「真の平和を与えようとイエス様が来ました!」

真っ白なウールの服を着たウクライナの子供たちがクリスマス祝いの舞台に立った。二人ずつペアを組んでマイクを握った子羊たちのハーモニーが礼拝堂いっぱいに響き渡る。 戦争の前にはこのように思う存分称賛することができた。ロシアとウクライナの戦争は、いつのまにか1年10ヵ月目に入った。ウクライナは、昨年2月のロシア侵攻で戦争が勃発して以来、ロシアに連れて行かれたことが確認されたウクライナの子どもが1万9546人だと明らかにした。このうち帰ってきた子供は400人にも満たない。国際刑事裁判所(ICC)は、ウクライナ占領地で児童を拉致し、強制的にロシア本土に移住させる戦争犯罪に関与したという理由で、今年3月にプーチンロシア大統領に対する逮捕令状を発行した。行方不明になった子供たちとロシアの委託家庭からウクライナに戻れば、自分を害する恐れがあると洗脳されて帰りたくないという子供たち、時間が経つにつれて子供たちには不利になるばかりだ。戦争仲裁のために米国と中国など多くの国が各国の利権を争ってあれこれ議論しているが、果たしてこの戦争を誰が終息させることができるだろうか。 そこ方はイエス·キリストだ。神様から離れて罪悪の中で苦しむ魂を救おうと子羊がこの地に来られた。イエス·キリストを信じるすべての魂に真の平和が臨むことを願う。 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに 與えられた。權威が彼の肩にある。その名は、 「驚くべき 指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。 (イザヤ書9:5) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

ウクライナの高麗人難民の避難先を作る

恵の場に立ったキムジョンホン宣教師(ウクライナ) 安山東山教会9階の事務室に入ると、韓国語の授業が行われていた。ウクライナ戦争で難民になった高麗人らが韓国語を学んでいた。彼らは皆キムジョンホン宣教師が韓国に引き渡した高麗人だ。最初は避難民になった教会聖徒たちを助けるために、今は難民になった数多くの高麗人を助けるために足にまめができほど走っている。彼の電話機は度々鳴った。高麗人難民たちは問題が生じればすぐに彼に電話をするからだ。高麗人難民の避難先となったキム宣教師のウクライナ戦争以降の話を聞いてみた。 –ウクライナ戦争が勃発した時、どんな状況でしたか。 “昨年の初めごろ戦争の可能性があるとして大使館から撤退を求める連絡が来ました。当時は撤退しなければ、パスポートが消滅されると言われたので、仕方なくモルドバに移動するようになりました。現地人らは戦争が起きないと言ったけど結局、戦争は起き、すべての住民らが避難をし始めました。この方たちを助ける方法を探してる中、一旦ルーマニアにある避難先を連結しました。しかし、一日二日の問題ではないためにこれから先この方たちをどのように助けることができるか悩みながらできることを探し始めました。それから、韓国の光州(チョルラナムド・クァンジュ)で高麗人村を仕える牧師を知りました。私たちの教会の聖徒の妹がその教会に出席していました。牧師に私たちの聖徒らが国境で助けを待っているので何か助けていただけるか問い合わせました。具体的には飛行機チケットを手に入れてほしいという要請だったんです。牧師は祈りながら募金してみると言ってました。数日後、飛行機チケット15枚を用意したと連絡が来ました。そうして一番目のグループが韓国に入国するようになりました。それが昨年の5月初めだったです。” “難民900人を韓国に連れてきました” –ウクライナの難民が韓国にも入ってきたのですね。 “この方々が仁川(インチョン)空港に入るとき、マスコミを通じて報道されました。ウクライナから来た初の団体入国だったからです。このニュースがウクライナに伝わって、そこにいる高麗人難民たちが自分たちも韓国に送ってほしいと連絡を送ってきました。再び、光州の牧師に連絡をしましたね。ありがたくも牧師が最後までやってみようと言ってくださいました。最初は私たちの信徒だけを連れてこようとしていましたけど、続けて高麗人名簿を受けてもらうようになりました。飛行機のチケットを購入する次第現地に送りました。昨年ずっとこの仕事をしました。