あなたの老後の準備に、死後の人生は含まれていますか?

信仰は聞くことから始まる. 誰でも良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと思っています。福音を渇望する魂のために、いくつかの信仰の告白を、からし種宣教会が作成した伝道用パンフレットから抜粋し、ご紹介します。<編集者> あなたは家族との関係を大切に考えているのですね。称賛に値します。 しかし、イエスを信じると本当に家族関係が悪くなるのでしょうか?最初は家族が反対するので、そう思えるかもしれません。しかし、イエスを信じ始める初期に予想されるこのような摩擦も、神が与えてくださる知恵によって、十分に乗り越えることができます。 実際、あなたがイエスを信じられない一番の障害は、家族の反対ではなく、イエスの中に真理があると信じられないことです。なぜなら、これまでにもあなたは家族と意見が違う無数のことを、自分の意思でやってきたからです。親の言葉を後回しにして、自分が価値を置いていたことを追求してきたことはありませんか?こっそりやっていたことさえもあったのではないでしょうか? こうして、あなたがどれだけ自分の考え通りに生きてきたかをあえて指摘する理由があります。それは、あなたが運命的に死を迎えるからです。その後には必ず審判があります。神の前で、神を信じなかった罪を裁かれます。そのとき、「信じたかったけれど、家族が嫌がったから、行かせてくれなかったから…」という弁解は通じません。 審判の前で慌てずに堂々と通過できるただ一つの道は、あなたの中にイエスの命を持つことです。それは、神の子であるイエスがあなたの罪を代わりに背負って、死の十字架を通過し、再び生き返られたことを信じることです。 そのイエスを心に主として迎え入れ、あなたもイエスと共に神の子供となるとき、それが可能になります。家族のことは心配しないでください。あなたが神の子供になるならば、あなたとあなたの家族が救われるという祝福を、神はあなたを通して与え始めてくださるのです。イエスを信じて神の子供になるなら、あなたこそが家族に救いの命綱を差し出すもう一人の存在になるのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com

神様の国が臨む最も大きな秘密··· 私の中にいらっしゃるキリスト

ただ! 絶対!全部の福音!(13) アブラハム、ダビデ、パウロ。彼らには生きておられる神様の御言葉が絶対基準だった。ヨシュア1章7~9節のお言葉を見れば「右にも左にもそれてはならない」、「ただあなたは私のお言葉を昼夜を問わず黙想し、そのお言葉が記録した通りに行いなさい」、「この律法の書を口から離さず、昼も夜もこれを唱え、書かれているすべてのことを守り行いなさい。」と話された。これは生きておられる神様の御言葉を真理として受け止めたら’絶対’、「ただその通りに」が態度でなければ主の言葉に接することはできないということだ。 申命記 6章5節のことだ。 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」そして”今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。” テモテへの手紙二/ 03章のことだ。終わりの日には困難な時期がやって来る。 混沌として複雑な終わりの時代の特徴は、互いに騙され合うということだ。 また絶対の真理がない。そのような相対的で人本主義的な混沌とした世代に向き合う時には、「自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。」(テモテへの手紙二/ 03章 14節)と主は言う。 神様は変わらない真理をひたすら信仰で神様の御前で真っ当な心で付いていく神様の人々を聖なる種として植える。そして、彼らをこの地に神の国を来させる神聖な切り株として立てる。この世の中を変化させる神様が残しておく人々は「ただ信仰、絶対信仰、全てになった信仰」その信仰を持った神様の人々だ。 終わりの日の混沌と暗い時代に神様がなさる非常に明らかなことがある。聖書の前の歴史と全存在を動員して、神様がおっしゃっている神様の国がこの地に臨むようにする最も偉大なことがある。それは病んだ自我を愛してただ唯一に絶対と全てをかけて「私、私、私」して滅亡する望みのない私たちの歴史を変えたことだ。 私たちを救って神の国を成す神様の最高の戦略であり、神様の最も大きな秘密は「あなたたちの中にいらっしゃるイエス·キリスト」だ(コロサイ1:27)。 福音が自分にとって実際になる以前に、人々は神様からすべてのものを供給された。それにもかかわらず、悲劇的な現実だが、彼らにとって神は全てにならなかった。依然として自分が全てになって「私、私、私」と生きていく姿だった。しかし、この粘り強い呪いを受けた運命を破り、神様の原型に戻して神様が全てになり、神様が絶対になり、神様のお言葉がただ唯一のものになる神様の人々で救われた。この地を変えることに聖なる通路になる、神様の救いの歴史に使われる神様の人々、自分の中にいらっしゃるキリストが全てになった人に回復された。 (2018年8月)<続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

