私に向けられた愛が主に向けられる
愛すればその相手を見たくて会いたくなる。会うためにかかる代価が疲れもせず、惜しくも感じないのは、愛というエネルギーのためである。生まれ変わった後、自分自身を神様に捧げたならば、今度は愛すべき対象が私ではなく主になる。私を愛していたエネルギーが主に向けられるのである。 コリント人への手紙第一16章22節には「もし誰でも主を愛していないなら、その者は呪われるべきである。主よ、来てください」と書かれている。主を愛していないならば、必ず自己愛と世の愛に陥り、罪を愛して滅びるということである。しかし、イエスの命によって変化を経験したならば、私たちは真理以外のものを愛さなくなる。真理の中で真の自由を味わい、真理の中を歩むこと、これが私たちの魂の本性と一致する。こうして私たちの中に完全な存在の変化が起こり、私たちの価値観が変わる。この価値観の変化は地に属していた基準が天の基準に変わり、私中心の視点がイエス中心の視点に変わり、不義と偽りを好んでいた人が真理と共に喜び、自分の利益だけを求めていた者が他人の利益を求める者に変わるのである。どのような価値観を持っているかによって、私たちが喜ぶことや悲しむことは異なってくる。生きた命の信仰が私たちの価値観まで変えるとき、生きた信仰と生きた希望と生きた愛が、信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐が、私たちの人生を疲れさせることなく導いていくのである。 福音が私たちと教会をこのように新しくすることができる。福音に出会い、生まれ変わった命により、人生の主が「私」から「主」に変わるならば、その人は愛する対象が変わり、真理を愛する人になる。したがって信仰と信仰告白をしながらも、人生が全く従わない人は価値観が変わっていない。価値観が変わらないまま役職だけが上がり、神学の知識だけが積まれると、怪物のような教会員になるのである。 C.T.スタッドの告白のように「もしイエス・キリストが本当に生きておられる神であり、彼が私たちのような罪人のために死なれたのが事実ならば、私たちが彼のために捧げるどのような犠牲も決して大きいとは言えない。」当然のことである。このような私を救おうとご自分の唯一の御子を捧げてくださった神様の愛を、人の知恵でどう理解できるだろうか。人間の力で受け入れられるものではない。この言葉を正しく理解したならば、私たちの人生がひっくり返らないのが不思議なことである。神が私のような罪人を愛し、愛し、救う他の道がなかったので私のために十字架で死なれたという言葉ほど感動的なストーリーがどこにあるだろうか。 これがまさにキリスト教が語る福音である。その中心には十字架のその驚くべき愛がある。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことにより、神が私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのである」(ローマ5:8) アーメン。(2018年9月) <続く> [福音祈り新聞] 金容儀(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈り新聞。出典を記載して使用してください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
重い人生の荷があなたを縛っていますか?
人々は誰しも重い荷を背負って生きています。みんな辛くて、その荷を下ろしたいと思っています。それで財閥も、人気のある芸能人も、人々に認められていたどんな人も自殺するのです。重い荷を背負って生きることは、それでも大丈夫です。 すべての人間は罪に縛られて生きています。一人きりの淫らさ、嘘、貪欲、怒り、偽善。縛られた罪は言うのも恥ずかしいものです。誰に自分の罪状を明かせるでしょうか?だから隠し、取り繕い、縛られたままで生きているのです。縛られた状態から解放されたいと思って良い行いをしてみたり、自分だけではないと弁解したり、それでも自分はまだマシだと主張したりするのです。 誰かがあなたの荷を代わりに背負ってくれるなら、そして縛られた罪から解放して自由をくれるなら、あなたはまさに天国のような生活を送ることになるでしょう。でも、誰がその荷を代わりに背負ってくれるでしょうか?