作物が全くないという点は注目に値する。そして、「根本主義者」という用語は、この好戦的な群れの代名詞になってしまった。 ここ数年、根本主義者という言葉は世俗的なマスコミによって誤用されてマスコミは自分たちが考えることのできるあらゆる宗教的狂信者にこの名前をつけた。 門を広く 初期の根本主義の論理的で神学的だった精神はすべて死んだ。 現代の福音主義者はあまりにも喜んで教理を過小評価している。根本主義的な先輩たちとは異なり、現在多くの人々は真のキリスト教が幅広く異なる―その上矛盾である―信仰体系まで受け入れるほど十分に広がらなければならないという提案に完全に同意している。多くの福音主義者は根本的な教理上の違いにかかわらず、カトリック、東方正教会、極端な恩賜主義者、自由主義者を自分たちと同じように考え、彼らとの霊的同盟を結ぶために努力している。 歴史的に福音主義者と根本主義者はほとんど普遍的にエキュメニカル運動を拒否してきた。エキュメニズムの主な力は世界教会協議会(World Council of Churches)であったが、聖書的なキリスト教は全く関係なかったこの団体は、超自由主義的な教団の中から会員を募集することを好んだ。結果的にエキュメニズムは、福音主義者に少しも影響を及ぼすまでには至らなかった。 エキュメニカル運動の最も栄えた時代であった1960年代にも、福音主義教会は劇的な成長を経験してエキュメニカル教会は急速に衰退した。10年前の世界教会会議は失われた運動の遺跡のように思えた。 しかし、今やその絵が変わっている。驚くべきことに、今最も強力なエキュメニカル勢力は、沈みつつある福音主義の下で、恩賜主義運動、カトリックと福音主義の一致、協同的な大衆伝道、そしてキリスト教言論界の声とともにある。 高さを下げる 主な福音主義の特性である「根本」を剥奪しようとする攻撃的な努力が続いている。福音主義の影響力のある声は、根本を最大限受け入れられる最も単純な"信仰の陳述(the Statement of Faith)"に変えるように促す。そして、こうした声は全般的な福音主義の中で聞くことができる。より広い寛容とより包括的なものを訴えるのは,恩賜主義者,世代主義者,カルヴィン主義者,アルミニアン,改革主義者,ルーサー教の指導者,すなわちあらゆる種類の福音主義者から来ている。 (2013年に死ぬ前まで)トリニティ放送ネットワークの会長だったポール·クラウチ(Paul Crouch)を例に挙げると、彼は"私がよく言っているように、ある神学者が異端だと考えるのが他の神学者には定説です"と述べた。しかし、クラウチは我々が我々に一機に与えた信仰のために力を尽くして戦わなければならないというユダ書の3節を知っていた。彼は言った。"それなら『信仰』とは何か?" クラウチは、絶えずに成長する人々の声のなかで、使徒信条が「信仰」に属する者とそうでない者の境界線となるべきであると主張した。しかし使徒信条が果たして我々にキリスト教信仰の最も確かで交渉できない根本を提供するのだろうか。そして、私たちは使徒信条がどれほどこのような問題に対して権威があると自信を持つことができるか。次の時間に、この点について見ていくことにしましょう。 キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

いったいイエスを信じるとは何ですか?