[イアチムコラム] 信仰は心を取り出して神様に差し上げる行為

私たちは喜びようとしています。喜びを通じてのみ真の満足があり、愛することができる力が生まれるからです。神様に深く会うと、「はい、神様! 「正しいです」という部分があります。神様はいつも喜びで終わるようにします。愛も喜びに帰結します。真理です。 人生は喜びに対する根本的な渇きがあります。喜びに対する渇きを満たせない理由を、今日の言葉を通じて見ていきます。なぜ基本的に喜びが満たされないのかを見るでしょう。そして、その喜びを見つけさせます。 アダムとハワがエデンから追い出されました。エデンの意味が喜びです。それで喜びから追い出されたのです。人間は心から喜びたいという欲求があります。それでエデンに帰ろうと思います。ところで、今日のお話はエデンに火炎剣、火の刀を置いたそうです。では、どうやってそのエデンに入ることができるのでしょうか? イスラエルの民が神様の強権で出エジプトしました。民衆の力ではありませんでした。神様の力でなさったのです。神学で出エジプト記を救いの模型と言いますが、すべてが正しい言葉ではありません。 神様の恩恵でできたものなので、救いの模型は正しいですが、また完全な姿ではありません。 出エジプト記はイスラエルの民の知恵と能力によるものではありません。救われたのは事実です。しかし、彼らの体はエジプトを去りましたが、心はエジプトから離れることができませんでした。彼らの体はエジプトを脱出して荒野にいましたが、心は依然としてエジプトに戻ろうとしました。神様がどうして私たちをここに導いて私たちを滅ぼそうとするのか、愚痴を言いながらエジプトを夢見ました。それは救いではありません。 聖書は出エジプト記を通じて、出世間しろと言います。出世間は体の問題ではありません。心の部分です。心が世の中から脱出することは人為的な努力や能力ではなりません。心が出世間するには十字架でイエス様と一緒に死ななければなりません。出世間が実際になるには、私たちの心には十字架が必要です。 信仰の原語は「クレド」です。クレドは神様に心を捧げることです。使徒の告白です。使徒神経に出てくる「信じます」という単語がクレドです。心臓を取り出して差し上げるという意味です。心を差し上げることが信仰です。私たちは信仰で救われます。心を差し上げたからこそ救われるのです。 それなら誰でも信仰を測定することができます。心がどこに行っているのか、心に何を盛り込んでいて、何を込めようと努力しているのかを見れば、信仰があるかどうかが分かります。救いは体だけ出るのではなく、心を神に置くことです。それが信仰です。 マタイ福音書8章、マタイ福音書4章、ヌガー福音書8章を見れば、海と風を静めたイエス様が出てきます。ヨハネ福音書の6章は少し違う背景があります。イエス様が急いで弟子たちを呼び集めた後、海の向こうに行こうとおっしゃいます。おっしゃってくだされば叶います。 導きを受ける時、詩編23編のイメージで慈しみ深くて能力のある神様が先頭に立って、羊たちがついて行く導きの風景だけを思い浮かべるならば、欲に倒れるかも知りません。信仰が腐ります。導きはただイエス様についていくことです。 いつでもどこでも、どんな環境でも! その方がご主人ならそうです。 神様についていくと、狂風が吹きました。嵐が起きました。神様の導きを受けたが、人生はめちゃくちゃになったという話です。 私たちは僕であり、主は主人なのでついて行ったが、人生が不渡りになったということです。時限付きの人生になったのです。神様について行ったら人生がこじれたのです。狂風、嵐です。神様について行ったのですが、風浪が起こりました。その時にも私たちは、神様!とできるでしょうか? カギは心です。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(マルコによる福音書/ 04章 38節) 信者が困難なことが起きた時、神様を呼ぶのは良い態度です。講壇で、人生が大変で苦しい時に生きている神様のところに行かなければならないと言いませんか? 「主よ、私の面倒を見ないで何をされているのですか? 神様が守ってくださらないと、私は立つことができません!」 信仰の告白に全く欠点がないように見えます。神様に行って神様を起こしました。熱心にしました。 「主よ、聞きなさい! 主が面倒を見なければ私たちは滅びます。明日はめちゃくちゃになります。神様!」このような信仰が信仰ではないと言ったら、どれほど荒唐無稽でしょうか? 私が不足していることは知っています。ところが、私は主の前に真心がありました。ところが、神様が私のことを全く知らないとおっしゃいました。私の信仰を全く認めてくれませんでした。幽霊が去って、治癒使役もして、数千人の前でみ言葉を宣布すれば、信者たちが悔い改めました。 それでも神様は私のことを知らないと言いました。不法を行う者たちよ、立ち去れ、言われました。神様が知らないとおっしゃると、すぐに思い浮かぶのが地獄です。存在的に地獄を感じると膝がただ折れます。考えが止まります。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。。(マルコによる福音書/ 04章 39節) 神様がおっしゃればその通りになります。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコによる福音書/ 04章 40節) 神様はその状況を恐れる弟子たちを叱っています。家がふらついて、子どもたちがふらついて、戦争や地震が起きると心は恐れます。ところが、主は叱ります。信仰がないとおっしゃいます。 この困難な時期に礼拝いたします。心を集めるのに努めます。人生にもつれたものが多いのですが、それでも整頓して整頓して礼拝します。それなら、神様、それをちょっと知っていただけませんか? ところが、主はその困難な時に主を起こしてそのように話したことを信仰がない言います。なぜそうされたのでしょうか? 私は存在的に悟ります。 信仰とは心を取り出して神様に差し上げることです。出エジプトしたイスラエルの民の心はエジプトに行っていました。神様を起こした弟子たちの心は、神様にあるのではなく、問題解決にありました。 実際、彼らが切実に叫んだようですが、心がこもっていたのは風浪が静まることでした。 それは信仰ではないと主がおっしゃったことです。それが信仰だとすれば、私たちは自分自身の信念を測定することができます。これを測定できなければ、必ず正しい思考、誰もが良いと言うその仕事をしようとするが、実は信仰のない人生になるのです。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