誰が縛られた罪からあなたを救ってくれるでしょうか?自分の罪すらどうすることもできない人間が、どうして他人の罪を背負えるでしょうか? 神様だけがそれをすることができ、すでに御子イエスを通して成し遂げてくださいました。イエス様に近づけば、重い荷を背負う人々を休ませ、罪から解放してくださいます。重い荷と縛られた罪のために受けなければならないすべての苦しみをイエス様が十字架で既に受けてくださいました。死をもってその代価を払われました。 もうこれ以上ためらわないでください。そのイエス様のもとにただ近づいてください。重い荷を下ろし、縛られた罪から解放されて天国を生きることができるのです。[福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供および問い合わせ: gpnews@kakao.com
今日は悔い改める時
神様はご自身の喜ばれる御心に従って、あなたに悔い改めを強く促しておられる。まだキリストを受け入れていない魂が毎朝目を覚まし、まだ地獄に落ちていないことに気付くとき、東の空から昇る輝かしい太陽が「私は昨日もあなたに光を照らし、今日も照らしているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが一日三度食事をするたびに、その食べ物が「私たちがあなたの肉体を支えているのは、あなたに悔い改めの時間を与えるためである」と語っているのではないか?あなたが聖書を開くたびに、神の御言葉が「私はあなたが悔い改めることを促している」と語っているのではないか?命と死、天国と地獄があなたに悔い改めを促しているのではないか?このように神はあなたに悔い改めの時間を与えるだけでなく、その手を差し伸べ、悔い改めへと親しく導いてくださる、慈愛と憐れみの神である。 『主に服従せよ』(C.H.スポルジョン)より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
あなたは神様の特別な作品です。あなたは特別です。
まったく同意できませんか? 他の人は見た目が良くて、才能も多く、勉強もできて、運動も上手で、歌も上手く歌えるように思えませんか? それに比べて自分は何一つ得意なことがないと感じますか? そのため、時には憂鬱になり、人と一緒にいるよりも一人でいる方が楽だと感じることはありませんか? いいえ、そんなことはありません。 なぜなら、あなたは神様の特別な愛によって生まれた存在だからです。「神様の愛で創られたのに、どうしてこんなに優れたところがないんだ」と文句を言うかもしれません。しかし、「優れている」「劣っている」というのは人間が作った基準です。神様は劣った人を作ったことはありません。神様はご自身の形に従って、全ての人を大切で特別な存在として創られました。私たちは、それぞれが異なる神様の作品に過ぎないのです。 しかし、この世の価値観で見ると、常に優劣があり、それによって幸福や不幸が決まるかのように見えます。本当にそうでしょうか? 本当に全ての優位を手に入れれば幸せになれるでしょうか? そのように考える全ての人間は、不幸な人生を送るしかありません。だからこそ、人間は生まれた瞬間から不幸になるのです。 生まれた時から他人と比較し、優位に立ちたいと願って不幸になった人間が、幸せになる唯一の道があります。それは、あなたを特別に創られた神様に出会うことです。あなたに向けられた神様の愛を深く知れば知るほど、あなたは幸せになります。神様は、この世の価値観でより良い「自分」を作り上げようとする、あなたの涙ぐましい努力と全ての罪を清め、神様が創られた本来の姿に回復させることができるのです。 そのために、神様は一人しかいない御子イエスに、あなたの罪を負わせました。御子イエスは十字架で死に、復活されたイエスは、あなたがイエスを受け入れる時、聖霊として共にいて、常にあなたが神様の特別な存在であることを教えてくれます。驚くべき神様の愛を経験したあなたは、もはや取るに足らない存在ではありません。あなたは特別です。これが、あなたを創られた神様の思いです。 【福音祈祷新聞】 <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> お問い合わせ: gpnews@kakao.com
十字架を通過したのか?