チケットをもらって入国した人たちが900人くらいになります。9億ウォンくらいかかりました。” –とてつもない仕えでしたね。韓国に到着した難民たちはどうなりましたか。 “初めに入ってきた方々は韓国に親戚がいる人たちが殆どでした。その方たちの殆どが光州(クァンジュ)へ行きました。しかし、徐々に人数が増えて光州が飽和状態になりました。そして、韓国に知人のない人たちも多くなって、アンサンに定着をさせたいと思って教会の周辺に家を借り始めました。これもある家族のために始められました。” ▲安山(アンサン)で開かれた高麗人行事時一緒にしたウクライナの難民。提供:キムジョンホン宣教師 –一つの家族がこんなに増えることになりましたね。 “おばあさん一人が糖尿病のため、足の指を切断することがありました。避難中に薬がなくて、モルドバの病院で足の指を切断したが、韓国に来た時大変病んでいました。治療がきちんと行われていなかったから、そのまま置いては足さえ失いそうでした。自家隔離する間、家を借りて病院に入院させました。この方々は韓国に入って6ヵ月間は医療保険が適用されません。手術の費用が1000万ウォンでした。これをどう払うかと祈祷しているのに神様がある団体を連結してくれました。ある教会で運営する’青い分かち合い’という団体だったです。その団体にこの方々の状況を説明したら、一つ、一つの家庭を支援してくれました。その青い分かち合いが専担して高麗人難民の居住、生計を支援してくれました。それ以外に必要なものは各教会を回りながらタオルでも集めて得て、必要なものは購入して家を飾りました。” –ある人生や家庭が新たなスタートをするのを仕えるごとですけど、どうしてこんなことを始めたか知りたいです。 “彼らをこのように助けることができるようになったきっかけがあります。私たちの教会のいくつかの家庭がドイツ難民になり、ドイツが難民政策をどのように展開するのかを見ることができました。ドイツは難民に家と、生計費を支援します。そして、医療費も無料です。その代わりに8~9ヵ月間、言語を学ばなければなりません。良い労働力が入ったので長期的な投資をしたことなのです。ドイツのシステムがよさそうに見えました。韓国は難民に対するこのような支援がなかったから国ができない事を自分でしたいという思いで、3ヵ月定着プログラムを作りました。家を借りて、3ヵ月間生活費を支援することです。そしてここに来た人たちに3ヵ月間、ハングルを学ぶようにしました。韓国に来て仕事をして、バスに乗って、買い物をするにもハングルを知らなければならないからです。そんなに言語コースを作りました。” –良い構想だが、一人でするには力不足だったようですが。 “救援品は、教会が分けるように教会に渡しました。ここの近くに高麗人教会がいくつかあります。難民たちが全部教会に行って必要な物品も受けて、教会からケアをしてもらうようにしました。私が教会を建てて仕えるということは難しい事でした。難民たちは、強制に教会を行くことになったのだが、そこで神様の恩を経験させたかったです。そのように3ヵ月定着プロジェクトをしながら、ぶつかった現実が一つあります。大人たちはそれなりに定着しつつあるが、子どもたちが問題でした。” “国ができないなら、教会が支援しよう!” –どんな問題があるのですか? “幼児たちは、幼稚園に送ってもらうことができたが、小学生は関連書類を準備できず、学校に入るのが難しかったです。しかし、学校と話しながらありがたくも戦争状況であることが考慮されて学校に行けるようになったんです。しかし、より大きな問題は青少年たちでした。この子たちは家でゲームしていて家の外に出ないんです。言葉が通じないからどこにも行くこともできません。この子たちをどうやって家から出るようにするか思案しててある場を設けて子供たちを来いといいました。勉強しに来るように言ったら来ないので、とりあえず来て遊んで食べなさいと言いました。子供たちは半強制的に両親の手に引かれてきました。子供たちを食べさせながら2週間に一度は遊園地やいいところを訪ねたんです。身も心も楽しませながらハングルも教えてあげたら、子供たちが、そこをアジトにして集まって遊びました。子供たちも明るくなりました。” –難民たちを仕えるというのはそんなに簡単な事じゃないですね。 “青少年の中には高等学校を卒業する年頃もいました。大学に行けないなら韓国での技術でも教えなければならないと思いました。