[GTKコラム] キリストで十分なキリスト教(4): 神の言葉の十分性、第一部
聖書: 詩篇19:7-14 聖書の中でキリストを指す名前の一つに「助言者」がある(日本語訳では「奇妙な者」、「相談役」と訳されている)。この点は非常に意味深い。キリストは私たちが助言を求めることのできる究極かつ最高の助言者であり、その言葉は私たちが神の知恵をくみ取ることのできる泉だ。これ以上に驚くべきことがあるだろうか? 実際、キリストの完全かつ十分な属性の最も栄光に満ちた側面の一つは、キリストが絶望、混乱、恐れ、不安、悲しみに満ちたこの時代に与えてくださる驚くべき助言と偉大な知恵だ。彼こそが本質的な助言者だ。 だからといって、この事実がクリスチャン同士で助言し合うことの重要性を軽視するわけではない。キリストの体である教会の中で、聖書に基づいた健全なカウンセリングは確かに必要だ。他の信徒を励まし、識別し、慰めや助言、憐れみと助けを提供する霊的な賜物を持つ信徒の重要な役割を否定するつもりは少しもない。 実際、今日健全でないカウンセリングが蔓延している問題の一つは、教会がそのような霊的な賜物を持つ人々が効果的に奉仕できるようにする役割を十分に果たしていない点だ。この時代の複雑さは、時間をかけて他者の話に耳を傾け、温かい関係を通じて他者に仕えることで、教会が健康と活力を享受するために必要な親密な交わりを提供することが、かつてないほど難しくなっている。 教会はこの不足を補うために心理学に依存しているが、心理学はほとんど効果を上げていない。専門の心理学者やカウンセラーは、霊的な賜物を持つ人々を決して代替することができず、カウンセリング心理学の試みは聖書的な知恵と神の力を代替することはできない。さらに、心理学は人々を心理療法士に依存させる傾向があるが、真の霊的賜物が発揮されるなら、人々はいつでも欠けることのない救い主とその欠けることのない言葉に立ち返るようになる。 神の言葉が十分であることを歌った詩篇 ダビデ王は時折、人間の助言者に助言を求めることもあったが、最終的にはいつも神に解決を求めた。いくつかの詩篇に示されているように、ダビデは特に個人的な問題や感情との戦いにおいて、ただ神だけを頼りにした。彼は落胆や内的な葛藤に陥ったとき、神を頼り、祈りで奮闘した。彼自身の罪が問題となったとき、彼は打ち砕かれた悔い改めの心を持って悔い改めた。彼はこう祈った。「主よ、私を調べて試し、私の思いと良心を訓練してください」(詩篇26:2)。霊的に成熟した人は、魂が心配や落胆、混乱や不安に包まれるとき、いつでも神に助けを求め、神が知恵ある助言と救いを与えてくださることを確信している。 それは、人間の魂が必要とするすべては、究極的には霊的なものであるからだ。霊的な原因や肉体的な原因と関係のない「心理的な問題」など存在しない。神はそのすべての必要を完全に満たすための十分な手段を提供してくださる。ダビデはこのことを知っていた。 ダビデの書は、人生の極限状況を十分に経験した一人の人間の体験と感情、そして霊的な洞察の深さを反映している。ダビデは羊飼いから王の座に登りつめる喜びを知っていた。彼は完璧な勝利から苦々しい落胆まで、あらゆることについて書いた。耐え難い深い苦しみとも格闘した。 彼の実子アブサロムは彼を殺そうとし、アブサロムは殺害された。彼は自分の不道徳と殺人によってひどい罪悪感に苛まれた。彼の子供たちは絶えず彼を悲しませた。彼は神の本質と自分自身の心を理解しようと苦闘した。神については「主は偉大である」(詩篇145:3)と言いながら、自分自身については「私の罪を洗い流し、私の罪を清めてください」(詩篇51:2)と言った。ダビデは神が自分を罰するすべての権利を持っていることを認めつつ、神に自分の感情を吐露し、救いを与えてくださるように叫び求めた。 ダビデの詩篇の終わりには希望の窓を見つめることもあったが、そうできなかった時もあった。しかし、ダビデは神の主権と自分の堕落をよく知っていたので、いつも神に近づいた。ダビデは欠けることのない救い主だけが、自分の必要に対する解答を持っており、その解答を適用する力があることを知っていた。そして彼はそのような解答を、神の言葉に啓示された神についての真理の中に見いださなければならないことを知っていた。言葉そのものが完全に十分だった。十分である神は、ご自身の十分な言葉の中でご自身を啓示されたのだ。 詩篇19:7-14は、聖書が十分であることを簡潔に説明した記念碑的な文章だ。ダビデが聖霊の霊感を受けて記したこの詩篇は、状況に左右されない神の言葉の十分性についての神自身の確固たる証言を示している。この詩篇は、現代心理学から得た真理を神の言葉に加えなければならないと信じている人々の教えに反論している。 7~9節でダビデは聖書について六つのことを述べている。それぞれの述べた内容は、神の言葉の特徴を強調し、その言葉を受け入れる人の人生に現れる言葉の効果を記述している。 次回は、ダビデが強調した神の言葉の六つの特徴を見ていくつもりだ。【福音祈祷新聞】 ジョン・マッカーサー(John MacArthur)|グレーストゥコリア コラムニスト 原文: https://www.gty.org/library/blog/B140912 GTKコラムは、私たちの生活におけるすべての出来事に対して、聖書の言葉から答えを見つけようとするアメリカのグレース・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー牧師とGTK協力牧師や信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org)のコンテンツであり、本紙と協約を結んで掲載されています。