神の約束と誓い (8) 「それとも、キリスト・イエスと一つにされてバプテスマを受けた私たちが、彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことを知らないのか。ですから、私たちは彼の死と一つにされてバプテスマを受けたことにより、彼と共に葬られたのである。これは、父の栄光によってキリストが死者の中から生かされたように、私たちも新しい命の中を歩むためである」(ローマ 6:3~4) 私たちが信仰によって主の死と復活に結び合わされると、この驚くべき救いを受けることができるのだ。しかし、この真理を私たちの理性で理解するのは難しいのである。 神に関する聖書の真理への渇望は、私たちの本性から出るものではない。聖霊が行う最も重要な働きは、私たちの心の中に渇望、すなわち渇きを与えることである。それは聖霊が望みを持って行うものなのだ。 「あなたがたのうちに働きかけるのは神であって、神はご自分の喜ばれることのために、あなたがたに望みを持って行わせてくださるのである」(ピリピ 2:13) 主を慕い、渇望する心が生じたのは私の能力ではない。私から出る心はすべて汚れていて、滅びるべき事柄であり、愚かなことばかりなのである。だから、傲慢になる理由はないのだ。ヨハネの福音書16章8節に、助け主なる聖霊が罪に対して、義に対して、裁きに対して世を責めるとある。聖霊はイエス・キリストの福音を通して私たちを新しく生まれさせるように導くのである。 だから主は、ヨハネの福音書5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を得て、裁きに至ることはなく、死から命に移るのである」と言われたのである。続いて25節では「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。死んだ者たちが神の子の声を聞く時が来るのである。今やその時である。聞く者は生きるのである」と言われたのだ。霊が死んで、どうしても神の言葉を理解できない者たちに、主が神の子イエス・キリストの十字架復活の福音を聞かせる時が来るのであるが、それはまさに今なのである。 証人を通して話すとき、聖霊がその福音の内容で私たちの魂を感動させ、良心を揺さぶり、信仰が生まれるようにしてくださる。だからこそ、その福音の真理が私の中に受け入れられる時、私がどれほど望みのない存在であるかを悟り、福音の前に立ち、どうやって十字架を通過するのかを知るのである。通過した者は知っている。自分が語ったことと通過したことにどんな違いがあるかを、実際に信仰によってぶつかった者は知っている。だから、以前の状態に戻ることはできないのだ。救われたという言葉は、私の古い人がイエスと共に死んで、今や新しい命であるイエス・キリストが私の中に生きておられるということである。 「彼が死んだのは罪に対して一度だけ死んだのであり、彼が生きているのは神に対して生きているのである。同様に、あなたがたも自分を罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に対して生きている者と見なすべきである」(ローマ 6:10~11) 私たちは信仰によって主と共にバプテスマを受け、一緒に死に、一緒に葬られたのだ。そして、彼をすべてとして受け入れ、新しい命の中で生きるようになったというこの永遠不変の真理を、聖霊が信じさせてくださるので、今その信仰によって生きるのである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 神の国が手の中に、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及びお問い合わせ: gpnews@kakao.com
イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活!
神の約束と誓い (7) 「しかし、時が来たので、神はその御子を送り、女から生まれ、律法の下に生まれさせました。それは律法の下にある者たちを贖い出し、私たちが子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4:4-5) 呪われるしかない私たちを、神がそのまま赦すためには、聖さを放棄しなければならない。しかし、神は公義を放棄されない。罪に対する裁きは、そのまますべて果たされなければならない。このように罪に対する裁きは行われるが、その罪と共にある私を生かしてこそ、救いが成し遂げられるのである。「罪がすなわち私であり、私がすなわち罪」であるから、私にある罪を完全に裁かなければ、罪が終わりを迎え、私が生きることができるのである。しかし、罪を裁くと私が死んでしまうし、私を生かすと裁きを行うことができないというこのジレンマを、主は解決しなければならなかったのである。 これに対して神は、私たちが想像もできない代贖という方法を用いられた。代贖とは、誰かが私が負った借金を代わりに返済し、その者が返済したすべてを私が返済したものとして認められるという意味である。これを信じるだけで、その信仰を義と認めてくださる方法によって、神も義であり、私たちも義とされる代贖の義を、主は準備されたのである。 