ここにきた難民の中にはウクライナでヘアショップ、ネールショップ、カフェなどをしてきた人たちがいます。ここでデザートカフェをしたら、その収入で生活もできるし、青少年たちが技術も学んで生きられるようでした。祈祷しながら、経済共同体を作ることに思いがつきました。難民たちは韓国の法をよく知らず、どうやって事業をするかも知らないから経済共同体を通じて青少年たちを雇用して、それから店を開いていく。実はこの母親たちは夫たちが動員令のために出られなかったので、子供たちだけを連れて出て、生活の責任を負っています。そして、無縁故、無国籍、無適応青少年、片親の家庭のような脆弱階層を助ける’無限挑戦プロジェクト’を作ることになりました。無謀な挑戦でなく神様がなさる無限な挑戦であります。” 無国籍難民達に旅行証明書発給 –そのように一歩ずつ難民支援システムを備えていくようになったんですね。 “最初は必要によって始めたのに、ここまで来ましたね。神様の導きです。ドイツ難民として行ったおばあさんは無国籍でした。信者たちの中には無国籍者が数人いました。旧ソ連時代には旧ソ連圏の国々を簡単に往来できるため、多くの高麗人らがウクライナに移住しました。土地が良いからです。高麗人たちは農業を非常に上手な民族であります。ところがソ連が崩壊して、この方々がウクライナに残るようになり、その時に書類整理ができなかったから国籍がなくなったのです。そんな人たちが2000年度初ごろまで3000人ぐらいいたために国籍回復に向けた事が進行されたけど数百人程度は国籍回復になっていない状態でした。この人たちは、パスポートがないために避難を助ける方法が全くありませんでした。祈祷しているのに外務省と法務部にこの問題を伝え、問題化となり、高麗人というのが確認されれば、旅行証明書を作れるようになりました。そんな方法で無国籍者たちが韓国に来ることができるようになったのです。” –映画のような興味深いストーリーです。どころで神様とはどうように会いましたか? “母胎信仰で順調な人生を生きました。青年時代に宣教師として献身して宣教訓練を受けてエチオピアに短期宣教を出ました。それなりの宣教訓練を受けて宣教師として献身して出場したが、何かと難しいことがあれば、アイデンティティが揺れました。これが何かと考えました。以後、2002年に結婚をして妻と信仰の訓練を受けていたが、福音学校に出席するようになりました。私はこれまでの宣教師として献身もして熱心だと言われたが、自分の罪に直面したのは初めてでした。罪そのものである自分の姿を見て倒れてそこで号泣しながら神様が成し遂げた十字架の福音が何かを知って信じるようになりました。以降、長期宣教活動を準備して2005年にウズベキスタンに行くことに決定されました。” –そうしてウズベキスタンにいらっしゃるようになったんですね。 “2006年度にウズベキスタンに派遣されて宣教の第一歩を踏み出しました。実は先にトルクメニスタンに行くことでしたが、入国できなくなり、ウズベキスタンに行くことになったのです。ウズベキスタンに行く時は平信徒専門の使役者として行きました。当時、イスラム圏には牧師の身分では行けないところが多くて平信徒の身分で行ける所を探してみると、トルクメニスタンがありました。そして宣教団体を通じてチームで入ろうとしたけど出来まくなってウズベキスタンに行くことになったのです。そこで韓国企業と連結して様々な事業を進めたが、結果的には追放されて幕を閉じました。独裁国家であるうえ、監視があまりにもひどかったです。” ▲ウクライナアドゥルラム愛の教会の信者たち。提供:キムジョンホン宣教師 –ウズベキスタンでの時間が知りたいです。 “初めて救護団体で行って、6ヵ月目でそこを離れなければなりませんでした。以降、キルギスタンに移しての言語の勉強をして、再び2007年にウズベキスタンに入りました。この時はビジネスビザで行きました。私たちのチームは、色々なビジネスをしました。その中で私は1次産業関連事業をしました。ところで後で知るようになったけど現地でその事業はマフィアがする仕事でした。私は知らないまま始めてて完全に詐欺で莫大なお金を失うことになって、とても大変な時間を過ごしました。” – とても難しい時間を過ごされたと思いますけど 「ほとんど死ぬところでした。 人生のどん底まで下がりました。 