誰もが嬉しい知らせ、すなわち福音を聞きたい。福音を渇望する人のために多様な信仰の告白をカラシナの種宣教会が制作した伝道誌から抜粋、紹介する。 <編集者> "いった'いイエスを信じる'とは何ですか?" 教会に通っていることでしょうか? 聖書を読んで、献金することですか。 教理を正確によく知っているのですか。 善良に生きることですか? 正論のようですが、正解になるには不足しています。 イエスを信じることは、人生の主がイエスに変わるということです。これ以上自分が人生の王様の役割をしないということです。 それで自らは何もできず、自分の中の新しい生命になるイエス様が望む通りに考えて決定して従順することを意味します。つまり完全に違う人格になることです。 あなたの罪を無くすために神の息子であるイエスが十字架でそんなに無惨に死ななければならないのですか。'許してやる'って一言言ったらダメなんですか? そうです。あなたの罪は神の統治を受けたがらない神様の国に対する反逆罪だから当然地獄刑罰を受けて当然です。地獄は、神様のいないところだからです。 あなたはそれほど大きな罪を犯した記憶がないかもしれません。 しかし、神様を心に置きたくない罪は何よりも一番大きな罪であり、この罪によって状況と条件が与えられればすべての罪を犯すことが可能なのです。 依然として人生の主であることに固執しますか。王座から降りたら問題が発生しそうですか。違います。今あなたを治めようとするその方は、あなたを命がけで愛し、あなたを天下より尊く思う方です。その方はあなたのすべてを治めるのに十分な権能と知恵を持った方です。今、イエス様の統治の中にお入りください。新しい人生が繰り広げられるでしょう。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞> お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム] 根本主義(2):根本主義の登場

イエスは言われた。”わたしは道であり,眞理であり,命である。わたしを通らなければ,だれも父のもとに行くことができない。”(ヨハネ14:6) ほかのだれによっても,救いは 得られません。わたしたちが救われるべき名は,天下にこの名のほか,人間には與えられていないのです。 (使徒行傳4:12) 聖書で神様は宗教に対して寛大ではない。サタンは私たちが神様を信じない限り、何をどれほど信心深く信じようが気にしない。神様が聖書とは違うどんな姿の礼拝でも受けると言うことは、聖書の神様を否定することだ。何よりも神様が与えてくれた最初の戒名は”わたしは主,あなたの神,あなたをエジプトの國,奴隷の家から導き出した神である。あなたには,わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト20:2-3)だからだ。 聖書を信じる人なら他の宗教も事実であり得るという可能性を受け入れることができない。キリスト教を本当に真理だと信じるのなら、それだけが独占的に真理に違いない。キリストが宣言した核心的なメッセージの一つがその方だけが真理を与えるという主張で、その方の真理から外れたすべての宗教はすべて嘘だということだった。 もちろん、このような意見は現代文化の相対論的な価値とは正反対である。多元主義と多様性は絶対的な真理よりも高い美徳とされている。私たちの信仰だけが正しくて他のすべての信念は間違っていると言えなくなっている。そう主張することは後戻りする、旧式の無礼な行動と見なされている。言い換えれば、私たちは宗教的信仰を持つことができず、ただ信仰を私たち個人の好みにだけ置くことができるようになったのだ。 実際、これらの問題は目新しいものではない。教会は少なくとも世紀の変わり目からこのような問題に取り組み続けてきた。宗教的基準と信念において幅広い考え方を持とうとするこのような訴えは、常に神学的自由主義の中心にあった。本当にこのような考えは、自由的(liberal)という用語が本来意味したものと正確に一致する。今流行している'寛容'にすべきだという訴えは福音主義陣営内部からの声だ。 自由主義は100年ほど前からプロテスタントの主要教団を占め始めた。かつて聖書の真理に献身していた学校は彼らが守るために設立したその教理を攻撃し始めた。プリンストン神学校(Princeton Theological Seminary)さえも長い間正統改革主義の砦であったが、結局は時代の思潮に屈してしまった。