「すべての人は罪を犯して神の栄光に達することができず、キリスト・イエスにある贖いにより、神の恵みによって、ただで義と認められる者とされた。このイエスを神はその血によって信仰を通じて和解の供え物として立てられた。それは神が長く忍耐されて、以前の罪を見逃されたことでご自分の義を示すためであった。それはすなわち、この時にご自分の義を示して、ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とするためである」(ローマ3:23-26) 神も義であり、イエスを信じる私たちも堂々とするための道を備えるために、私のすべての罪の代価を主が裁きによってすべて終わらせ、その後に一つの要素だけを残しておいたのである。 それはまさに、誰かが私の名と私の資格で返済してくれたその功労を信仰によって完全に受け入れ、その者に起こったことを自分に起こったこととして受け入れることである。すなわち、イエス様が私の罪の代価として死に、裁きを受けられた時、私の名において私自身となって死なれたので、その方が死んだ時、変わらない私も共に死んだことを信仰によって受け入れることである。 初めに主は言葉で創造された。しかし、私たちを救う時、神の父がただ一つの御子をこの地に人として送り、女から生まれさせ、律法の呪いを代わりに受けさせ、子であるイエス様が十字架で死に、復活することで、律法の義をすべて成し遂げられたのである。 神は私にある罪を裁いて罪に対する問題を終わらせ、私を生かして義とされたのである。このようにして私の義を得るために、私が直接行ったことは何もない。その代わりに、イエス・キリストが成し遂げられたそのことが私にも成し遂げられたことを信じ、信仰によって参加しなければならないのである。イエスの死は私の死、イエスの復活は私の復活。今や罪がもはや主人の役割を果たすことはできず、律法が私を罪に定めることもできない。キリストだけが私の中で主人となって生きられることにより、神を愛し、真理に従い、天に属する生活を送ることができるのである。この驚くべき福音を主が準備してくださり、私たちを招待しておられるのを、ただ信じなさいというのである。ハレルヤ。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] 金容義 (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
十字架の福音以外には生まれ変わる道はない
神の約束と誓い (6) ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエスに質問する場面が出てくる。 「ニコデモが答えて言った、『どうしてそのようなことがありえましょうか。』」(ヨハネ3:9) イエスは、水と霊によって生まれなければ、つまり天から生まれなければ神の国を見ることはできないと言われた。律法に精通し、パリサイ派の指導者であったニコデモでさえ、この事実を理解していなかった。 どうすれば自分が新しくなれるのか?どうすれば自分の本性を変えることができるのか?罪に引きずられる罪の奴隷ではなく、真理の中で自由な者となり、神の聖なる恵みの言葉が自分の内にそのまま現実となる存在に変わることがどうすれば可能なのか?主が「あなたにとっては不可能だ」とおっしゃるなら、まず主にすがって「主よ、どうすれば救われるのか?どうすれば自由になれるのか?どうすればこの死の体から解放されるのか?どうすれば神が喜ばれる人生を送れるのか?」と問うべきではないだろうか? こうした渇きが生じたのはいつのことか?癌にかかって絶望的な運命に直面している人は、他の何にも関心を持つことができない。成功も、願いを成就することも関心がない。ただどうにかして生きたいという思いだけである。 生まれ変わっていなければ、救われていなければ地獄である。この事実に切迫感を持って対峙したとき、イエスは言われる。「私を通してでなければ、父のもとに来る救いの道はない」。聖書はこれを繰り返し語っているが、これをいつ考えたことがあるだろうか?「イエスを私の救い主として受け入れる」という言葉には計り知れない意味がある。ニコデモも悩みはしたが、答えを得る道がなかったため、イエスのもとに密かに訪れたのである。 教会がなぜ変わらないのか?最初に誕生したエルサレム教会は、福音に最も敵対的な環境の中で十字架を叫んだ。50日前、つまりペンテコステの前にイエスを十字架にかけたピラトとその権力がまだ生きていたのに、彼らは十字架にかけられたイエスこそがメシアであり、「あなたがた」がそのメシアを殺したと言った。彼らはイエスに出会い、その福音を叫んで喜んで死んだ。これが福音の永遠の命を持つ初代教会の姿であった。 永遠の命が現実ならば、なぜ今私たちは恐れているのか?今夜死んでも天国に行けるのに、何をそんなに惜しんでいるのか?永遠の命が現実となったことがないので、力が現れず、罪に押しつぶされて座っているのである。詐欺師のような者たちがキリスト教の名を使って人々を欺き、常に真理を学ぼうとして追いかけているが、自分の欲望を追う教師を追いかけているため、信仰と生活が別々の怪物のような信者が出てくるのである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21) 木はその実を見てわかるように、イエスを主とし、先生と告白したならば、イエスの命の実が現れるだろう。なぜ十字架の福音が真の神の力であり知恵なのか?この道以外に生まれ変わる道はないからである。(2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載して使用してください。> 提供及び問い合わせ: gpnews@kakao.com