ビジネスミッションは自分ではできない事だと思いました。韓国ででもビジネスが容易ではないのに、腐敗した国でビジネスをするというのは、とても難しいことでした。書類一枚を受け取るためにも賄賂でなければ不可能でした。こういうことに対する葛藤も大きかったですね。 ウズベキスタンに派遣されて8年ほど過ごしながら、私の腕、足が折れる時間だったというか? 30代の血気盛んな年齢で、その時は何でもできると思いました。 勢い満々でした。でも完全に死を味わいました。莫大なお金を投資されたけど詐欺にあってお金を一銭も回収できずに出てきました。これを解決するためにすべての官公庁に通いました。昼夜を問わず追いかけましたが、解決できず、心に大きな圧迫が来ました。人生を手放さないといけないのかな? という気もしましたね。それに妻がとても痛かったです。ウズベキスタンでは監視され続けるし、すべてが自由ではありませんでした。結局ストレスが病気になりました。体も壊れて、気も狂って、以前にあった信仰さえなくなって凄絶に倒れました。そうして2013年に妻の治療のために韓国に来ることになりました」 – 韓国での治療も容易ではない時間だったでしょうね。 「私たちはほとんど負け犬でした。妻はパニック障害、うつ病がひどくなりました。一日中水を一口も飲めないほどパニック発作がずっとありました。妻はありがたくも祈りで戦うと言いました。もらってきた薬もゴミ箱に捨てました。薬を飲むこと自体が悪いわけではありませんが、一度祈りで戦ってみようという気持ちでした。パニック障害について勉強して、なぜこうなったのか調べたりもしました。パニック障害の治療法の中で認知行動治療がありました。勉強して一つずつやってみながら峠を越えました。発作が来るたびに祈りました。そして発作が消えるとまた動きました。発作が起きる時間の間隔がだんだん長くなりました。勇気を出してマートに行ってみました。その時に発作が来たら、その場で早く椅子を探して座り、人の目を気にせずに祈りました。回復したらまた起きて動きました。これを繰り返しながらマートを征服するようになりました。次は地下鉄に乗って、バスに乗りながら発作が来たら降りて祈って、よくなったらまた地下鉄に乗って動きました。少しずつ解決できたら自信がつきました。そうしながらもっと長く公共交通機関を利用し、人が多いところも征服していきました。このように1年ほど経って妻は見違えるほど回復しました」 – とてもありがたいことですね。 お疲れ様でした。 「妻が初めて韓国に治療を受けに来た時には宣教地に再び行けないと言いました。しかし、主が呼んだところだったので、また行くことを信じて待っていました。妻が体が回復してからまた行けると言いました。それでビザを申請して宣教地に帰る準備をしましたが、ビザが断られました。神様が私たちが大変だから他の所に移したくださるのかと考えました。もう少し開いている所に行って福音を伝え、教会の使役もしてみたいという気持ちが大きかったです。あまりにもそこが乾いた土地でした。」 – そうして行かれたところがウクライナだったんですねか? 「2014年にウクライナのオデッサに行くことになりました。ウクライナは何もかもとても自由でした。監視も盗聴もなく、福音を伝えるからといって捕まえないので下。ウズベキスタンに滞在する時は空港でいつも追い出されるのではないかとハラハラしながら暮らしていて、警察を見るたびに萎縮されました。でも、ここは自由なんです。そこで6ヶ月ぶりに教会が開拓されました。これまで渇望していたのが爆発したようでした。伝道したら自然に集まりが作られ、それが教会になりました。オデッサ地域は親ロシア地域だったので、言語はウズベキスタンと同様にロシアを使用したため、仕えるのに困難はありませんでした。使役が幸せでした。一人救う度に嬉しかったし、それで楽しく使役をしました。 そしてロシアがウクライナに侵攻し、韓国に来たのです」 – 今後の計画をおっしゃってください。 「韓国に入ってた高麗人が3000人くらいいます。こんなことが偶然起きたとは思いません。すでに20年前から建てられた高麗人教会が全国に80余りあります。この高麗人教会が連合して若い人たちを宣教師に育てれば、必ずしも自分の土地でなくてもロシア語さえできれば行ける国が多いです。このために高麗人牧師たちを動員しているところです。韓国に来ている牧師たちのほとんどは、韓国宣教師1世代が行って伝えた福音を聞いた方々です。 「もうその恩を返さなければならない時ではないか。 […]