説明のつかない神様の贖いの御恵

キリストの中で完全な教会(6) 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5) 神様は人としては説明できない「贖い」という方法を使った。 正義で借金を返すものの、資格のある人が代わりに借金を返させた。理解できない、話にならない方法で神様も義であり、私たちも義であるたった一つの道を用意された。これが「贖いの義」である。 自らを赦しができない私たちにキリストイエスの中にある赦しによって神様の御恵によって無報酬で義だということを得させた。この道しか他に道がなかったので御自分がすべての罪の代価を自ら払ってイエス·キリストを通じて審判を受けた。最も完璧な主のみ恵みだった。そして、分け前を残しておいた。イエスを彼の血によって信仰による和解のいけにえにされた。 私が直接罪の償いをしたわけではない。しかし、信じる私たちは誰かが私の名前と私の資格で返してくれたその功労を信仰で完全に受けてイエスに起きたことを自分に起こったことと受け止めれば良い。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死んで審判を受ける時、私の名札をつけて私になって死んだので、その方が死ぬ時、あれほど変わらなかった自分が一緒に死んだことを信仰として受け入れるのだ。それで自分を信仰で死に渡し、もう自分ではなくただ私のために死んでそして生き返られたイエス·キリストにすべての生命の主権を与え、新しい生命として受け入れなければならない。 今は私ではなく、私の中にキリストが生きる人生を生きていくようにしてさせた。ついに罪悪の呪いから抜け出し、罪と関係のない神様の水準、神様の形状を成すようにさせた。聖なる主の民で、罪から自由な者として、勝利する者として生きていかせる。 最初の創造の時は言葉でされた。しかし、私たちを救う時には神様の父親が御自分の一人しかいない息子をこの地に人として送った。律法の義を成し遂げるために女から生じさせ、律法の呪いを代わりに受けて十字架で死んで復活するまで、このすべての過程を成し遂げた。神様が世の中をこんなに愛して恐ろしい罪に売られて心の中心に神様と仇になった私たちの昔の生命を終えた。天地開闢よりもっと難しいことを成し遂げられた。 私が直接したことは何もない。 しかし、イエス·キリストが私の代わりに成し遂げたそのことを私に直接なされたと信じて信仰で参加しなければならない。イエスの死、私の死、イエスの復活、私の復活! 二度と罪が主人の役割を果たせず、二度と律法が私を罪に定めることができない。今はただキリストが私の主人になって生きていくことで、神様だけを愛し真理に従って天に属した人生を生きるようになされた。この夢見るようなものすごい福音を主が準備しておいて「ただ信じるだけしろ。」とおっしゃる。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ宣教師(巡回宣教師)。 LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