そのためにしばらくの間、福音主義は自由主義によって完全に圧倒され、壊滅したように見えた。 自由主義者は時代遅れであり,無知,悽絶に偏狭であることを福音主義の特徴にきめた。彼らはキリスト教はあらゆる種類の信念を幅広く受けるべきだと主張した。彼らは歴史的福音主義の狭くて独占的な本質がキリストを適切に代表することはできなかったと考えた。寛容と自由主義が現代キリスト教に適していると考えたのだ。彼らの主張が人の聞かせて始めた。正しい教理は妥協と自由主義に道を開けて、教会内で何も信じないことがむしろハイレベルと考え始めた。 ところが、その後、驚くべき運動が始まった。大西洋の両方から福音主義者が根本主義(The Fundamentals)という一連の執筆と出版で連合したのである。元々12冊で出版されたこれらの文章は、根本主義(fundamentalism)と知られる運動の土台を築いた。ジェイ·グレシャム·メイチェン、ジェームズ·オー、アール·エイ·トーレイ(J. Gresham Machen, James Orr, R. A. Torrey)のような人々が先頭に立って、根本主義は自由主義、聖書の高等批評、進化論、モダニズムと戦うために正しい教理を採択した。 根本主義に関する教理的な根拠は福音主義的聖公会、ルター教、長老教、メソジスト教、バプテスト教、メノ派教、独立教および他の教団を含めるのに十分だった。彼らが”根本(fundamentals)”であると確認した案件は、彼らが必須であり、基本的で妥協できない真理と考えられる教理であった。当然、この教理は自由主義と福音主義を区別する信仰の書であった。 原理主義者はこれらが真の教会を嘘のキリスト教と区別する教理だと信じていた。 では、彼らが同意した根本主義の文章は何だったのだろうか。 最も基本的なものは聖書の権威、霊感、無誤性だった。根本主義者らは、聖書高等批評をする人々に対して、聖書が文字通り神のみ言葉であることと、歴史的にも事実的にも正確であり、信徒に完全で唯一の拘束力がある規則だと主張した。こうした原則はもちろん、他の様々な問題の主が誰かを決める重要な原則だった。もし、私たちが聖書が権威があり、間違いのない神様のみ言葉だということに同意するなら、創造事件、キリストの処女誕生、彼の肉身の復活、奇跡のような歴史的な主張を論争する正当な理由がない。我々が聖書が信仰と実行の問題で唯一の権威だと信じているのなら、宗教的な推測や教会の伝統を聖書と並ぶことできない。 キリストの神聖、三位一体教理、十字架に対するキリストの代理贖罪、復活、信仰によって義に適うとしたこと、恵みによる信仰によった救い、聖化の必須性、他の根本的な教理を歪曲したり反対するすべての信仰を拒否すること、このすべての事案が"根本"として列挙された。 要するに,初期の根本主義者は自由主義者に対抗するために、真実なキリスト教を正義するために、正しい教理を用いた。自由主義者は実質的な問題だけを主張したが,理論的な部分ではそうではなかった。彼らがよく使う自由主義的スローガンは、"キリスト教は人生であり、教理ではありません"だった。しかし、根本主義者たちは、真のキリスト教が人生のすべての方面に影響を与える教理だと正しく主張した。 そのため、できるだけ広い範囲の信念を受け入れるために"キリスト教"という名称を快く拡大しようとする人々とは違い、根本主義者たちは絶対的で妥協できない客観的な真理の核心を探そうとした。彼らは正しい教理の本文がキリスト教のすべての基礎であると主張した。彼らにとって、根本(fundamentals)を拒否したすべての宗教のブランドは偽キリスト教または非キリスト教と見なされた。 原理主義者はほとんどの教団を自由主義の侵食から取り戻すことができなかった。しかし、彼らは歴史的な聖書真理に忠実な新しい学校、新しい教団、そして新しい教会を建てることができた。これらの機関は1世紀の間、活発な成長と霊的影響力を享受したが、主要教団の教会は深刻な衰退を経験した。 アメリカが依然として聖書を信じる健全な教会を持っていることは根本主義的先祖の業績だ。もし彼らが席を立てずにキリスト教の基礎を守っていなかったら,アメリカの教会の景観は今ドイツのような国で見られる荒れ地に似ていただろう。ヨーロッパの教会は,自由主義の偽キリスト教による壊滅的な損傷から回復したことはなかった。ヨーロッパの崩壊は、私たちにメイチェンのような人々の確信と勇気がなかったら、私たちはどうなっていただろうかということを深刻に考えさせてくれる。 自由主義に対する根本主義の闘争による利益は、今日まで影響を与えているが、根本主義運動自体は決して長生きできなかった。根本主義運動は頂点に達するや否やほとんど乱れ始めた。根本主義の分裂を理解することは、我々が今の福音主義の状況を理解する上で非常に重要な点だ。次回のコラムでこの問題について考える事とする。 [福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