[TGCコラム]ウクライナ難民の帰着地になる教会

” 私たちの教会の中の半分がムスリムになるとは,決して想像もしたことがありませんでした。” ウクライナとルーマニアの国境をなす黒いティザ川 ルーマニアの国境都市シゲトゥマルマチエイ(Sighetu Marmatiei)郊外、ブラックティサー(Black Tisza)川が横切るウクライナ側にキャラバン1台が闇の中に停車している。この車の前照灯に影がちらついている。女の人と子どもと老人たち-ウクライナ戦争を避けて去ってきた家族だ。彼らの脱出はスムーズで非常に慎重だ。車が15キロメートルも長く並んでいる。寒い天気の中ですでに一夜をここで過ごした。これらは安全なシゲト(’シゲトマールマチエイを略してこう呼ぶ)に渡ることを望むだけだ。 彼らは国境を越えさえすれば,援助を受けるキリスト教徒に会うことができるだろう。ルーマニア北部のバプテスト教会とオスン節教会は難民を迎えるために協力している。このようなことは、ウクライナ西部と南部地域との国境を接する国々の検問所でも起きている。 ユエンによると、ロシアがウクライナに侵攻して2週間も経たずに、少なくとも200万のウクライナ人を含む数ヵ国の国籍の人々が戦争で破壊された国を去った。 そのうち半分以上はポーランドに逃れたが、数十万人は周辺の小さな国々に流れ込んでいる。 このような傾向はさらに加速するものとみえる。ウクライナ南部都市オデッサがロシアの攻撃に備えている中、隣国モルドバはウクライナ国境地帯にウクライナ難民が押し寄せる可能性に備えている。 戦争が続くにつれ,東欧全域の教会はウクライナ難民の支援に力を合わせ始めた。疲れた難民行列のための中間寄着地に生まれ変わったこれらの教会は、食べ物と憩いの場と交通を提供し、救いの希望になっている。 次はモルドバとルーマニアの難民を仕えている現場風景だ。 モルドバ·キシナウ ウクライナで戦争が勃発すると、モルドバの首都キシナウにあるイマゴデイ(Imago Dei)教会のミハイ·チサリ(Mihai Chisari)牧師は、ウクライナ·オデッサにいた友人宣教師を避難させるためにオデッサに向かった。しかし、国境地域のパランカに到着した時、彼はこの騒ぎの範囲がどの程度なのかにすぐに気づいた。数千人が避難していた。モルドバ政府の手に負えない状況だった。 チサリ牧師はすぐに家に戻り,ライトバンをレンタルした。 彼は人を助けるために2時間運転して,パランカに戻った。この国境地域に初めて到着した人たちは"トルクメニスタン、アゼルバイジャン、イランの人々とオデッサにいた学生と労働者たち"だったとチサリ牧師は言う。チサリは彼らをキシナウに連れて行き,教会の建物の中に避難所を提供して神の愛を分かち合うことができた。"教会が半分がムスリムになるとは、私の人生の中で想像もしていなかったことです。"とチサリ牧師は言う。 初期から彼の教会が多くのウクライナ人に仕えていたわけではない。初めてイマゴデイ教会はナイジェリア、カメルーン、エチオピア、ネパール、インド人留学生に居住を提供した。彼らは一晩か二晩泊まって次の場所に移動し続けた。 今は訪ねてくる人たちは、主にウクライナの女性や子供たちだ。 イマゴデイ教会は彼らに食事や衣服、衛生用品を提供する。建物にシャワー設備がないため、信者たちが一般の家をオープンした。 (30時間を車の中で過ごしていたら、すぐにシャワーを浴びたくなるはずだとチサリ牧師は言う。) 大半の難民は教会に滞在する時間が短く言語上の障壁があるが,イマゴデイ教会は情緒的,霊的な必要を満たそうとしている。教会関係者のうち、子どもを持つ女性は精神的に大きな衝撃を受けている難民家族を訪問する際に子どもを連れて行く。子供たちが礼拝堂で一緒に遊んでいる間、母親たちが集まって祈る。 これらの教会の信者たちは難民が旅を続けることができるように助けている。この地域の他の教会と協力して避難の途についた異邦人を近くの都市や国のキリスト人と結んでいる。力を合わせた地域の教会が避難経路を組んで物的支援と書類処理を手伝っている。(脱出した奴隷たちに避難経路や安全家屋を提供した19世紀の米国の奴隷解放運動ネットワークとほぼ同じ) しかし、すべての人が次の場所に行くのではない。ここにとどまる方を選ぶ難民もいる。