[GTKコラム]罪とイエスの使役

イエス様が行われようとしたのは何だろうか? 彼の死と復活は現実に実際的な影響を及ぼすことだったのか? あるいは永遠の問題に全ての焦点を合わせたのだったのか? 聖なる神様の息子が、自分の栄光を捨てて、人の形を取って、義を貫いた人生を生きて、他の人たちの罪のために喜んで自分を完全ないけにえとして捧げたことを考えてみよう。その全ての事が罪を無くさないで、単純に罪を許すための目的だっただろうか? 使徒ヨハネは手紙の受信者たちが自分たちの信頼の真実性を試験するのを援助するために最初のソシン書を書いた。 このようなテストは、キリストの使役が彼らの人生に必然的に影響を与えているかどうかを試すものだった。 そして彼はヨハネの手紙一3:5-8で私たちを代わりにしたキリストの使役は彼の庶民の暮らしが画期的に聖化するのに影響を及ぼすためのものということを明らかにした。 "あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネの手紙一3:5-8) 私たちの代わりのキリストの御業 イエス様が私たちのためにこの地に”罪を除くために”(ヨハネ一3:5)来られた。彼は罪の代価を払うためにいらっしゃっただけでなく、罪を許すためにいらっしゃったし、すべての罪をなくすために来られた。キリストの贖いで信じる者は皆罪から分離された。一時、彼らの生活の特徴とも言える不法が除去された。 したがって、キリストの十字架の拘束でキリストの生命を共に分かち合った人が罪の中に生きるということはつじつまが合わないことだ。 つまり、イエス様は信じる者を聖火させるために死んだため(コリント第二5:21)、罪の中に生きることは信じる者の人生で罪の権勢を破った彼がされたことと反対であることだ(ローマ6:1-15参照)。 罪を滅ぼすために来られたイエス様の真理は単純に未来の希望ではなく、今起きている現実だ。ある人は、信じる人は死ねば罪から拘束されるが、死ぬ前には彼らが依然として罪の中にいる可能性があると言う。しかし、ヨハネはそうではないと話す。聖化の過程は遅くて漸進的に起こりうるが、救われた後に人生を変えるキリストの作業は即刻起きる事件である。(フイリピ1:6) 救われた瞬間、信じる者は本当にきれいになり、彼らの罪から分離されることを経験する。実際、その分離は彼らがイエス様の姿をより一層似ていきながら進行される。 テトスへの手紙2:11-14は、聖化の現在と未来の様子をよく説明している。“その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。" したがって、キリストが十字架でされた一度の業は、私たちの人生の中で彼が持続的にされることの始まりだった。 しかし、何がそれを持続的にできるようにしたのだろうか。 私たちがこの世で罪に勝てるようにするどんな変化が起きたのか。 キリストの中で私たちの新しい性格 ヨハネは5節を"彼には罪がない"という言葉で終えた。イエスは罪と何のかかわりもない方だ(コリント第二5:21)。この事実は実際的に大変な波及効果がある。ヨハネは手紙の前頭に”あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。”(ヨハネ第一2:29)と話した。神の救いの能力が新たに信ずる者に与える場合、彼らは生まれ変わって、新たな性格を受ける。そしてまるで生まれたばかりの赤ん坊のように神様の国で暮らすことを学ぶ生活を始まる。 その後に使徒は6節でキリストの御業で救われた人の特徴を説明している。 “御子の內にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく知ってもいません。”キリストの内にいるのは彼の法に従って彼の勝利を記念し、彼の王国に住むのと同じことだ。