ウクライナの高麗人難民の避難先を作る

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恵の場に立ったキムジョンホン宣教師(ウクライナ)

安山東山教会9階の事務室に入ると、韓国語の授業が行われていた。ウクライナ戦争で難民になった高麗人らが韓国語を学んでいた。彼らは皆キムジョンホン宣教師が韓国に引き渡した高麗人だ。最初は避難民になった教会聖徒たちを助けるために、今は難民になった数多くの高麗人を助けるために足にまめができほど走っている。彼の電話機は度々鳴った。高麗人難民たちは問題が生じればすぐに彼に電話をするからだ。高麗人難民の避難先となったキム宣教師のウクライナ戦争以降の話を聞いてみた。

–ウクライナ戦争が勃発した時、どんな状況でしたか。

“昨年の初めごろ戦争の可能性があるとして大使館から撤退を求める連絡が来ました。当時は撤退しなければ、パスポートが消滅されると言われたので、仕方なくモルドバに移動するようになりました。現地人らは戦争が起きないと言ったけど結局、戦争は起き、すべての住民らが避難をし始めました。この方たちを助ける方法を探してる中、一旦ルーマニアにある避難先を連結しました。しかし、一日二日の問題ではないためにこれから先この方たちをどのように助けることができるか悩みながらできることを探し始めました。それから、韓国の光州(チョルラナムド・クァンジュ)で高麗人村を仕える牧師を知りました。私たちの教会の聖徒の妹がその教会に出席していました。牧師に私たちの聖徒らが国境で助けを待っているので何か助けていただけるか問い合わせました。具体的には飛行機チケットを手に入れてほしいという要請だったんです。牧師は祈りながら募金してみると言ってました。数日後、飛行機チケット15枚を用意したと連絡が来ました。そうして一番目のグループが韓国に入国するようになりました。それが昨年の5月初めだったです。”

“難民900人を韓国に連れてきました”

–ウクライナの難民が韓国にも入ってきたのですね。

“この方々が仁川(インチョン)空港に入るとき、マスコミを通じて報道されました。ウクライナから来た初の団体入国だったからです。このニュースがウクライナに伝わって、そこにいる高麗人難民たちが自分たちも韓国に送ってほしいと連絡を送ってきました。再び、光州の牧師に連絡をしましたね。ありがたくも牧師が最後までやってみようと言ってくださいました。最初は私たちの信徒だけを連れてこようとしていましたけど、続けて高麗人名簿を受けてもらうようになりました。飛行機のチケットを購入する次第現地に送りました。昨年ずっとこの仕事をしました。チケットをもらって入国した人たちが900人くらいになります。9億ウォンくらいかかりました。”

–とてつもない仕えでしたね。韓国に到着した難民たちはどうなりましたか。

“初めに入ってきた方々は韓国に親戚がいる人たちが殆どでした。その方たちの殆どが光州(クァンジュ)へ行きました。しかし、徐々に人数が増えて光州が飽和状態になりました。そして、韓国に知人のない人たちも多くなって、アンサンに定着をさせたいと思って教会の周辺に家を借り始めました。これもある家族のために始められました。”

▲安山(アンサン)で開かれた高麗人行事時一緒にしたウクライナの難民。提供:キムジョンホン宣教師

–一つの家族がこんなに増えることになりましたね。

“おばあさん一人が糖尿病のため、足の指を切断することがありました。避難中に薬がなくて、モルドバの病院で足の指を切断したが、韓国に来た時大変病んでいました。治療がきちんと行われていなかったから、そのまま置いては足さえ失いそうでした。自家隔離する間、家を借りて病院に入院させました。この方々は韓国に入って6ヵ月間は医療保険が適用されません。手術の費用が1000万ウォンでした。これをどう払うかと祈祷しているのに神様がある団体を連結してくれました。ある教会で運営する’青い分かち合い’という団体だったです。その団体にこの方々の状況を説明したら、一つ、一つの家庭を支援してくれました。その青い分かち合いが専担して高麗人難民の居住、生計を支援してくれました。それ以外に必要なものは各教会を回りながらタオルでも集めて得て、必要なものは購入して家を飾りました。”