イマゴデイ教会の難民のための仕えはこの2週間の間にすべてのことを含まれるようになった。現在は礼拝のための翻訳も行っている。多くの言語で書かれた伝道紙も作られた。この伝道紙は戦争の害悪を友人に慎重に知らせる手紙の形式になっている。チサリ牧師は言う。"ここに来る人はみんな心が苦しいです。彼らはロシアは悪党だと確信しています。しかし非常に慎重に彼らに見せようとしているものは、我々は皆このような悪意の問題を抱えており、その問題は我々の罪だという事実です。" ルーマニア·シゲトゥマルマチエー 戦争が勃発した日曜日の朝、ガブリエル·ミクネア(Gabriel Michnea)牧師は夜に2時間しか眠れず、彼の小さなルーマニア教会の聖徒たちの前に立った。彼は国境を越えて洪水のように押し寄せるウクライナ難民を助けることができるように、聖徒に動機を与えるために神の助けを求める夜をあけて祈った。ガブリエル牧師は聖徒に献身を要請しながらこのように述べた。"今は人々のために、教会の外の人々のために何かをする時です。" その日の午後、シゲトのイベダニバプテスト教会は行動に出た。男性チームは聖徒の家を訪問して子供用ベッド,マットレス,毛布,タオルを集めた。この教会は地下室を、そして最後は礼拝堂も難民のための憩いの場に変えた。 ベダニ·バプテスト教会が収容した難民120人のうち、一番先に到着した人はウクライナ牧師の妻のボスヤ·ポティアク(Vosya Potiak)だった。ボスヤは妊娠6か月だった。彼女の住む都市クリチョボ(Krychovo)で戦闘が起こった時、彼女はウクライナに残って人々に仕えることと決めた夫を残してその地を去らなければならなかった。そして、ここベダニ教会でボスヤは、同僚難民のための翻訳と奉仕を休まずにしている。 東欧諸国の多くの信者のように,シゲトの教会は難民の受け入れや食べさせることだけに満足していない。難民に給油費を提供し、近くの都市の住居を探し、ブダペストやプラハのような遠い都市への移動を支援している。 つい最近ミクネア牧師はキリスト教徒の兄弟たちと一緒に車でウクライナを訪問した。ルーマニア北部の教会は油,小麦粉,水といった寄付品をトラックで積んで国境を越えて輸送している。彼らは、これらの物品を受け取るウクライナ牧師ネットワークを(秘密場所で)確認した後、ウクライナ·ジャカルパトゥール地域の都市に行って物品を配る仕事を、即ち人道主義的で福音を伝える仕事をしている。 ミクネア牧師は彼の聖徒がこの危機に反応する姿を見て非常に喜んでいる。"私たちの教会の聖徒は本当に生きている石です。"彼らは喜んで助力しようとしている。彼らは祈るために集まる。彼らはキリストとその方の福音を示している。ミクネア牧師はここ2週間、聖徒たちにこう話してきた。"今は我々がこれまで説教してきたことを行動に移す時です。今は、我々が信じる通りに生き、我々が召された通りに善を行うのに完璧な時間です。 " 世の光 無料給食所であれ暖かい寝床であれ、臨時診療所であれ、祈りの家であれ、それとも人生の旅程でしばらく休む所であれ、教会は疲れた難民のための重要な中間寄着地である。それは教会の建物が最高の宿所や最も安全な空間を提供するからではなく、その中に神様が居住する生きた石があるからだ。 キリストの救いと新しい創造の美しさは、彼が助けてくれた人々と、彼の愛で他の人々を救うために使っている人々から現れる。教会が闇の中で光となる使命を果たすことによって、神は救いを与える目的を行っていらっしゃる。ルーマニアのことに戻り、ミハイ·チサリ牧師は、今日の闇の中でも、すでに希望の夜明けを見ている。"私は開放的で好奇心旺盛な人をたくさん見てきました。私は既に神様がどうやって働いていらっしゃるのか見られます。私たちはいつか実を取ることになるでしょう」[福音祈祷新聞] "今は、我々が信じる通りに生き、我々が召された通りに善を行うのに完璧な時間です。” エリオット·クラーク(Elliot Clark) | Southern Baptist Theological Seminary(MDiv)を卒業し、中央アジアに住み、多文化教会を開拓した。現在Training Leaders Internationalにおいて海外の教会リーダーたちを訓練している。 このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org