神様はあなたを存じております。
誰もが良い知らせ、すなわち福音を聞きたいと望んでいます。このように福音を渇望する魂のために、さまざまな信仰の告白を集めました。カラシ種宣教会が制作した伝道紙の内容から抜粋して紹介します。<編集者> あなたは神を知らなくても、神はあなたを知っています。神は子供を失った親のように、あなたを切実に探しています。イエスを通して救われるということは、神の愛の中に入ることを意味します。 昔、あるロシアの貴族の馬車が走っていました。その後ろを飢えたオオカミたちが恐ろしい勢いで追いかけていました。御者は馬車を引く4頭の馬のうち2頭を放し、オオカミの餌にして追い払おうとしました。しかし、再びオオカミたちは追いかけてきました。そこで御者は手綱を貴族の主人に託し、銃を手に馬車から飛び降りました。 貴族は全力で馬車を駆り、村に到着し、救助隊と共に来た道を戻りました。しかし見つかったのは、御者のわずかな骨だけでした。御者は愛する主人を救うために、自らの命を犠牲にしました。本当に主人への使用人の愛は感動的です。 しかし、この話の中で、もし御者を救うために自らオオカミの餌になることを選んだ主人がいたらどうでしょうか? その主人の愛はまさに身分を超えた偉大な愛でしょう。それがイエスの愛です。彼はすでに私たちの代わりに死んで救いを完成させました。その愛を信じるだけで救われるのです。 人が地獄に行く理由は罪のためです。正しい言葉です。しかし、さらに適切な言葉は、神が独り子イエスを代わりに死なせてまで私たちを救ったその愛の中に入らないからこそ、罪人である人間が地獄に行くのです。 親の声を聞いてもなお隠れ続ける子供を、どうやって再び子供として回復させることができるでしょうか?あなたはそのような神の声を聞かなかったと弁解することはできません。今この文章を通して、あなたを切実に探している神の声を聞いているのです。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手のひらの神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を明記してご使用ください。> 情報提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
「神様は本当に生きておられるのか?」
誰でも喜ばしい知らせを聞きたいものです。何が喜ばしい知らせ、つまり福音でしょうか。渇いた魂のために、様々な信仰の告白を集めて紹介します。この内容はゴマ粒宣教会が制作した伝道資料から抜粋したものです。 <編集者> 世の中の人々は「神様は存在しない」と思っていることを真実のように思っています。「神様なんて存在しない。科学的に証明できない。それは常識だ。」と主張します。しかし、そうではありません。「神様がいない」という言葉は最も大きな嘘です。神様は生きておられます。 なぜ世の中の人々は「神様がいない」と言うのでしょうか?それは神様に会ったことがないからです。では、なぜ世の中の人々は神様に会えないのでしょうか?それは神様が霊だからです。人は肉体と霊から成り立っており、人が神様を離れ罪を犯したために霊が死んでいるので、聖なる神様を経験することができないのです。罪のために神様を経験することができないので「会わせてくれ、見せてくれ、そうすれば信じる」と言います。しかし、神様に会った人がいます。 その人がまさに私です。私も神様に先に会った人から神様について聞きました。神様は宇宙万物の創造主であり、罪のために地獄に行くことになった私を愛し、一人子のイエス様を私の代わりに死なせました。私はこの愛を信じることによって、十字架で私の罪深い古い自我が死に、再び生まれたイエス様が私の命となり、イエスの命によって私の人生を生きています。私に永遠の命をくださいました。天国をくださいました。 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、すべての人がアメリカ大陸に行ってみて初めて「アメリカがあるんだ!」と言ったでしょうか?いいえ、アメリカ大陸に行ったコロンブスの言葉を信じて「アメリカがあるんだ」と思うのです。行った人がいれば、私が行かなくても確かにあるのです。存在するのです。神様に会った人、まさに私がその神様を紹介します。神様は生きておられます。イエス様を信じてください。そうすれば永遠の命を得て、イエス様を主として迎える美しく新しい人生が始まります。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。出典を記載してご使用ください。> 提供およびお問い合わせ: gpnews@kakao.com
生まれ変わる唯一の道、イエス・キリストの十字架!