簡単に言って新たになった人は罪を遠ざけてキリストと近くなる。数年前にパウロは同じ真理をローマ聖徒たちに教えた。 “わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。”(ローマ人への手紙6:4-7) この言葉は新約聖書の中心を要約したものである。(エゼキエル36:25-31)パウロは続いてさらに詳しく説明した。 “しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。”(ロム6:17-18) パウロが強調するのは聖化である。 真のキリスト教人には聖霊様がいらっしゃる(ローマ8:12-17)。 新しい心を受け、(使徒行伝16:14)、完全な許しを受けて(1:14)、そして新たな生を受けている(コロサイ3:5-10)。 このすべてのものが神様の法に従う新たな能力で証明される。 聖火と確信"罪を犯す者"(ヨハネ第一3:6)はキリストの内にいることはできない。 この言葉はキリスト人になった人は二度と罪を犯さないということではない(ヨハネ第一1:8)。しかし、彼らは彼らが生きてきた人生を再び生きることはないだろう。なぜなら"御子を見て彼を知っている人は"(3:6)習慣的に生まれ変わっていない人のように"罪を犯さない"からだ。 ヨハネはさらに、手紙の受信者に対し、聖化について正しく理解していると騙されているのではないか確認するようにと注意した。逆に偽りの教えがあるが、ただ"義を行う"者だけが"イエス様が義であるように義である"(ヨハネ第一3:7)という確信を持つことができる。 ヨハネははっきりと結論を下した. "悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。"(ヨハネ第一3:8)本当に信じる者たちが悪魔のような行動を続けることは不可能なことであり、考えられないことだ。 今、サタンは依然として神様の計画と神様の人々を対敵する(べテロ一5:8)。しかし、信じる者はもはや彼の影響の下にいるか、彼の支配の下にはいない。キリストを知り、キリストを愛する私たちは罪の束縛から自由になった。そして聖霊の感動を受けた使徒ヨハネは、「私たちはそのように生きなければならない」と話す。 これまで我々は罪のある生活様式は罪が不法であるため、救われる信仰と似合わないということを見た。そして、本当に信じる者は、その反抗的で不法な心を悔い改める心に変えたため、罪のある生活様式は救われる信仰とは似合わないということを調べてみた。今、私たちはどうやってイエス様の使役が私たちの罪を許すだけでなく、一生にかけて進行される聖化の過程を始めるということを調べた。 ヨハネは最後に罪がなぜ救われる信仰と似合わない理由を言う。そして、それは止まない御霊の使役に焦点を合わせたものである。 私たちはその最後の問題を次に調べて、このシリーズを終える。 [福音祈祷新聞] (上記の文章はジョン·マッカーサーの新約注釈:ヨハネの手紙一–三から抜粋したものです。) 出所:http://www.gty.org/blog/B140626?term=b140626 |ジョン·マッカーサー||グレイストゥコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起きるすべてのことを聖書の言葉から答えを探そうとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGracetoKorea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者ⓒ 手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