–ある人生や家庭が新たなスタートをするのを仕えるごとですけど、どうしてこんなことを始めたか知りたいです。

“彼らをこのように助けることができるようになったきっかけがあります。私たちの教会のいくつかの家庭がドイツ難民になり、ドイツが難民政策をどのように展開するのかを見ることができました。ドイツは難民に家と、生計費を支援します。そして、医療費も無料です。その代わりに8~9ヵ月間、言語を学ばなければなりません。良い労働力が入ったので長期的な投資をしたことなのです。ドイツのシステムがよさそうに見えました。韓国は難民に対するこのような支援がなかったから国ができない事を自分でしたいという思いで、3ヵ月定着プログラムを作りました。家を借りて、3ヵ月間生活費を支援することです。そしてここに来た人たちに3ヵ月間、ハングルを学ぶようにしました。韓国に来て仕事をして、バスに乗って、買い物をするにもハングルを知らなければならないからです。そんなに言語コースを作りました。”

–良い構想だが、一人でするには力不足だったようですが。

“救援品は、教会が分けるように教会に渡しました。ここの近くに高麗人教会がいくつかあります。難民たちが全部教会に行って必要な物品も受けて、教会からケアをしてもらうようにしました。私が教会を建てて仕えるということは難しい事でした。難民たちは、強制に教会を行くことになったのだが、そこで神様の恩を経験させたかったです。そのように3ヵ月定着プロジェクトをしながら、ぶつかった現実が一つあります。大人たちはそれなりに定着しつつあるが、子どもたちが問題でした。”

“国ができないなら、教会が支援しよう!”

–どんな問題があるのですか?

“幼児たちは、幼稚園に送ってもらうことができたが、小学生は関連書類を準備できず、学校に入るのが難しかったです。しかし、学校と話しながらありがたくも戦争状況であることが考慮されて学校に行けるようになったんです。しかし、より大きな問題は青少年たちでした。この子たちは家でゲームしていて家の外に出ないんです。言葉が通じないからどこにも行くこともできません。この子たちをどうやって家から出るようにするか思案しててある場を設けて子供たちを来いといいました。勉強しに来るように言ったら来ないので、とりあえず来て遊んで食べなさいと言いました。子供たちは半強制的に両親の手に引かれてきました。子供たちを食べさせながら2週間に一度は遊園地やいいところを訪ねたんです。身も心も楽しませながらハングルも教えてあげたら、子供たちが、そこをアジトにして集まって遊びました。子供たちも明るくなりました。”

–難民たちを仕えるというのはそんなに簡単な事じゃないですね。

“青少年の中には高等学校を卒業する年頃もいました。大学に行けないなら韓国での技術でも教えなければならないと思いました。ここにきた難民の中にはウクライナでヘアショップ、ネールショップ、カフェなどをしてきた人たちがいます。ここでデザートカフェをしたら、その収入で生活もできるし、青少年たちが技術も学んで生きられるようでした。祈祷しながら、経済共同体を作ることに思いがつきました。難民たちは韓国の法をよく知らず、どうやって事業をするかも知らないから経済共同体を通じて青少年たちを雇用して、それから店を開いていく。実はこの母親たちは夫たちが動員令のために出られなかったので、子供たちだけを連れて出て、生活の責任を負っています。そして、無縁故、無国籍、無適応青少年、片親の家庭のような脆弱階層を助ける’無限挑戦プロジェクト’を作ることになりました。無謀な挑戦でなく神様がなさる無限な挑戦であります。”

無国籍難民達に旅行証明書発給

–そのように一歩ずつ難民支援システムを備えていくようになったんですね。

“最初は必要によって始めたのに、ここまで来ましたね。神様の導きです。ドイツ難民として行ったおばあさんは無国籍でした。信者たちの中には無国籍者が数人いました。旧ソ連時代には旧ソ連圏の国々を簡単に往来できるため、多くの高麗人らがウクライナに移住しました。土地が良いからです。高麗人たちは農業を非常に上手な民族であります。ところがソ連が崩壊して、この方々がウクライナに残るようになり、その時に書類整理ができなかったから国籍がなくなったのです。そんな人たちが2000年度初ごろまで3000人ぐらいいたために国籍回復に向けた事が進行されたけど数百人程度は国籍回復になっていない状態でした。この人たちは、パスポートがないために避難を助ける方法が全くありませんでした。祈祷しているのに外務省と法務部にこの問題を伝え、問題化となり、高麗人というのが確認されれば、旅行証明書を作れるようになりました。そんな方法で無国籍者たちが韓国に来ることができるようになったのです。”

–映画のような興味深いストーリーです。どころで神様とはどうように会いましたか?