心とペンで捧げる祈り

書く祈りの目的は神様との関係で生ずることに対する私たちの認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈りである。 書き祈り 一般的には祈りを声に出したり、黙想の形でするのだと考えがちだ。しかし、祈りは多様な形で実行できる。特に、書き祈りのような祈祷は、非常に重要な祈祷の方法になり得る。書き祈りは、心と思いを神様の御前で深く省察する祈りになることができるため、大声で精神なしにする祈祷よりも深くて豊かな祈祷になることができる。書き祈りは、神様との関係を省察する祈祷として作用できる。書き祈りの目的は、神様との関係で生ずることに対する我々の認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈祷である。書き祈りは声で捧げる祈祷ではなく、別名‘心とペンで捧げる祈祷’である。 私たちの霊的旅程で私たちの知識と世界観が心の中に入ってから初めて魂と化することができる。魂を作ることができる器は省察と驚異によってもたらされた内面のコンテナだ。もし毎日数分間書き祈りをすれば間違いなく心の治療にかかる経費と手間を省ける。書き祈りの素朴な実践は私たちの人生の中に多くのことを提供することができる。ある人には神様の御前で人生の省察を、ある人には神様とのより深い関係を、ある人には神様の御前で自分の人生が変わる体験をする機会になれる。 霊性地図としての書き祈り 書き祈りの最も核心的な特徴は、神様の御前で自分を深く省察する最も効果的な方式であるために霊性地図という特徴を持っている。 すなわち、書き祈りは、日常で起こることを具体的かつ明確に叙述する祈りであるために自己認識と同時に霊的省察と感受性の修練に効果的な祈祷方式になり得る。書き祈りは人生の意味を画期的に変化させるのに役立つ。書き祈りによって、私たちの人生に関する否定的で肯定的な暗示を与える固定された形が現れ始めることができる。そのため、書き祈りはただ神様との会話にだけに目的があるのではなく、霊的地図として作用することができる。書き祈りは私たちが経験することの中で、神様がどのように働いているかを見分けるのに大いに役立つ。特に、書き祈りは、感情に注意を払うことで、我々の内的人生を反映する一つの分別訓練になりうる。書き祈りは我々の考え、感情、行動に多大な影響を与えかねない。 書き祈りは日常の具体的な状況を超えて浮雲をつかむことを許さない。書き祈りは、自分の最も深い内面(deepest self)を隠し、社会的共同体的役割だけを強調する表面的自我(surface ego)にとどまっていることを許さない。 書き祈りが霊性形成の効果的な方法になるためには個人的でなければならない。書き祈りが霊性形成のための祈祷になるためには神様に自分の全てを現して表現しなければならない。 書き祈りは、良い日や悲しい日ともに実際に起こったことを持って心とペンで神様と会話することで、’良かった昔’を懐かしむホームシックを治療することができる。また、書き祈りは’私には良いことは全く起こらなかった’という悲観的な評価を治療することもできる。神様と共に自己洞察力(self insight)を育てる良い方法になり得る。書き祈りは苦しくて辛い時に自分に向き合うことで、内面の緊張と葛藤を省察するのに大いに役立つ。 ひいては、自分の祈祷の歴史として残ることができる。自分の人生の中で神様の臨在と働きを通じて感謝の人生と能力を増大させることができる。書き祈りは様々な内容を含むことができる。聖書の句節や事件に対する洞察や黙想とともに捧げることができる。 特に、聖書の黙想を通じて省察祈祷、悔い改め祈祷、嘆息祈祷、喜びの祈祷、感謝祈祷の形で書き祈りができる。書き祈りは霊性日記の形で実行されることもできる。 長い間書き祈りをすれば記録された祈祷を通じて省察して、読む時に人生の方向について省察するのに役立つ。また、日常で時間とエネルギーを使うのに実際に優先順位をどこに置くかを決める時にも有用である。