[信仰の書き込み]キリストの内にとどまり、歩む人生
私たちは神の内にとどまっているからです(1) 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一 2:6)。 ここでおっしゃっているキリストの内にとどまる人生と、キリストのように歩む人生、この二つの祝福は決して離せないものなのです。キリストの内にとどまる人生の実として現れるのが「キリストのように(like Christ)」ということです。 「キリストの中に止まっています」という言葉は私たちにまったく見慣れないことではありません。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)と命じてくれたブドウと彼の枝についての驚くべきたとえ話は、私たちにしばしば祝福された教訓と慰めとなってくれました。 わたしたちがイエスの中に居るというこの教えを完全に悟らなかったとしても,わたしたちの魂が「主よ,あなたはすべてを知っており,あなたがわたしがあなたの中に今住んでいることを存じております。」と申し上げるときに臨みに来る喜びがどんなものかを私たちはすでに味わっています。 このような切実な祈りがしばしば私たちになければならないことも、主は知っておられます。「聖なる主よ、完全で絶えずにあなたの中にとどまることができるように恵みを施してください。」 「キリストのように歩む」という二番目の言葉は,「キリストの中に住む人生」に劣らず重要です。これは驚くべき能力の約束であり、その方の中にとどまる人生が完全に力を発揮することになるのです。 わたしたちが完全に神の内に生きるために自分自身を完全にささげることになれば,その実として,神の命がわたしたちの中で力強く働かれるようになり,異面的な生活が外に現れることで,わたしたちの行為はまさに神に似ていきます。この二つは別々に考えることができない関係なのです。イエスの中にとどまるということは、いつもイエスに従うというよりも先行するものです。 しかし、主と共に同行し、主のように行おうとする切ない願いが、彼の中に住む人生の次とは言えないのです。そうしてこそ、その方との親密な連合がなされるようになります。その方の計画に従って、その方が与えてくださった恵みを使う準備ができた人に、天の主が自ら豊かな御自分の恵みを余すことなく与えてくださいます。 救い主が「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)の意味はその方と共に歩むためにあなた自身を全て捧げることこそ、その方の内に完全に居る道ということです。 多くの人がここでキリストの中にとどまる人生の失敗を経験していることを発見するでしょう。人々がキリストに従うということについて知らずで、それで追求してみようともしなかったからです。使徒ヨハネは、ここで私たちにこの二つの真理の生命的な関係と相互依存的な関係を見るようにしてくださいました。 ヨハネによる福音書で教えている最初の教訓は次のとおりです。キリストの中にとどまることを切実に望む者なら、必ず主が行なわれたそのまま本人も行わなければならないということです。ブドウの枝は、彼が属するまさにそのブドウの実を結ぶことが当然のことであることを私たち全員は知っています。ぶどうの木とその枝の命は完全に一つです。 したがって、その命が現れることもまた一致しなければなりません。主イエス様が御自分の血で私たちを拘束されて、その方の義で私たちを天の父にささげた時は、古い性格をそのままにしておき、それなりに私たちの最善を尽くして神様に仕えるように放っておいたのではありません。 決して、そうではありません!その方の中には永遠の命があり、これは天の聖なる命であるということです。そして彼の中にとどまる者は、誰もが彼の聖なる、天に属する力の中にあるのと同じ永遠の命を得ることです。 ですから,イエスの中にとどまる者は,エホバから命を絶えずに得るようになり,「主の歩むように自分も歩む」と言われた言葉はまったく奇妙なことではありません。 しかし、神様の力ある生命力は、魂の中でよく分からず、または思わず私たちにキリストのように行うことを強要しません。 これとは対照的に、主のように行われる人生は、明らかに自由な選択の結果であり、強烈な希望によって得られるものであり、鮮やかな意志を見て許してくださるという事実です。 この観点から見ると、天におられる父がイエスのこの地での生活を通して見せたいと思ったことがあれば、それは天国の生活が私たちの人間の生活の条件と環境の中に臨むとき、どのような姿になるのかをお見せてくださったことです。 これと同じ目的を持って、イエスは私たちにこの地上での御自分の人生がどのようになったのかを教えてくださいました。ですから、私たちが彼から新しい命を得て、また私たちに彼の中にとどまるように呼ばれたのは、私たちが命を得て、より豊かになるようにするためです。 主は言われておられます。新しい命を私たちに与えてくださったのです。「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、」(ヨハネ15:10)。