“母胎信仰で順調な人生を生きました。青年時代に宣教師として献身して宣教訓練を受けてエチオピアに短期宣教を出ました。それなりの宣教訓練を受けて宣教師として献身して出場したが、何かと難しいことがあれば、アイデンティティが揺れました。これが何かと考えました。以後、2002年に結婚をして妻と信仰の訓練を受けていたが、福音学校に出席するようになりました。私はこれまでの宣教師として献身もして熱心だと言われたが、自分の罪に直面したのは初めてでした。罪そのものである自分の姿を見て倒れてそこで号泣しながら神様が成し遂げた十字架の福音が何かを知って信じるようになりました。以降、長期宣教活動を準備して2005年にウズベキスタンに行くことに決定されました。”

–そうしてウズベキスタンにいらっしゃるようになったんですね。

“2006年度にウズベキスタンに派遣されて宣教の第一歩を踏み出しました。実は先にトルクメニスタンに行くことでしたが、入国できなくなり、ウズベキスタンに行くことになったのです。ウズベキスタンに行く時は平信徒専門の使役者として行きました。当時、イスラム圏には牧師の身分では行けないところが多くて平信徒の身分で行ける所を探してみると、トルクメニスタンがありました。そして宣教団体を通じてチームで入ろうとしたけど出来まくなってウズベキスタンに行くことになったのです。そこで韓国企業と連結して様々な事業を進めたが、結果的には追放されて幕を閉じました。独裁国家であるうえ、監視があまりにもひどかったです。”

▲ウクライナアドゥルラム愛の教会の信者たち。提供:キムジョンホン宣教師

–ウズベキスタンでの時間が知りたいです。

“初めて救護団体で行って、6ヵ月目でそこを離れなければなりませんでした。以降、キルギスタンに移しての言語の勉強をして、再び2007年にウズベキスタンに入りました。この時はビジネスビザで行きました。私たちのチームは、色々なビジネスをしました。その中で私は1次産業関連事業をしました。ところで後で知るようになったけど現地でその事業はマフィアがする仕事でした。私は知らないまま始めてて完全に詐欺で莫大なお金を失うことになって、とても大変な時間を過ごしました。”

– とても難しい時間を過ごされたと思いますけど

「ほとんど死ぬところでした。 人生のどん底まで下がりました。 ビジネスミッションは自分ではできない事だと思いました。韓国ででもビジネスが容易ではないのに、腐敗した国でビジネスをするというのは、とても難しいことでした。書類一枚を受け取るためにも賄賂でなければ不可能でした。こういうことに対する葛藤も大きかったですね。 ウズベキスタンに派遣されて8年ほど過ごしながら、私の腕、足が折れる時間だったというか? 30代の血気盛んな年齢で、その時は何でもできると思いました。 勢い満々でした。でも完全に死を味わいました。莫大なお金を投資されたけど詐欺にあってお金を一銭も回収できずに出てきました。これを解決するためにすべての官公庁に通いました。昼夜を問わず追いかけましたが、解決できず、心に大きな圧迫が来ました。人生を手放さないといけないのかな? という気もしましたね。それに妻がとても痛かったです。ウズベキスタンでは監視され続けるし、すべてが自由ではありませんでした。結局ストレスが病気になりました。体も壊れて、気も狂って、以前にあった信仰さえなくなって凄絶に倒れました。そうして2013年に妻の治療のために韓国に来ることになりました」

– 韓国での治療も容易ではない時間だったでしょうね。

「私たちはほとんど負け犬でした。妻はパニック障害、うつ病がひどくなりました。一日中水を一口も飲めないほどパニック発作がずっとありました。妻はありがたくも祈りで戦うと言いました。もらってきた薬もゴミ箱に捨てました。薬を飲むこと自体が悪いわけではありませんが、一度祈りで戦ってみようという気持ちでした。パニック障害について勉強して、なぜこうなったのか調べたりもしました。パニック障害の治療法の中で認知行動治療がありました。勉強して一つずつやってみながら峠を越えました。発作が来るたびに祈りました。そして発作が消えるとまた動きました。発作が起きる時間の間隔がだんだん長くなりました。勇気を出してマートに行ってみました。その時に発作が来たら、その場で早く椅子を探して座り、人の目を気にせずに祈りました。回復したらまた起きて動きました。これを繰り返しながらマートを征服するようになりました。次は地下鉄に乗って、バスに乗りながら発作が来たら降りて祈って、よくなったらまた地下鉄に乗って動きました。少しずつ解決できたら自信がつきました。そうしながらもっと長く公共交通機関を利用し、人が多いところも征服していきました。このように1年ほど経って妻は見違えるほど回復しました」

– とてもありがたいことですね。 お疲れ様でした。

「妻が初めて韓国に治療を受けに来た時には宣教地に再び行けないと言いました。しかし、主が呼んだところだったので、また行くことを信じて待っていました。妻が体が回復してからまた行けると言いました。それでビザを申請して宣教地に帰る準備をしましたが、ビザが断られました。神様が私たちが大変だから他の所に移したくださるのかと考えました。もう少し開いている所に行って福音を伝え、教会の使役もしてみたいという気持ちが大きかったです。あまりにもそこが乾いた土地でした。」

– そうして行かれたところがウクライナだったんですねか?

「2014年にウクライナのオデッサに行くことになりました。ウクライナは何もかもとても自由でした。監視も盗聴もなく、福音を伝えるからといって捕まえないので下。ウズベキスタンに滞在する時は空港でいつも追い出されるのではないかとハラハラしながら暮らしていて、警察を見るたびに萎縮されました。でも、ここは自由なんです。そこで6ヶ月ぶりに教会が開拓されました。これまで渇望していたのが爆発したようでした。伝道したら自然に集まりが作られ、それが教会になりました。オデッサ地域は親ロシア地域だったので、言語はウズベキスタンと同様にロシアを使用したため、仕えるのに困難はありませんでした。使役が幸せでした。一人救う度に嬉しかったし、それで楽しく使役をしました。 そしてロシアがウクライナに侵攻し、韓国に来たのです」

– 今後の計画をおっしゃってください。

「韓国に入ってた高麗人が3000人くらいいます。こんなことが偶然起きたとは思いません。すでに20年前から建てられた高麗人教会が全国に80余りあります。この高麗人教会が連合して若い人たちを宣教師に育てれば、必ずしも自分の土地でなくてもロシア語さえできれば行ける国が多いです。このために高麗人牧師たちを動員しているところです。韓国に来ている牧師たちのほとんどは、韓国宣教師1世代が行って伝えた福音を聞いた方々です。 「もうその恩を返さなければならない時ではないか。 教会から若者を送り返せ。 「私が宣教師としてあなたたちのところに行ったように、今はあなたたちが送りなさい。」簡単なことではありませんが、このように動員し続けるのです。韓国宣教師が派遣されてロシアを学び、現地に適応することが10年ほどかかりますが、韓国教会がこのように支援するのもますます難しいのではないかと思います。高麗人に福音を植えれば、行って福音を伝えることができると思います」

– 最後に祈りのタイトルを教えてください。

安山にカフェ、ネイルショップ、ヘアショップなどを運営しながら一緒に生活する経済共同体を準備しています。また、宣教共同体も準備しています。共同生活をしながら教育をさせて、信仰で訓練させて宣教地に送り出す共同体です。ちょうど韓国の農村には人材がたくさん必要ですが、高麗人は農業が優れています。農業で自給自足し、神学校、宣教師訓練ができる宣教共同体村を祈っています。適当な土地と場所を求めていますが、主が導いてくださるよう祈ってください。個人的には一度折れたことがあるので、自分の力でやらないようにと祈っています。神様が導いてくださるように祈っていますが、自分も知らないうちに自分の力ですることもできるので、毎瞬間主の志でなければ止めるように、神様の時を待って従順な人生を送れるように祈ってください。」 [福音祈祷新聞]

Y.K。

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