特に、苦しい時期に捧げられた書き祈りは我々に具体的に起こる人生の様々な質問について実際的に再び回想させたりもする。書き祈りは前に書かれた祈祷を通じて、再び祈祷することで、自分の霊的旅程のパターンを省察することができる。これは私たちが祈った状況や神様の助けで困難を乗り越えたものを後で読むことによって現在と未来に対する希望をさらに神様に置くことができるようになる。 書き祈りのモデルとしての詩編 プランナリー·オコーナー(Flannery O’Connor)は若い頃、祈祷生活の深さを深めようと努めているうちにペンで祈祷日誌を書き始めた。彼は、心の中で躍動する感性を把握して吐露し、噴出するだけでなく、神様の臨在の中で率直な姿勢を取った詩編記者たちの祈りの道に進むことになった。オコーナーはこのように記録した。 あなたのことを考えたり、いつも渇望するあなたの愛で胸がいっぱいになるよりも、芸術的な技巧を磨くことに全力を注ぎました。愛する神様、私が好きな方法で主を愛することはできません。私の目に見える神様は細い三日月です。私の自我は月を見ないように隠す地球の影のようです。 愛する神様、私の自我の影がますます大きくなり、月の全容を見ることができなくなって、そしてそれこそ何でもない影を根拠にして自分自身を判断することになったらと怖いのです。自ら道をふさいだせいで、私は神様であるあなたをまともに知ることができません。(Flannery O’Connor, A Prayer Journal, 3)。 オコーナーは人生の勝敗は愛の優先順位を設定し直すことにかかっているということを意識した。これは、オガスティンが悟り、彼の祈祷日誌告白録に記録した内容と同じ脈絡だ。神様や隣人より成功を愛する心構えは、心霊に虚しさを増す。オコーナーは自分の非凡な才能によって傲慢で利己的な者になるところだったが、祈りで絶えず心の志向点を調節した。彼はこう書いた。″神様、どうか私の考えを透明にしてください。清潔に洗ってください。 …万物の底まで下りて神様が泊まっているところを悟らせてください″(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。 オコーナーは形式的で習慣的に繰り返す祈祷行為を踏襲することで満足できなかった。彼はこう告白した。 “これまで繰り返してきた祈祷文の内容を否定するという意味ではありません。しかし口で言えたとしても、心では感じられませんでした。 意識は逃亡者のように四方八方に飛び回っていました。毎度こんなふうに祈っていました。反面、神様を思ってその心情を書く時は愛のぬくもりが全身を包むのを感知しました”(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。ある日、彼は書き祈りの最後の部分にこのように書いた。″誰でもいいから祈る方法を教えてくれませんか?″(O’Connor, A Prayer Journal, 23)。 同じ質問をする人が今もにも数え切れないほど多い。キリスト人なら祈りが重要だということを知っているけどどのように祈るべきかについてはよくわからない場合が多い。祈りはただ声だけで行うものではないからだ。祈祷は口だけでできるのではなく、書くことでもできる。詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷の実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。詩編は、書き祈りの典型的なモデルだと言える。 書き祈りは正しいとかそうでないとかの決めた方法がない。書き祈りだとして論理的な形の書き方をする必要はない。文章で書いても良いし、句節や単語だけでも良い。書き祈りは、内面の省察と深く関わる祈祷であるために速い速度で声を出す祈祷ではなく、ゆっくりと心とペンで捧げなければならない。書き祈りには少なくとも真の心、悔い改め、感謝、希望、省察、恐れが神様の御前で吐露されなければならない。 [福音祈祷新聞] “詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。 詩編は書き祈りの典型的なモデルだと言える” サイチャングック白石大学神学大学院とキリスト教専門大学院で実践神学教授として在職、’キリスト教霊性’、’解釈と分別’、’説教と相談’など多数の本を著述 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約によって掲載されています。 www.tgckorea.org