神の約束と誓い (5) この言葉に注目しよう。 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探すが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かに見えるが、召された者たちには、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力であり、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのである。」(コリント人への第一の手紙 1:22-25) その神の力と知恵がどのように現れたのか。それは、人々が軽蔑するイエス・キリストと彼の十字架の福音によるものである。この十字架の福音こそが神の力であり、神の知恵である。最も希望のない人生が丸ごと変わり、変わった彼らを通して世界が変わること。このことが神の完全な知恵と力である十字架と復活の福音によって可能になるのである。 これは誰にでもわかる秘密ではない。十字架の福音は、伝統に慣れ親しんだユダヤ人には愚かに見え、世のことに精通した異邦人には無駄に見える。このように十字架の福音がどれほどみすぼらしく無知に見えたとしても、それを信じると言う教会でさえこれを無視している。しかし、使徒の中の使徒であり、優れた神学者であり、神の前に力強く用いられた使徒パウロは言う。 「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものはない。キリストによって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのである。」(ガラテヤ人への手紙 6:14) 教会の中には、華やかな神学知識や体験、力、組織など多くの必要があるが、なぜ主は愚かに見える十字架を福音の中心に置かれたのか。なぜこの無駄に見える十字架が神の知恵と力だと言われたのか。それは神が歴史を変えようとするとき、結局は人を変えなければならず、人を変えようとするとその人の中心である心を変えなければならないからである。罪によって汚染された人間が本質的に神に反逆する心から本来の神の形に戻ることは天地開闢よりも難しいことである。唯一、神の知恵とその力である十字架の福音によってそのことが可能になる。 救いと生まれ変わり。主は言われた。『多くの訓練と努力をしても生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない。』生まれ変わらずに人間が存在的に変わることは不可能である。 人間は努力によって少しは改善されることがある。酒やタバコを楽しんでいた人が突然やめたり、悪口を言っていた人が優しく話したり、詐欺で他人を困らせていた人が慈善事業をすることもある。しかし、その人が罪人であるという点では一歩も逃れることはできない。 神の国は改良された罪人が行ける場所ではなく、生まれ変わった生命でなければ入ることはできない。再び生まれなければならないと言うほど、生命の存在そのものが変わらなければその場所に行くことはできない。どうやって何によって生まれ変わるのか。我々を生まれ変わらせる唯一の道はイエス・キリストの十字架にある。(2018年9月)<続く> [福音祈祷新聞] キム・ヨンウィ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com
福音は私たちの中で実際にならなければなりません。
この世には二種類の不幸者(不幸者)があります。第一の不幸者は福音を一度も聞いたことがない人です。彼らを‘不信者’と呼びます。不信者の人生はそれ自体が迷いです。 第二の不幸者は福音を聞いたにもかかわらず、福音を誤解するか、聞いた福音が自分にとって実際になっていない人です。彼らは信仰生活をする‘信者’ですが、信仰の混乱を経験します。彼らには福音が実際にならない理由を調べ、聞いた福音が実際になるように助けなければなりません。 実際(実際)とは、『事実の状況や事情』という意味で、ある『事実』に焦点を当てる時に使う言葉です。つまり、福音が実際になるとは、福音の事実がそのまま自分に現れることを言います。 私たちは神が創世前に準備された福音、救いの性質、救い主の資格、救いの方法をすべて聞きました。完全な福音を今や私たちの生活の中で実際に享受しなければなりません。 渇きを解決する実際 渇いている一人の人がいます。誰かが彼に清潔な生水を持ってきました。彼に届けられた生水はそれ自体で実際です。しかし、渇いているこの人にとってはまだ実際ではありません。 なぜなら彼がその生水を飲んでいないからです。意外にも多くの人々が生水の瓶を持ったり握ったままで渇いていると言います。渇きを解決する生水を手に握ったままで依然として渇いているということです。生水の瓶を持って飲む時に初めてその生水は彼にとって実際になります。 福音は実際です。福音を与えてくださった主はその福音が私たちにとって実際になることを望んでおられます。では、福音がなぜ私たちに実際にならないのでしょうか?その理由を聖書は次のように言います。 「その人々と同じように、私たちも福音を聞かされましたが、その言葉が彼らに役立たなかったのは、聞いた者が信仰と結びつけなかったからです(ヘブライ人への手紙4:2)」 福音はただ信仰によってのみ実際に経験し享受することができます。[GNPNEWS]