この御言葉を通して先生である主は、この地での人生は一言でこのような人生だと要約してくださりながら、またこれを私たちのすべての行為における規範と指針とするようにとても簡単に教えてくださいます。 私たちが主の中に止まっていると言いながら主が行ったのとは異なって行うことはできません。「キリストのように」という言葉は、短いながらもすべてが暗示されており、クリスチャンの人生の祝福された法則なのです。 クリスチャンはイエス様がこの地でそうなさったように考え、話し、行なわなければなりません。イエス様がそうされたように、今私たちはそうしなければなりません。<アンドリュー・マレー(Andrew Murray)><ルッサン教会提供> [福音祈りの新聞] <著作権者ⓒ私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈りの新聞。出典を記入して使用してください。>情報とお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
希望のない世界で永遠の天国に行く旅人の道
多くの聖徒が聖書の次に多く読んだというジョン·バーンヨンの天路歴程。この本に接する若いクリスチャンたちの数がますます減っていくのが残念だったC.J.ロビックは、原作の美しさと雰囲気を守りながらも、この時代の読者たちが理解できるように文章を整え、再び編集した。本が発刊されて以来、なんと300年間聖書の後を継ぐベストセラーである天路歴程を通じて私たちも天国に向かう巡礼者の旅程を歩んでいることを悟らせる。 クリスチャンが巡礼者になったのは言えない苦しみのためだった。福音の前に立つように助けた私の人生の凄絶な絶望、苦しみが思い出された。絶望の場で真の希望をつかむようになったのは神様の神秘だ。彼は手に持った本を読みながら、どうすれば救いを得ることができるのか、どこに行けばいいのかに対する人生の本質的な問題に苦しみながら泣き叫んだ。その時に現れた伝道者の案内で巡礼の旅路が始まる。第一歩を踏み出した瞬間がオーバーラップしてくる。神様に本当に会いたいその切実さ、渇望の時間。すべての魂に必ず必要な時間だ。 本に登場する人物の一人一人と地名は何度も噛み締めて黙想して自分のものにしなければならない要素だ。希望のない世の中で永遠の天国に向かう旅人の道に何を特別に気を付けなければならないのか、何を必ず捕まえなければならないのかについて常に目を覚ましてろという神様の声だ。信仰の歩みを邪魔する障害物、振り返らせることのせいではるかな人生たちが痩せた骨のようになっただろう。 狭い門に進め 信仰の歩みを始めたが、落胆の沼に落ちて自分の故郷に帰る’柔弱な’人。狭い道ではなく簡単に見える道を選択した’見かけ’と’偽善’、続いて登場する’小心’と’不信’まで一様によりもっと簡単に見える道、広い道に進もうとする人々だった。主はは’狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々 としてそこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は 少ない。’(マ7:13~14)と話す。 虚構、偽善、小心、不信、弱い。これらすべてが自分の人生に割り込まれないように主の恵を求める。 激しい巡礼者の旅程 クリスチャンは彼らをからかって皮肉りながら非難する人々、絶えず脅迫し批判し叱る人々がいる’虚妄市場’を通らなければならなかった。それによってクリスチャンと真実は足かせをかけて鉄格子に閉じ込められ死刑執行日が決定されることを待ち、結局’真実’は残酷な死をむかえた。後に’希望’と共にする時にも’疑いの城’、’絶望巨人’に出会いながらも結局苦難を通過する。この時、一番厳しかった戦いは見えない内面の戦いだった。冷静かつ熾烈にすべての過程を通過し、自分自身(自我)と戦わせ、宝物(み言葉)と鍵(祈り)を使って十分に通過させることが本当にありがたい。彼らの話がまさに私たち自身の話だからだ。 神聖な聖エルサレム クリスチャンと希望が新しいエルサレムに入城するためには、必ず渡らなければならない川の前に立っている。その川に飛び込むことは死を意味した。大きな恐怖の中でも死を通過するその瞬間まで主を頼らせる時間だった。気がついたクリスチャンが大声で話す。 “お、神様がまた見える!” ‘私があなたと共にし、あなたが川を渡る時にも水があなたを沈没させることができないだろう’(イザヤ43:2)とおっしゃっている!”この叫びが私の中に響き涙があふれた。 ‘そうだ!神様が私と共にすれば、どんなことも沈没させることができない!’ 最後の瞬間までもこの信仰の戦いだ。そこで天使たちが導いてくれてついに城内に入った。これがまさに私たちの巡礼の旅の最後の瞬間であるだろう!列邦の絶望的な知らせが聞こえてくる。戦争の残酷さ、伝染病。この他にいくらでも直面する絶望の状況が私たちに訪れるだろうけど’希望’が私たちを恥ずかしくないことを信じる。 ‘願い’がなかったらクリスチャン一人で最後まで行けなかっただろう。 ‘私の主よ、私の足を引っ張ってそこに立たせてください!’[福音祈祷新聞] チョン·ジュンヨン宣教師 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?
あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org