止まった今、善良な道で行う絶好のチャンス

輝く信仰(1) 一生に一度も経験できない一つの課題で、世界中のあらゆる人が一事多難な時間を過ごしている。その一つは、コロナ事態だ。 肺炎·ウイルス菌のためにパンデミックという世界的大流行が起こった。コロナ19は、巨大な世界的な障壁となって世界中を止まらせた。 立ち止まるというのは容易なことではない。生まれながら泣き出し始めた人生が最後に息を引き取るまで自ら人生を止めることは事実不可能だ。生まれた以上、まるでランニングマシーンの上に立っているように休まず走り続けなければならない。生存競争に巻き込まれたりもする。周りからただではおかなかったりもして次から次へと押し出される。立ち止まることのできない人生、人それぞれ千差万別だ。しかし、こんな人たちが同時に立ち止まる事態が起きたのだ。 主はこう言われる。“さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道かと。その道を步み、魂に安らぎを得よ。”(エレミヤ書6:16) 息をつく暇もなく世間の風潮に押されながら、ブレーキのない自転車のように止まることを知らない人生を生きてきた。どこへ行けばいいか、誰に聞く暇もなく、今どこへ来ているかを点検してみる間もなく生きてきた人生。なぜ生きるのか、このような究極的な質問は後回しにして食べなければならず、取り残されないために絶えずに猛烈な生存競争に押されて生きてきたのが私たちの人生だった。問題は、大半がそのように押しのけられ滅びてしまうということだ。 もし立ち止まって考えてたら、自分がどこへ行っているかさえ分かっていたら、続いて行かなかっただろう。自分が誰だかを知っていたら空しい事を働いたことはなかっただろう。問題は立ち止まって一番重要な質問をしてみることができなかったこと。これこそ人類全体が滅びるしかない共通のテーマだった。その時主がおっしゃる。’止まれ!′ ′あなたの人生、うまくいっていると思うけど止まれ!′不幸にも、私たちは自分の意志で止まることができなかった。 しかし、今、強制的に止められた。この一年間の特別な意味といえばすべての人が一緒に物理的に止まってしまったことだ。忙しく目標に向かって走る時は左右を見る暇もなかったが、立ち止まってみると、ようやく見えなかった状況が見えてきた。我々にとってあれほど巨大に見え、しっかりしていた世の中の実体が丸裸になったように明らかになった。 世の中の事情が、ただ順調に進む時は、まともに進んでいるようで、その世の中以外には見えるものがなかったが、世の中が止まって見ると、私たちがそんなに信じて頼った世の中というものが、いかに虚しく信じられないものであるかを目にした。 聖書がいくら話をしても闇の中で走り、世の中の享楽と贅沢と成功に狂って走り、なんと神様よりもずっと実在のように感じられた世の中だった。しかし、そんなに信じていた先進文明の医療システム、国の力、国際関係などがウイルス一つにどれだけ力なく虚しいかがすべて明らかになった。世の中の実体が見え始めたのだ。今こそ、我々が歩んできた道に立って見て、昔の道、すなわち善良な道がどこなのかを知り、そこへ進む絶好のチャンスであるのだ。 (2021年1月)<続く>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