十字架、‘罪の報酬である死の代価’を支払ったものです。
神はイエス・キリストの十字架を通して完全な救いを成し遂げられました。今や私たちは主がすでに完成された救い、この福音に何も付け加える必要はありません。神ご自身がすべてを成し遂げられました。 「イエスは酸いぶどう酒を受けられた後、『すべては終わった(完了した)』と言われ、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネの福音書19:30)」 イエスが十字架で死なれたとき、「すべては終わった(テテレスタイ)」と叫ばれた言葉は、文字通り「私はすべての代価を支払い、計算を終えた」という意味です。 人が支払わなければならない罪の代価をすべて支払われたのです。罪の報酬は死です。その死の代価を主がすべて支払われたのです。 十字架でサタンが持っていた死の権勢は打ち砕かれ、無力化されました。イエスが十字架で裁きを受けられたことにより、私たちの裁きは終わりました。イエスが犠牲となって死なれたことにより、存在的罪人である私たちがイエスとともに死んだのです。イエスは死に打ち勝って復活されました。 「イエスは言われた、『私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます。また、生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがありません。これを信じますか?(ヨハネの福音書11:25-26)』」 十字架でイエスは全世界に向けて叫ばれました。「すべては終わった」と。死の権勢は終わりました。十字架によって勝利しました。イエスは十字架によって神の救いをすべて成し遂げられました。完全な救いです。唯一の救いの方法はイエスの十字架です。他の道はありません。 「イエスは言われた、『私は道であり真理であり命です。私を通してでなければ、誰も父のみもとに来ることはできません(ヨハネの福音書14:6)』」 イエスの十字架はあなたにどのような関係がありますか? 「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です(コリントの信徒への第二の手紙6:2)」[GNPNEWS]
「救いのためにあなたができることはありません」
救いとは何ですか? 救い(救援)は漢字で「救う」(助ける、救う、援助する)と「援」(引く、取る、掴む)で構成されています。 救いの意味は、困難や危険に陥った人を救うこと、人類を死と苦しみと罪悪から救うことなどです。また、何かから救出され解放されること、罪から自由になることをも意味します。 このように、救いは自らを救うことではありません。救いには明確な主体があり、その主体がどこからかどこかへと救い出すのです。 つまり、救いは自分の意志ではなく、他者の意志によって成し遂げられます。 救う主体がいて初めて救われることが可能です。あなたに救いが必要であることは非常に明白ですが、救われるためにあなたができることはありません。 救いは神の約束です。 神は人に救いを約束されました。救いに関する神の計画は必要に応じて突然生じたものではありません。神の心の中にある意志に従ってその救いは準備されていました。 その約束は、キリスト(救い主)を通して私たちを罪と死から救うということです。誠実な神はその約束を守られました。ご自身の子を十字架につけて罪に陥った人類を救われました。 神がすでに成し遂げた救いを受け入れませんか? [GPNEWS]
「罪を犯す人は『悪魔』に属しています」
罪には形がありません。しかし、罪を見ればサタンを知ることができます。サタンの実体は正確に罪を通して現れます。 サタンは罪を道具にして神に反逆します。それゆえ、サタンに属する者は罪を犯さずにはいられず、罪を犯す者はすべてサタンに属しているのです。 「罪を犯す者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一 3:8a)」 あなたは誰に属していますか? 小さな湖に一匹の魚が悠々と泳いでいました。突然、美味しそうに見えるミミズがその魚の目の前でうごめきながら現れました。魚は冷静に何度も周囲を確認し、何も異常がないことを確認した後、ミミズを一口で飲み込みました。その時、突然強い引っ張る力が魚のえらを通じて感じられました。 見えなかった釣り針が魚をがっちりと捕えました。魚は全力で逃げ出そうとしましたが、強い釣り針は既にえらを貫いていました。もがけばもがくほど、釣り針はえらに深く食い込むばかりでした。 その釣り針は見えない糸に繋がっており、その糸の先には釣り竿があり、それは黒く煤けた釣り人の力強い手に握られていました。水中で自由に泳いでいた魚がミミズを飲み込んだ瞬間、その魚は釣り人の手中に入ったのです。 魚は悔しがりながら大声で叫びました。「私はミミズを食べただけなのに、どうしてこんなことをされるのか。私は釣り人と関係ない!」しかし、餌を食べた瞬間、その魚は釣り人に属するものとなったのです。このように、罪を犯す者は罪の元凶であるサタンに属するのです。 「罪を犯す者はすべて、不法を行っています。罪は不法です。彼が私たちの罪を取り除くために現れたことをあなたがたは知っています。彼には罪がありません。(ヨハネの手紙第一 3:4-5)」 「神の子が現れたのは、悪魔の仕業を滅ぼすためです。(ヨハネの手紙第一 3:8b)」[GPNEWS]
生まれ変わった人は世に打ち勝つ
「神から生まれた者は皆、世に打ち勝つ」(ヨハネの手紙一 5:4) 生まれ変わった人は世の人々の見解を正しいかどうかの基準としない。生まれ変わった人はもはや世の方法や流行、観念、習慣に従わない。彼はもはや「人々がどう言うか?」に関心を持たない。生まれ変わった人の目には、世の人々の生活が虚しく、価値がなく、無益に感じられる。また、生まれ変わった人は世を恐れない。彼は世の人々から非難を受けても気にせず、嘲笑されても諦めず、人々よりも神に褒められることを好む。生まれ変わった人は人々の気分を害することよりも、神の怒りを招くことを恐れる。生まれ変わった人は見えない神だけを見つめ、どこへ行ってもその方に従うことを決意する。生まれ変わった人は神を喜ばせることを第一の目標とする。あなたは本当に生まれ変わった人ですか?[福音祈祷新聞] 『生まれ変わったか』(J. C. ライル)より抜粋
イエスに命を見出すと福音の力が現れる
神の約束と誓い (4) 「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁きに至らず、死から命へと移っているのです。」(ヨハネ 5:24) 信仰を通して私たちの霊の機能が生き返るが、その信仰はどこから生まれるのだろうか。哲学や宗教、人間の知識ではなく、真理の福音を聞くときに死んでいた魂が生き返り、主を見ることができる。 「心の目を開いてくださり、神の召しの望みが何であるか、聖徒の中で神の所有の栄光の豊かさが何であるかを知ることができますように。」(エフェソ 1:18) 教会が神の召しではなく、消費者中心、つまり教会員の罪深い欲求に急いで従うと、絶対的な神の召しから遠ざかることがある。中世に堕落したカトリック教会は、十字架の救いの真理を覆い隠し、行いによって救われると言い、多くの献金を集め、莫大な権力を享受した。これが教会の堕落であり、中世の暗黒時代を生んだ教会の悲劇だった。 改革を行ったとされる私たちの教会も油断すると召しを見失うことがある。しかし、この福音の召しの望みが何であり、聖徒の中でその所有の栄光がどれほど豊かであるかを悟ると、偽物に心を奪われていた私たちの心が目覚め、立ち返ることができる。神の永遠の愛に感動した人は、人間のつまらない愛を求めて追いかける卑劣な行いをしない。 「私たちの目を開き、召しの望みを見せてください。私たちの所有の栄光の豊かさ、福音の栄光と力、その祝福を私たちに啓示し、私たちの霊を天の香りで満たしてください。騙されて汚れた臭いのする世の中を探し回ることなく、天の香りで私たちを満たし、神のその完全な愛で私たちの魂を満たしてください。そして、主のその力の働きに従い、信じる私たちに与えられる福音の力と祝福が何であるかを悟らせてください。」このような祈りが私たちに必要だ。 全ての世の万物を統治し支配される万王の王、万主の主であるイエス・キリスト。復活し昇天されてその栄光を回復されたイエスの十字架の死と共に連なった教会は、その体であり、万物の中で万物を満たす方の満ち満ちた存在である。アーメン。 教会が貧しく見栄えがしなくても、その中におられるイエス・キリストは栄光と力と祝福に満ちた方だ。その主が偉大であるので、何もできず、学ぶこともなく、意志も弱くて使い物にならない土の器のような人であっても、その命を得た人であれば世が敵わないとヘブル書11章は言う。本当に弱くて見劣りする人がイエス・キリストを命として福音の栄光と力と祝福を見出し変えられると、世をひっくり返す福音の力が現れる。したがって、教会は福音によって新たにされ得るのだ。私たちをキリストの中で満ち満ちた者、完全な者として立ててくださる神のレベルの仕事を主がどのように成し遂げられるか。この秘密はまさにイエス・キリストの十字架の福音だ。アーメン。 (2018年9月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com