希望のない世界で永遠の天国に行く旅人の道
多くの聖徒が聖書の次に多く読んだというジョン·バーンヨンの天路歴程。この本に接する若いクリスチャンたちの数がますます減っていくのが残念だったC.J.ロビックは、原作の美しさと雰囲気を守りながらも、この時代の読者たちが理解できるように文章を整え、再び編集した。本が発刊されて以来、なんと300年間聖書の後を継ぐベストセラーである天路歴程を通じて私たちも天国に向かう巡礼者の旅程を歩んでいることを悟らせる。 クリスチャンが巡礼者になったのは言えない苦しみのためだった。福音の前に立つように助けた私の人生の凄絶な絶望、苦しみが思い出された。絶望の場で真の希望をつかむようになったのは神様の神秘だ。彼は手に持った本を読みながら、どうすれば救いを得ることができるのか、どこに行けばいいのかに対する人生の本質的な問題に苦しみながら泣き叫んだ。その時に現れた伝道者の案内で巡礼の旅路が始まる。第一歩を踏み出した瞬間がオーバーラップしてくる。神様に本当に会いたいその切実さ、渇望の時間。すべての魂に必ず必要な時間だ。 本に登場する人物の一人一人と地名は何度も噛み締めて黙想して自分のものにしなければならない要素だ。希望のない世の中で永遠の天国に向かう旅人の道に何を特別に気を付けなければならないのか、何を必ず捕まえなければならないのかについて常に目を覚ましてろという神様の声だ。信仰の歩みを邪魔する障害物、振り返らせることのせいではるかな人生たちが痩せた骨のようになっただろう。 狭い門に進め 信仰の歩みを始めたが、落胆の沼に落ちて自分の故郷に帰る’柔弱な’人。狭い道ではなく簡単に見える道を選択した’見かけ’と’偽善’、続いて登場する’小心’と’不信’まで一様によりもっと簡単に見える道、広い道に進もうとする人々だった。主はは’狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々 としてそこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は 少ない。’(マ7:13~14)と話す。 虚構、偽善、小心、不信、弱い。これらすべてが自分の人生に割り込まれないように主の恵を求める。 激しい巡礼者の旅程 クリスチャンは彼らをからかって皮肉りながら非難する人々、絶えず脅迫し批判し叱る人々がいる’虚妄市場’を通らなければならなかった。それによってクリスチャンと真実は足かせをかけて鉄格子に閉じ込められ死刑執行日が決定されることを待ち、結局’真実’は残酷な死をむかえた。後に’希望’と共にする時にも’疑いの城’、’絶望巨人’に出会いながらも結局苦難を通過する。この時、一番厳しかった戦いは見えない内面の戦いだった。冷静かつ熾烈にすべての過程を通過し、自分自身(自我)と戦わせ、宝物(み言葉)と鍵(祈り)を使って十分に通過させることが本当にありがたい。彼らの話がまさに私たち自身の話だからだ。 神聖な聖エルサレム クリスチャンと希望が新しいエルサレムに入城するためには、必ず渡らなければならない川の前に立っている。その川に飛び込むことは死を意味した。大きな恐怖の中でも死を通過するその瞬間まで主を頼らせる時間だった。気がついたクリスチャンが大声で話す。 “お、神様がまた見える!” ‘私があなたと共にし、あなたが川を渡る時にも水があなたを沈没させることができないだろう’(イザヤ43:2)とおっしゃっている!”この叫びが私の中に響き涙があふれた。 ‘そうだ!神様が私と共にすれば、どんなことも沈没させることができない!’ 最後の瞬間までもこの信仰の戦いだ。そこで天使たちが導いてくれてついに城内に入った。これがまさに私たちの巡礼の旅の最後の瞬間であるだろう!列邦の絶望的な知らせが聞こえてくる。戦争の残酷さ、伝染病。この他にいくらでも直面する絶望の状況が私たちに訪れるだろうけど’希望’が私たちを恥ずかしくないことを信じる。 ‘願い’がなかったらクリスチャン一人で最後まで行けなかっただろう。 ‘私の主よ、私の足を引っ張ってそこに立たせてください!’[福音祈祷新聞] チョン·ジュンヨン宣教師 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
天国を渇望するほど心霊が貧しいのか。
福音に対する二つの反応(2) 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隱れたことを見ておられる父が,あなたに報いてくださる(マ6:4)がある。これはユダヤ人の外見的な信仰を真の義人の信仰で教訓し教える内容だ。また、’何も心配するな’と言いながら、’空中に飛ぶ鳥を見ろ。それらは心配しなくても神様が広げてくれた青空で神様が食べさせるものを食べる。野原のユリは一日に咲いては散るが、栄光を極めたソロモンより神様が美しく着せているのに、ましてや君たちだろうか。どうして心配して何を飲むのだろうか?食べようか?着ようか?と心配しているのか?’とおっしゃる(マ6:25~31)。イエス様は何よりまず神の国と神の義を求めれば、あなたたちを創られた方が食べ物を与えないで、体を創られた方が着るものをくださるのではないかという山上報勲を与えた。 天国の例えとして知られているマタイ福音13章は、7つの比喩で神の国の真理を説明された。肉体を着て有限な時空間の制限の中で暮らす私たちには次元が違う’天国’に対する話は想像も、見当もつかないので主は比喩を使ったのだ。ところが、この比喩は聞く人の立場によって結果が天と地ほどに違う。準備ができている人の耳にはよく入り、手に取るように気付くけど、全く聞き取れない人もいる。 “この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で 理解せず、悔い改めない。わたしは 彼らをいやさない。(マ13:15) 自分で賢いと思うが、かたくなな心だから聞き取れないのだ。これは知能指数(IQ)の問題ではない。神様の国に対する霊的な真理は心で見ずに聞かなければ分からないので、従順しようとする心でなければ聞き取れない。いくらすごい能力で神学を勉強し、熱心に聖書を読むとしても、違う心で神の国の比喩に接すると心に染み込まないのでその国を享受することはできない。 “もし、わたしたちが眞理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば, 罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き盡くす激しい火とを,恐れつつ待つことだけです。モ―セの律法を破る者は、二,三人の證言に基づいて、情け容赦なく死刑に處せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。(ヘブライ10:26〜29) 衝撃と感激で受けた福音を存在の中の最も深いところ、心の中心に受けずに他の目的で受けて適当に感動し、自分に実際にならないまま暮らせば、いつかはこの福音を武器に使うことになる。福音で他人を停めて判断し批判することになるのだ。しかし、自分がその福音の中に入らないため、彼は罪を犯す場に行くしかなくて恐ろしい刑罰を受けることになる。福音を心から受けずに従順しない者が他の動機でその秘密だけを知ることがどれほど危険で恐ろしいことかを警告して下さる御言葉だ。 このように天国の比喩を聞く時に私たちの心の中心が現れるようになっている。天国を渇望して貧しい心霊として準備されている人は”心の貧しい人は幸いである。”(マ5:3)を比喩で話せればただ’アーメン’と受け取り喜びで反応するようになっている。しかし、自己中心的な人々はそうはできない。(2018年6月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org