信仰の生、困難と苦難は当然の理

  より大きい罪、より大きい御恵み(5) “あなたがたは,光に照らされた後,苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを,思い出してください。”(ヘブライ人への手紙10:32) 神様は福音の光に照らされた後、苦難の大きな戦いを耐えたことを考えるように勧められた。逃れられない罪、ユダヤ指導者たちとユダヤ人が犯した、知っていながら犯した大罪よりも恐ろしい罪を福音の黄金時代に生きる我々が今犯すことができる。私たちの古い自分に属するものを依然として残し、普遍妥当に福音を道具にして福音を知る自分として武装しているのではないか。依然として最後の余地を絶たなかった私たちの態度が、もしかしたらもっと大きな罪人であるかもしれないという事実が私たちを恐ろしくさせる。 しかし、私がより大きな罪人という事実を知り、経験すればするほど、神様の御恵みが最も大きくて永遠な福音であることを分かるようになる。私たちには臨まれない御恵を施してくださって、さらにより大きい罪人であることを知る者に与えられる神様の祝福である。これからは、もっと大きな罪人が、ただ信仰だけで見つめて捕らえるべきより大きな御恵み!我々のすべての限界と不可能を超える十字架と復活の御恵みがどれほど大きいかはより大きな罪人でなければ分からない。 より大きい罪人に与えられた十字架と復活の御恵 そして、正しく福音に従い、信頼に行ったからこそ、受ける困難と苦難は当然のことだ。福音の道である真理の狭い道を歩もうとすれば、必ず苦難の戦いが起こるしかない。 まずは自分自身との戦いだ。昔の情、昔の自分の古い習慣が揺れ続けて誘惑する。自分だけを追求していた普通な人生が、今は主の信仰の旅路に従って歩こうとする時に抵抗を受けるようになる。魚一匹さえも波に逆るとすればあらゆる波に抵抗しなければならないように、世の中は私に対して決して友好的ではないのだ。イエスに従って真理に従う私たちに対して世間は私たちの味方ではない。神様はその光を受けた後、苦難の大きな戦いに耐える私たちに愚かではないと言われる。途方もない福音を受けて知っていながら、福音にそっぽを向いたまま無視して裏切れば、これより大きな罪があるはずがない。これよりもっと恐ろしい人生はどこにあるだろうか。 世の中は私に対して絶対友好的ではない 将来滅びるこの世界、我々の目に華やかで大きくて強く見えるすべてのものの中で、永遠なものは何もない。天下を覆しそうだった英雄たちも、その命を少しも延長することができなくて正確に死んで埋められた。誰もこの地に留まる者はいないし、一瞬も立ち止める時間もない。必ず通り過ぎる。時間はより早く私たちの人生の残り道を急ぐだろう。私たちが去ってきたのは将来滅びる’長滅城’だ。再び戻る道はないし残った道を最後まで進まなければならない。信仰で歩くこの道は、触って感じて感覚する道ではなく、ただ信仰で永遠の天国、永遠の神様の国に向かって進む道であることを記憶しなければならないのだ。 (2018年5月)<継続>[福音祈祷新聞] キム·ヨンイの宣教師。(巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 : 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

恐れないで信じることだけせよ

福音になったイエス·キリスト(4) 恐ろしい状況、絶望的な現実を目の前にした時は何を信じればよいのだろう。真理の約束を信じなければならない。 私たちには神様が約束してくれた約束がある。神様はおっしゃる。ヨハネ福音書11章25節~26節に“イエス は 言われた。わたしは 復活であり, 命である。わたしを 信じる 者は、死んでも 生きる。生きていてわたしを 信じる 者はだれも, 決して 死ぬことはない。このことを 信じるか。”と言われた。 この復活の望みがあるのか?私たちが復活することを信じるのか?我々からいくら可能性を探ってみても、我々は不可能だ。 私たちから出るものではない。 しかし、この復活の生命を持っている神様が私たちに復活の生命で生かせる。 “ヤコブ よ、あなたを 創造された 主は、イスラエル よ、 あなたを 造られた主は、今,こう 言われる。恐れるな, わたしはあなたを 贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの 名を 呼ぶ。”(イザヤ書43:1) 神様は東西南北、あちこちに散らばった自分の民を必ず地の果てから見つけ出し、神様のもとに戻らせる。どんなに深い所に落ちていてもそこから引き揚げ、神の名のために創造した者を来させる。 神様は御自分のものを絶対奪われない。 すべての闇が世の中を覆っているようだ。しかし夜が更ければ更けるほど夜明けが近づいてくるもの。世の中の情事と権勢と悪い勢力が神の教会を踏みにじり、敵対し、あちこちに暴れ回り、世界中を牛耳っているように大騒ぎをしているけど、決して終わりではない。聖書はこう述べている。“水が 海を 覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる。(ハバクク2:14)神様が誓約して宣布された言葉は、一点一画も落とさず必ず成就される。 神の国は、目に見えるどの敵の勢力よりも力強く今も前進している。神様の約束を取ってその約束を信じろ。状況に振り回されず、目の前にあることで判断するな。私たちの状況が、数値や統計が私たちを落胆させる。枯れた骨のように見える。しかし、私たちは敢えてむやみに言ってはならない。神様はむしろその時を恐れず、信じろとおっしゃる。原因分析はもうやめよう。ただ神様を愛して真理の道を選びなさい。神様のみを追いかけてきてすべて滅びたような時に覚えておけ。恐れずに信じることだけせよ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師·LOGミッション代表)

信仰の根拠は私たちの可能性ではなく神様にある。

福音であるイエス·キリスト(3) 問題をあまり近くから見ると,ほかのことが見えない。しかし,問題から少し離れてから見ると,見るべきものが見えてくる。 いざという時になると何も考えられず絶望に打ちのめされる。行き詰ってるように感じられ、問題や絶望が大きく見えると神様は極めて小さく見える。 しかし、問題から少し離れてみると、偉大な神様が見えることになる。 恐れずに信じさえせよ。 信仰で主の御前で応答を受けて従順したけど絶望が訪れたその時、主は恐れずに信じろと言われる。′それでは何を信じますか? 誰を信じればいいですか?′と、このような質問をする私たちに、主は死者を生かして、ないものをあるかのように呼び出す主を記憶して信じろと言われる。私たちの目の前で広げられる死は終わりのように見える。しかし、神様に死は終わりではない。主は復活された。福音の中心にはこの十字架の死と復活がある。十字架は私たちの凄絶な絶望を語る。永遠に審判を受け終わりにしなければならない私の昔の人の死だ。私はイエスと共に死んだ。 しかし、これが終わりではない。主は死に勝って復活された。そして、主は私としては不可能であり、できないことを瞬間ごとに確認させる。 罪人である私たちの本性は神様なしで自分が主人になって生きることに慣れている. その時、主は十字架をまっすぐに見ろと言われる。主と私が一緒に死んだ十字架を見たら私たちとしてはできないけどイマヌエルで居られる神様が成し遂げられるのを経験することになる。 會堂長ヤイロと共に旅に出た主は、始めだけを共にして、後は自分でやれとおっしゃる方ではない。 主が共に進み出た道は、始まりが主であれば終わりも主である。 だから、主が終わりでないと言うなら、我々が終わりだと結論を下してはならない。 主が終わりといわれれば終わりだ。 死の絶望が訪れても怖がらずに主を信じろと言われる。 私たちはこの時、死者を生かし、ないものをあるかのように創造する主を信じる信仰が必要だ。この信仰は、恐れずに信じろという御言葉の答えである。 神様はアブラハムの信仰について彼が彼は 希望するすべもなかったときに, なおも 望みを 抱いて, 信じたと述べている(ロ―マ人への手紙4:18)。子孫を与えるという約束をされたけど、アブラハムが90才で、サラは月のものがとうになくなっていた。アブラハムは自分が子供を生むことができないことを確認しても,信仰が薄れなかったと言われる。しかし、アブラハムの信仰は揺れた。ただ神様が約束を成就するまで支えてくれただけだ。 したがって、信仰の根拠は我々の可能性にあるのではなく、呼ばれた神様にある。このため、私たちの信仰は揺らぐ必要が全くない。私が私になったのが神様の恵みのためである。私を創造された方も、お呼びになった方も神様である。私の走れる道を全うするように主の恵みでその道を行くようにしてくださるのだ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞]