【TGCコラム】福音の中で信仰の対象は実際だ

約2年前、ある記者が当時オーストラリア聖公会教会の首長であったパース市の大司教に質問をしました。「イエスの墓が発見されたと仮定してみます。イエスが死から復活せず、彼らが発見した死体がイエスという信憑性が非常に高いとすれば、これがキリスト教信仰にどのような影響を及ぼすでしょうか?大司教はこのように答えたといいます。 「何の影響も及ぼしません。私は私の心の中でイエス様が復活されたと信じますから」パウロは多少異なる見解でこの問題を理解します。はるかにストレートで明確です。「キリストが生き返ったことがなければ、あなたたちの信仰も無駄になる」と17節で言います。つまり、信仰を確証する 1 つの方法は、信じる対象が事実かどうかです。 もう一度言います。とても重要なことです。これだけが唯一の方法ではありませんが、信仰を確証する一つの方法は信じる対象の事実有無にあり、ここではイエス様の復活を言います。イエス様が復活しなかったとすれば事実ではないことを信じることなので、どれほど長い間信じていたかにかかわらず、依然として虚しい信仰に過ぎません。 パウロは続けて言います。もし事実ではないのにとにかく信じるならば「すべての人の中で私たちがより一層可哀想な者である」とです。 ただかわいそうなだけだということです。その大司教に怒る必要はありません。この問題についての彼の意見はただ可哀想なだけです。私たちの世代文化で多くの人々は信仰という単語を宗教と同義語だと考えたり、多くの信仰と多くの宗教があると見たり、または個人の宗教的な選択程度と考えます。真理かどうかは関係なく、個人の主観的な宗教的選択にかかっているということです。しかし、この一節でパウロは、キリストが復活しなかったとすれば、キリストが復活したと信じるのは単に無駄になるだけだと言います。したがって、信仰の確証は信仰の対象に対する事実性と確実性にあります。ここで、その対象は歴史的な出来事であるイエス·キリストの復活を指します。聖書は、事実でないものを信じるように要求したことはありません。同じように聖書で言う信仰の成長と強化のための主要方式の一つは、真実をよく説明して弁護することです。この関係を明確にする別の方法があります。 先日、新約学科で教授招聘のためにインタビューを行いました。教授が一人足りなくて追加するためでした。私たちが面接を行ったこの人は、トリニティで学位を2つも受け、牧会経験があり、ヨーロッパで博士号を受け、他の学校の教授でした。いろんな面でとても立派な人で能力者でした。敬虔で牧会の経験があり、聖書を信じる人でした。 面接中にこんな質問をしてみました。「もしある学生がマタイ福音書やルカ福音書に記録された内容の歴史性について質問をしたら、どのように答えますか?」彼の返事は、「そうですね、私はマタイ福音書を論理的な文書で読むことで接近します。マタイ神学とルカ神学を結び付けて理解させようと思います。 もちろん、私は福音書がキリストを証拠すると信じていますが、それでもこのようにします。その学生がそのような歴史性に対する質問から脱し、マタイ福音書の論理的神学に集中するように」 私はもう少し強く押し付けましたが、彼の答えはそれ以上はありませんでした。結局、面接を受けていた2、3人の教授ができるだけ優しく彼に言いました。私たちが生きている間は、私たちの学科の教授になれないんですよと。私たちは、彼が何を言っているのか分かるように、ちょっとショックを与えようとしたのです。彼の答えは福音が歴史的なイエス様とは別のアイディアだということです。 皆さんはイエス様に対する聖書の本文と歴史的なイエス様の間を連結させなければなりません。本文がイエスについて語ることだけに焦点を合わせ、その本文がイエスについて事実を語るかどうかは関係ないとすれば、私たちの信仰の対象が事実かどうかは構わないのです。 私たちは歴史的事実であるかを尋ねる質問と戦わなければなりません。ただ避けることはできません。なぜならイエス様に対する信仰が私たちを救うのではなく、イエス様が私たちを救うことだからです。 [福音祈祷新聞] ドン·カーソン Don Carson | カナダトロントのCentral Baptist Seminaryで修士号(MDiv)と英国Cambridge Universityで博士号(PhD)を取得し、イリノイ州ディアフィールドに位置するTrinity Evangelical Divinity Schoolの新約学名誉教授として仕えた。 ティム·ケラーと共にTGCを設立し、2019年まで代表として仕えた。 The Enduring Authority of the Christian Scripturesをはじめ、数多くの本を著述した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝播するために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に従って掲載されています。 www.tgckorea.org <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

トルクメニスタン、自由指数世界最下位

トルクメニスタン市場に入ると、どこからか漂ってくる香ばしいパンの匂いが人々の足を止める。「タンドゥル」というかまどで焼きたてのうずたかく積もった「ナン(Nan)」は空腹の誰かの空腹を満たしながら一日を生きていく力を高めるだろう。力強く踏み出す彼らの足取りが自由に羽ばたきをすれば良いが、今年もこの国の自由指数は世界最下位だ。世界最悪の中でも最悪の北朝鮮よりさらに低い自由指数のトルクメニスタンは「2024世界自由報告書」で100点満点中2点を得て3点の北朝鮮の後列に立った。 「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれるトルクメニスタンは、ベルディムハメドフ大統領の15年長期執権に続き、彼の息子セルダル·ベルディムハメドフが大統領を受け継いだ。彼らは偶像化政策で金箔を貼ったベルディムハメドフ元大統領の騎馬銅像を首都の真ん中に建てるなど、被造物である人を敬拝させている。 この地がより一層真理を願うようになり、真理が彼らを自由にする力が起き、生命の餅になったイエス·キリストを食べて真の自由を得ることを願う。 「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:33) [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

生まれかわった人は?

「義を行う者も皆、神から生まれていることが 分かるはずです。」(ヨハネの第一の手紙2:29) 生まれ変わった人は聖なる人だ。彼は神の意思に従って暮らし、その方を喜ばせ、その方が憎むことを避けるために努力する。生まれ変わった人は心と魂と考えと力と意志を尽くして神様を愛し、隣人を自分の体のように愛することを人生の目標にする。 生まれ持った人は、キリストが何を命じようが、喜んで服従を選択する。もちろん、生まれ変わった人も完全ではない。事実、生まれ変わった人は誰よりも先に自分の不完全さを謙遜に告白する。彼は自分を苦しめる腐敗した本性から完全に自由になることを渇望し、生まれ変わった人の本性と性向と言動と習慣は神聖さを指向する。時には倒れたり、脇道に行く場合もあるが、生まれ変わった人は着実に神様に向かって歩く。あなたは果たして生まれかわった人なのか? [福音祈祷新聞] 「生まれ変わったか(J.C.ライル)」より抜粋 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

教会の礎、永遠の盤石イエス·キリスト!

神様の約束と誓い(2) 「礎が崩れてしまっては正しき者に何ができよう。」(詩11:3)自分の人生を支えていると思われる「礎」はどんなものか。もし自分の人生で最も重要だと思う健康、お金を失ったり、頼った人に裏切られたら終わりだ。 ところが、すべてが揺れる日、礎が崩れれば何をするのかという質問に、詩編記者はこのように話す。 「私は私の避難所となった神様のところに駆けつける。」アーメン。 教会は果たしてどこに立っているのか。世間の世論や思想、哲学、教権に立っていて、これが崩れて揺れる日、丸ごと滅びるだろうか。それはできない。 神様は教会をそのような場所に建てたことがない。教会の礎は永遠の盤石であるイエス·キリストである。ハレルヤ! イエス·キリスト以外には、教会の礎にはなれない。神様が夢見る教会は建物や組織ではなく、神様の呼ばれた群れ、すなわちイエス·キリストの十字架を通じて神様の聖なる子供に生まれ変わった神様の民たちだ。 「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」(コロサイの信徒への手紙 1:28) 神様が夢見るビジョンの終わりは、一人、一人を神様の形状、すなわち完全なキリストの内に完全な者として立てることだ。韓国教会の聖徒たちは、果たしてこのお呼びの目標にふさわしい暮らしをしているのか、よく見なければならない。 教会の建物がどんなに華やかか、組織がよくできているか、水準が高く生活するかは教会を計る基準にはなりえない。教会はキリストを頭にした、キリストの体になった生命力のある有機的共同体だ。キリストの生命力が各肢体に流れ、すべての肢体の内にイエスの生命で充満して育ち、キリスト の 滿ち 滿ちた 身たけにまで 達するまで、キリストの中に完全な者として一人一人が建てられること、それが教会を呼んだ神様のお呼びだ。真に生きている信仰で新しい被造物になった聖徒で構成された神聖な教会が、主が夢見る教会の姿だ。世の中に勝って罪悪に勝って最後に勝利する神様の神聖な教会がまさに私たちに向けた神様のお呼びの結論だ。 この罪の奴隷で生きて地獄に向かうしかない存在的罪人である私たちが、どうして神様の息子の形象を着てキリストの中に充満した生命を持った神様の神聖な教会になれるだろうか?これは出発自体がイエス·キリストであり、目標も神様水準であるため、人間のいかなる努力や方法ではなれないと聖書は何度も言う。武力によらず、權力によらず、ただわが霊によってとゼカリヤ書4章6節で言う。 では、誰が救いを得ることができるのか?優れた人だった金持ちの官僚が永生を悩んでイエス様の前に来た時、神様の要求は他ではなかった。虚しい財物に従いながら律法を守り、涙ぐましく最善を尽くしても、中心が変わらなければ神の国の永生は見ることもできないとおっしゃった。神様はお金なのか永生なのかあなたの心に住所を決めるようにとおっしゃった。ところが、自分の思い通りに一番できないのが自分自身の心だ。 許すべきだと分かっていながらも許せない。だから、自分の人生が絶対に自分のものではないという決定的な証拠は、自分の心さえ思い通りにできないということだ。だから私の人生は私のものではない。 (2018年9月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:gpnews@kakao.com

[イアチムコラム] 十字架で死んでイエス様のように愛しなさい

神様は私たちに、イエス様のように愛するようにと言います。どうすればイエス様のように愛することができるでしょうか?可能ですか? しかし、実際にそれほど簡単なものはありません。本当に神様に会ってみたらそうです。それが難しいと思う理由は、今まで私たちがイエス様を知らなかったからです。間違って信じたし、イエス様となんの関係がなかったからです。 イエス様に会ってみると、イエス様のように愛することほど簡単なことはありません。本当です。私たちは、どうしてそんなに愛することができるのかと言います。努力しても駄目だと言います。教会で聖徒に使役をさせるには、あらゆる機嫌を取らなければならず、牧師たちが祈りも強くしなければならないのではないですか? ヨハネ福音書(12:24、13:34~35)の言葉を聞いていると、私の心に天の栄光が臨みました。イエスは十字架を通じて私たちを愛しています。十字架を通過しなかった愛はありません。そんな愛があるなら違法です。意味がありません。十字架を通過しない愛は、自分の義が残ります。子供を愛するとき、これまでどれくらい苦労しましたか?骨が傷んでいます。財政も全部払われました。後で分かったことですが、子供が怪物でした。 イエス様のように愛しなさいという言葉は十字架で死んで愛しなさいということです。愛を先に話したのではありません。先に十字架で死ねということです。そして、愛せよということです。十字架で死ぬほど驚くべき恩恵が臨むことがどこにありますか?信仰の観点から、そのように簡単で明快で強力で、嬉しく、能力があり、新しい希望が臨むことがどこにありますか?私にはとても簡単で強力です。 十字架で死んでから子供を見ると変わります。愛になります。皆さんを見ても良く見えます。皆さんの信仰の大きさが千差万別なのにそうです。とても神秘的です。虫のような、罪人の中で怪獣のような人生だからです。以前は耐えようとしたので骨が傷みました。信仰が弱い人までは大目に見てくれます。ところが、仲間の中に悪い人がいると愛せません。その人をスプーンですくって出してほしいとさえ思いました。 十字架で死なないからです。十字架で死ぬと、すくって出す気持ちがなくなります。心が揺れ、善悪に敏感な理由は、先に愛をしようとしたからでした。自分の力で家と城を建てようとしたからです。違法です。神様の力でしなかったことであり、神様の言葉に従わなかったことでした。 愛するということは、十字架で死んで子供を見つめることです。十字架で死んでからビジネスをすることです。十字架で死んで共同体にいるのです。十字架で死んで使役するのです。十字架で死んで牧師を見ることです。十字架で死んで夫婦が見つめ合うのです。 十字架で自分が死んだので、神様が立てるものが何なのか注目することです。神様が立てるということが実際になるということは、神様がしなければならないという信仰が私たちの中で歴史することです。その恵みが深く臨むことを祝福します。このようなことが起こると、どんな驚くべきことが起こるのでしょうか? 空しいことだ。朝早く起き、夜遅く休み。苦労してパンを食べる人々よ。主は愛する者には眠りをお与えになるのだから(詩127:2) 睡眠をとります。頭をつけたらすぐいびきをかいて、横になってすぐに眠るということは、疲れていてもそうですが健康が悪いということです。神様が愛すれば眠りをくれるという話を見れば、眠りがプレゼントです。むなしく思えませんか?睡眠をくださるというのはどういう意味でしょうか? 「目上の人の言うことをよく聞くと、寝ていても餅ができる」ということわざと同じ言葉です。居眠りもせず、寝ずに働く神様の贈り物があるという意味です。牧師の言うことをよく聞くと、寝ていてもチキンができるということをトーブ円形学校の子供たちは知っています。使役チームがお祝いの歌を歌えば、良い日程ができるということを知っています。夫が妻の言うことをよく聞くと、寝ていても小遣いが上がります。 神様の言うことをよく聞くということは、自分が死んで神様だけが見えることです。神様が何かをなさるということは、寝ていても餅ができることです。愛する者たちに眠りを与えるという意味はそういう意味です。働いている神様について行きます。神様と共にする栄光を経験することを願います。それで私たちの情熱と願いではなく、神様を願うと望む信仰の渦が起きることを祝福します。餅がどんな内容なのか3節から5節まで出てきます。 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。胎の実りは報い。若い頃生んだ子どもたちは勇士の手にある矢のようだ。幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。町の門から敵を追い払うときも/恥を受けることはない。(詩127:3~5) 子供に対して生物学的観点で祝福する言葉ではありません。生物学的関係で形成された子供を意味する言葉ではありません。十字架で私が死にました。心配事が入ってくる時に死に、希望と抱負が死に、神様だけが見える時に神様が餅をくださいます。私にお餅をくださいます。神様には私たちに与えられるお餅があるという意味です。それが私たちに向けた神様の計画と意味と考えです。神様は私たちが寝ている間にも餅ができるようにします。 私からのみできる代表的な象徴は子供です。私の娘は私たち夫婦からのみ出ています。婿は私からは出ません。血縁関係は私からだけ出ます。すなわち、生物学的観点の子供ではなく、私に向けた神様の固有の志が別にあるという意味です。神様の固有の計画があり、神様が立てればそれが明らかになるということです。それを見逃すなということです。 神様が与えたいものを受け取る信仰の人があまりいないようです。次善をもらうか、それとも次次善をもらうか、いやそれでもなくくず程度をもらうようです。神様が最初から私たちに与えたい神様の計画が私たちの人生で現れるのは、呪いの産物である苦労が作るのではなく、神様が私たちを立てる時に現れることです。 神様は私たちを通じてのみ成し遂げたいことが多いです。皆さん、何が叶いましたか?神様が私を通じて成し遂げたいことがありますが、果たして何が叶いましたか? それがこれです! と言えるその証人らしさがあちこちで響き渡ることを祝福します。それで先に苦労をするのではなく、先に努力をするのではなく、先に悲しい努力をするのではなく、私たちの心の考えとエネルギーを神様に上げ、私たちの心ではだめだから一千回死んででも、その十字架の死によって必ず神様が立てることを見てやるという信仰を使うことです。 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。(マタイによる福音書6:28) 新約に出てくるこの「労苦」という単語もヘラ語で見ると「コポス」です。「苦痛と傷を伴う熱心」です。 旧約と同じ意味です。立てる神様の手を経験することを願うと祈ることを願います。 このために、私は労苦し、私の内に力強く働くキリストの力によって闘っているのです。(コロサイの信徒への手紙1:27) 私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。(コリントの信徒への手紙一15:58) 神の心が私たちに入ってくるのは神秘です。神様の心が入ってくると、実際にそれがわかる証拠があります。その苦労が証拠です。「皆さん、使役をする時は大変ですか?大変じゃないですか?」普通は大変だと言います。難しいと言います。皆さんが思っている以上に私にも困難が多いです。心理的な困難、霊的な困難、貧しい人を眺める困難。 ところが、この使役に神様の心が入ってくると、ほんきになります。自分が自ら神の人であることをわかります。神様の未恵を受けたことをわかります。使役に本気になるからです。窓ガラス一つを拭いても本気でやります。本当です。交友たちに会う時も以前とは違ってきます。ある交友を抜き出したい気持ちがなくなり、神様の哀れと愛が臨むことを願う真心が苦労の中でもエネルギーを奪われず、むしろ力が補充されることを経験します。一人一人にそのような未恵が伴わなければなりません。 私たちはキリストの体だから、イエスと共に死に、藩祭壇で毎日死ななければなりません。神様の立てることを眺める神様の人ならば、この真心がすべてになるまで部分的に会うすべての使役と人生の中で働く神様を経験すると信じます。 皆さんの家族の中で誰かが過ちを犯すと心がずれますが、結局許します。なぜ間違ったのかと教えることはできますが、縁を切るとはしません。教会にその真心が入ってこなければなりません。キリストの中にいるなら、その真心は無駄ではありません。一緒に暮らし、一緒に喜ぶその栄光が教会の中でいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 エピローグ 私たちは生きていくとき、労苦を手段として使います。成就するために苦労を使います。克服して防ぐ手段として使います。その労苦に比例して実を結ぶと成功だと思い、そうでないと怒ります。しかし、聖書は、労苦は手段ではなく、堕落の結果であり、呪いの産物であると述べています。それなら、苦労が先ではありません。エデンから追い出された間違いを繰り返してはいけません。神様のところに戻らなければなりません。十字架を通して! 一千回祭の祭祀を通じて! 神様のもとに帰って、神様がなさることを見て喜ぶ驚くべき恩恵がいっぱいになることをイエス様の名前で祝福します。 [福音祈祷新聞] イアチム牧師| 神様が見られるのにとても良かった教会担任。 次世代のためにトーブ原型学校を運営しており、聖徒たちが人生で信仰の実際を経験できるように育てている。 著書として<主が咲かせるままに>(トーブ原型出版社、2020)、<はい、主よ、私が従順の専門家です>(トーブ原型出版社、2019)などがある。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

神に召された者に求められるもの、「絶対信仰」

ただ! 絶対!全部の福音!(12) アブラハム、ダビデのようにひたすら信仰、絶対信仰で福音を信じた3番目の人はパウロだ。だからといって、彼が資格があって福音を受けた人ではなかった。パウロは自ら言うには罪人の中に怪獣であり、福音に敵対した者であり、殺人した者であり、そして悪行する者だった。彼は十二使徒の仲間入りにもならない非常に邪悪な宗教的秘密警察だった。彼には世の権勢はあったが、イエス様の弟子としては全く似合わない人だった。しかし、彼は説明できない神の恵みを受けた者だった。 彼には復活した主が個人的に教えてくれたことがあったが、それで人々に認められなかった。そのため、彼は教会に手紙を書くたびに、自分は人によるものでもなく、人が立ててくれたものでもないと話す。今で言えば按手も受けられず、学校も通えず、教壇で認定を受けられなかったという話だ。ところが、神様は彼を呼んで十字架の秘密を啓示し、新約聖書の大部分をパウロの手紙で満たしてくださった。 パウロは出産の苦労で教会を建てた。しかし、割礼派のユダヤ人たちは自分の割礼を誇り、律法と系図を持ってパウロが建てた教会を揺さぶり続けた。パウロに対する彼らの攻撃はたった一つだった。パウロがそれだけの資格を備えていなかったということだった。 アブラハムとダビデ、そしてパウロの3人には共通点がある。ただ神様に呼ばれた者たちだという事実だ。このため、彼らには人々の認定や評判や利益や保障のためではなく、ただ呼ばれた神様が全てだった。 不利な条件の中でも、彼らにとって実際は生きている神だった。誰とも代えられない絶対的な信頼だった。驚くべき信念の根拠を持つ人々には、彼らに責任を負う組織や教団、権威、またはいかなる保証も彼らにとって信仰の条件にはならなかった。神様が彼らに要求されたのは絶対信仰だった。 神様は今日も私たちを呼ぶ。私たちはその方を絶対的な神として知って、主はキリストであり、生きている神の息子だと告白するその信仰に進まなければならない。誰でも神について行くためには、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負ってこそ、神について行くことができる(ルカ9:23)。イエス様を選択するという言葉は、多くの中で一つを選ぶことではない。相対的に高い比重で誠意を持って従うということではない。絶対であり、ひたすらであるべきだ。アーメン. (2018年8月) <継続> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ(巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

神様の手に自分を任せた絶対信仰の人「ダビデ」

ただ! 絶対!全部の福音!(11) ダビデはサウルが失敗した王国を受け継いだ。そして、狂った王の嫉妬でその王が死ぬまでずっと追跡され、血のにじむ荒野の逃亡者として生きた。牧童出身の逃亡者に年齢まで幼い、指導者の資格とはかけ離れた人だった。政治的な経験や軍人として経験がなく、国を経営できる人間的な背景、条件や資格が全くなかった人だった。 ダビデの生涯を語ることができる特徴の一つがあるとすれば、それは絶対信頼だった。 全く資格がなかった人 末の息子に生まれてあまり大事にされずに、両親と兄弟たちにもそっぽを向かれていた「大したことのない少年」、「ダビデ」。荒野で数匹の羊を飼っていたベツレヘムの牧童だった彼の人生は、ロマンチックな状況ではなかった。熊とライオンが出没する死の危険があるところに末っ子を置くのが家の雰囲気だった。彼の子供時代はベツレヘムの荒野で天地に一人だったが、憂鬱だったり悪いことに陥らなかった。自分だけを見ている子羊たちの世話をしながら、牧童として神様が彼の人生にどれほど絶対的な方なのか、詩編23編を通じて霊的な歌を美しく表現した。 主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩23:1) ダビデの人生に絶対的な一人、主 私の羊飼いであるエホバは、羊にとって「ただ」であり、「絶対」であった。 「絶対に!ただ!あの方しか! そして、その方で十分だった」 詩篇23編は、彼の信仰の告白だった。羊は自ら自分を保護したり、自ら人生を開拓する能力がない。牧童がなければ全く存在できない動物が羊だ。羊の世話をする小さな牧童として暮らしながら、ダビデは頼ることが何もない孤独な荒野で神を牧者と表現した。 詩編23編の歌を歌えるだろうか? このような歌を歌う信仰を「絶対信仰」という。 私の羊飼いの主なら十分だった ダビデは転んだ時さえ他の道を探さなかった。殴られても母親の胸に駆けつける子供のように、犯罪して倒れた後も彼がただ捕まえる神様しかいなかった。神様の許ししかなかった。 「主の手に渡る方がもっと残酷であっても、人の手に私を任せないでください。 神様、私を殴っても神様の手に私を任せます。私は神様が去ったら生きていけません。」 彼は生涯彼と共にする主の栄光を見た。神様なら十分だった。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

アブラハムの最後のテスト… イサク事件の意味

ただ! 絶対! すべての福音! (10) アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。( ローマ 4:23~25) 十字架の福音は、その方が私のために死んだという言葉を90%信じてはならず、その方の死は私のための死であり、私の死と同じだということを信じろということだ。これはこのような事実に対する確信が私にとって「ただ!絶対!全部!」にならなければならないことを意味する。ところが私たちは知識的には同意しながら生きる姿は全く十字架の死と何の関係もなく生き、依然として自身が主体になって「ただ私、私、私」、「ただ、絶対、全ては私だ」このような人生を変えていない。そのように神学の知識だけが積もり続け、体験は増え続けて悩みはするが、それは常に自分を全て出して任せた対象は「私」であり「真理」ではなかった。 アブラハムの一生で「ひたすら信仰」を除いては話すことができない。「信仰が弱くならず、絶対に信じた」と聖書は述べている。もちろん、途中で揺れる時もあった。サラも揺れ、アブラハムも揺れ、ハガルという小間使いでイスマエルを産んだりもした。だが、彼が神を信じる信仰が全てだったことを表わした最後の試験があった。アブラハムに残された信仰がどんな信仰だったのかを歴史が注目するように神様が刻んだ美しい事件記録がある。 アブラハムがイサクを捧げた事件を紹介した創世記22章は、一人の人間の内面を表現するのにこれ以上の表現がないと考えられる言葉だ。イサクはアブラハムが100歳で産んだ息子だった。約束の息子であるイサクは、自分の存在の未来がかかっていた。ところが、イサクを与えた神様が目に入れても痛くない子供を何の説明もなしに「君の愛する一人息子のイサクを私が指示する地、モーリア山で私に供え物として捧げろ」とおっしゃる。常識と経験では受け入れがたいことだった。これはすべてを超える試験だった。神様を絶対に信じて絶対に信頼する信仰でなければ、死んでも到達できない試験だった。 その時、神様が試験に応じるアブラハムの中心で全てになった信仰を見られた。子供を殺そうと刀を持つアブラハムにこのようにおっしゃった。 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」(創22:12) アブラハムのこの信仰がただであり、全てであり、絶対だったのだ。歴史に現れた神様が感動した場面だ。愛する一人息子を惜しまなかったアブラハムの信仰だった。 神様はアブラハムの従順に感激し、イサクを捧げたその場を聖殿の場所に決定される。 後にエルサレムの聖殿がそこに建てられる。神様の心がそのまま注がれている所。 神様が感動を受けた所。神様が自分の「全て」になって「ただ」になって「絶対」になるよう神様が呼び出した信仰の人、私たちが今日のアブラハムにならなければならない。 (2018年8月)<続き> [福音祈祷新聞] キム·ヨンイ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供·お問い合わせ:press@gpnews.org

[チェ·ヨナコラム] 足よ、僕を助けて

音戦争2 私たちは聖書の多くの信仰の英雄に出会う。聖書に出てくる神様の人々の中で私たちが本当に似たくて、見習いたい色々な人々を思い出すが、代表的な人を選ぶとすればおそらくアブラハム、ヨセフ、モーセ、ダニエル、エレミヤ、ペトロ、ヨハンそしてパウロのような方々ではないかと思う。ところが、私たちが回避したくて、あまり似たくない代表的な人物を旧約聖書から選べと言うならば、最も1順位がおそらく「ヨナ」ではないかと思う。ヨナ書を読んでいると本当にあきれて唖然とする。なぜなら、どうやってこのような人を神様が呼んで預言者の役割をさせたのか理解できないためだ。ところが私は旧約聖書の中で最も人間的で、人の匂いがし、私たちの根本アイデンティティと実体を最も克明に表わす旧約聖書は「ヨナ書」だと思う。 イスラエル国がソロモンによって分裂し、南王国ユダと北王国イスラエルに分かれた時、北イスラエルの最も大きな繁栄期をもたらした王は「ヨロボアム2世」だった。この時、神の使命を受けてイスラエルを圧制した代表的な敵国であるアッスルの首都「ニヌウェ」に行って悔い改めのメッセージを伝えるように選ばれた人がヨナだった。ヨナの故郷はナサレットから北東5km地点の「ガードヘベル(注:Gath-Hepher、くぼみのワイン汁を搾る型という意味)」というところだが、そこからニヌウェまで行けということだ。 「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」(ヨナ1:2) その呼び掛けにヨナが見せた最初の反応は「逃げること」だった。エホバの顔を避けようと起き上がり、ヨブバ港に行って船に乗って「タルシシュ(注:スペイン地域)」に逃げる預言者ヨナの姿に私たちは舌打ちをしたりもする。 しかし、ヨナは立ち上がると、主の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。(ヨナ1:3) 「あら。。。どうしてあんな人が預言者なんだろう」 「なぜ神様はあんな人を呼んで使うのだろうか?」 「私だったらあんなに反応しなかったのに!」 本当に驚くべき事実はヨナがタルシシュに逃げようとしてヨブバに下がったすべての行動の理由が「エホバの顔を避ける」ためだったという。 エホバの顔を避けようと船に乗って再びスに逃げている姿が創世記3章で神様に犯罪した後に神様の声を聞いてアダムと彼の妻が「エホバ神様の顔を避けて」園の木の間に身を隠したという話と驚くほどオーバーラップになる。 その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。(創3:8) 「人類の歴史以来、私たちが一番得意とする特技は、常に神様の顔を避けて逃げることだろうか」 「もしかしたら、私たちの人生もずっと神様の顔を避けて隠れてはいないのか、ヨナ書を通じて神様が話しているのではないか」<続く> [福音祈祷新聞] このコラムは筆者の著書「音戦争(うつぶせ出版社)」から著者の許可を得て抜粋、掲載します。 |チェ·ヨナ宣教師|総神大神学大学院卒。国際OMイスラエル所属。 CCCとYWAM礼拝導者とリーダで使役。著書「君が私の栄光を踏みにじった」(2020)に続き、最近これまで私たちが逃していた「神様の声」を渇望する気持ちで2023年11月<音戦争>を出版した。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[チェ·ヨナコラム] どもり人生

音戦争(1) 小学校に通っていたいつからか「どもり」を始めた。どういうわけか、自分が考える言葉と表現が頭の中だけでぐるぐる回って、実際に話そうとするとぎょきぎょきと詰まり始めた。最初は急いで話そうとしたので、詰まるようになったからかもしれないと思った。しかし、時間が経つにつれ、どもる症状はますますひどくなっていった。幼い頃から始まったどもり症状が成人になっても影響を与えるとは本当に思ってもみなかった。今でも忘れられない最も恐ろしい授業時間があった。それは「国語の時間」に先生が生徒一人ずつ本を読ませる授業だった。授業開始前から死にそうだった。脈拍と心拍数は急激に上がり、呼吸は荒くなり、先生と目を合わせないように姿勢を下げた。何より先生の目に触れないように隠れてる努力をする自分の姿が本当に気の毒だった。 ヨナ預言者によって地中海の海が揺れ動き、船が沈むようになると船頭たちは自分たちが仕えていた神(god)の名前を呼んだが、私も授業時間になると幼いのにあらゆる雑神の名前を呼んだ。この問題さえ解決してくれれば何でもすると、この困難さえ乗り越えれば何でもするというほどどもる症状を持っていた私にとって、学校の授業時間はとても大きな苦痛の時間だった。特に、前に出て発表したり、本を人前で読まなければならない日には、深い侮蔑感と羞恥心、そして嘲笑に耐えなければならない三重苦に耐えなければならなかった。 学校に行かないために仮病を起こしたり、あちこち町の周辺をうろついたりもした。だからといって、毎日学校を抜けるわけにもいかない状況ではないか。いよいよ私の番になって席を立って本を読み始めた。 「朝、バ、バ、バ、バ、バク、」 どもりながら読む自分の姿も嫌だったが、一緒に授業を受けていた友人たちも情けないように私の顔を眺めているのが、その状況があまりにも恥ずかしかった。 そばでくすくす笑っていたり、授業が終われば真似してからかう姿が耐え難い人生の苦痛だった。同じ単語と音節を繰り返しながら、私も知らないうちに特異な体の行動をし始めたが、それは目の視線を他のところに置いて落ち着かせようとする試みだった。ある瞬間、どもることを回避するために私の生存本能は文章を変えたり、単語を他のものに対峙したりしながらどもるという姿を隠そうと必死に努力した。 どもる原因はいろいろあるという。環境的な要因、心理的な要因、言語的な要因、情緒的な要因、そして遺伝的な要因が複合的に作用するというが、言語障害であることが明らかな病気の一種だ。どもる人生を生きるようになって形成された私のアイデンティティは多分に消極的で、内向的ですべてを否定的に考えさせた痛いアキレス腱になった。それで私にとって最も怖かった時間は「本を読む授業時間」であり、人前で「発表する時間」になった。 「どもり人生が社会に必要なのか」「どもり人生が人の役割を果たして生きていくのか?” 両親のため息と心配を後にして、学生時代を過ごしながら私はこの地で正常な人生を送るという期待は最初からしなかった。誰もこのようなどもり人生を歓迎してくれないだけでなく、この社会に必要な存在だとは思わないからだ。大学に入ってイエス様に人格的に会った後も、このような考えは変わらなかった。どもりながら視線をうまく合わせることができず、ひどくまばたきしながら同じ音節と単語を繰り返し、代名詞をよく使いながら単語を倒置するどもり人生を本当に恥ずかしがった。 「どうやってどもりながら説教ができるの?」「どうやって言葉をどもりながら賛美のリーダをすることができるのか?」「神様は私のような人を使うことができるのか 私はヨナ書を読む度にそのヨナの話が聖書に記録された神様の言葉を越えて私の人生を触る「神様の息吹」として近づいてくる。なぜなら、そのように預言者として資格がなく、逃げて、隠れてしまおうとする人生を私も生きてきたからだ。 「どうしてヨナのような人が預言者と呼ばれたのだろうか」 「どうして私のようなどもりの人生が説教者と呼ばれたのだろうか?” イエス様を信じた後も、私は信仰の根拠が人の知恵になく、聖霊の現れと能力にあるとおっしゃった言葉が私の人生に実在にならなかった。 しかし、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知惠であるキリストを宣べ傳えていらっしゃる。 「ところが、神は知惠ある者に恥をかかせるため、世の無學な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント人への第一の手紙第一1:27-28) [福音祈祷新聞] このコラムは筆者の著書「音戦争(うつぶせ出版社)」から著者の許可を得て抜粋、掲載します。 |チェ·ヨナ宣教師|総神大神学大学院卒。国際OMイスラエル所属。 CCCとYWAM礼拝導者とリーダで使役。著書「君が私の栄光を踏みにじった」(2020)に続き、最近これまで私たちが逃していた「神様の声」を渇望する気持ちで2023年11月<音戦争>を出版した。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

創作クリスマスキャロル「雪が降ってる」

イエス·キリストの誕生を称えるクリスマスの嬉しい知らせを伝えるための創作クリスマスキャロル「雪が降る(Snow is falling down)」がソプラノのチン·ユンヒ、テナーのリュ·ジョンピルによって最近発表された。 この曲は作曲家であり編曲家であるチャン·ミンホ教授の曲に声楽家で劇作家、作詞家であるイ·スンウォンの歌詞で世の中のすべての痛みと悩み、心配を白い目で覆ってあげたい気持ちを込めた。 ロシアのレニングラード州国立交響楽団の演奏で曲の完成度を高め、グラミー賞クラシック部門最高技術賞を受賞したサウンドミラーコリアのファン·ビョンジュン代表がマスタリングを担当し、多くのキリスト教音楽アルバムのプロデューサーとして活動したチャ·ヨンウン代表(ナヌミュージック)が製作を担当した。 音楽学博士でグリ聖光教会聖歌隊指揮者であるチャン·ミンホ教授(サンミョン大学ニューメディア音楽学科)は「この曲はイザヤ1章18節の『 お前たちの罪が 緋のようでも、雪のように白くなることができる』という聖書の言葉を黙想して、戦争と暴力、不義の中で苦しむ人々を慰め祝福と平和の便りを伝えるクリスマスプレゼントになることを願う」と曲を紹介した。 [福音祈祷新聞] <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[ソン·ジュンギコラム] 僕たちはお金を準備する

一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカによる福音書9:57~58) 招きの費用 弘大通りで歌うある青年に会った。彼は6年間、毎日街頭に出て歌を歌い、曲を書く無名歌手だった。アンヤンのみすぼらしいワンルームで一人暮らしをしながら毎日弘大を通っているという。 私はふと彼がどのように食べているのか気になった。それで家賃、携帯電話代、交通費、食事代はどのように用意するのか心配そうな表情で尋ねた。すると彼は自分の生活費が私と何の関係があるのかという口調で答えた。 「私がやりたいことをして生きているのに、仕事がないからってどうですか?」 私はショックを受けた。自分がやりたいことをするために自分でお金を作るのは常識だ。私はその常識を忘れていた。 また、彼はチュンムロに遊んでいる監督が3千人を超えるのに、なぜなのか知っているのかと尋ねた。彼らは皆、自分の道を歩むからだと言った。職場に入ると、自分が望む仕事ができないからアルバイトをしながら過ごすという。 街の芸術家たちも自分の招きどおりに生きるために貧困を耐えるのだ。誰が認めてくれようがどうか気にせずに自分の道を行く。やりたいことをしながら生きたくて各種パートタイムの仕事を片っ端からする。 「ところで私は?」’ 私の招きの費用は人生すべてだった。ウェイチャーチの教会の開拓はそれほど重要だった。家長として妻と娘の人生までかけるほどの価値があった。 その青年の態度は私の怠惰を破った。それで私も食べていく費用を作り始めた。ウェイチャーチを開拓して3年間謝礼費なしで暮らしてきた私に、人々はどうやって食べているのかとよく聞いた(最近も聞いている)。その度に私は街の芸術家たちを思い出した。 どうやって食べていくんですか? 人の考えが互いに似ているようだ。実際、ウェイチャーチを開拓する直前に、私もイエスに同じ質問をした。 開拓者は何で生活を営むべきですか?’ 質問が終わるやいなや主が答えてくれた。 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。(マタイによる福音書10:9~10) 祈る私にこの言葉を思い出させてくださった。教会を始めるために何も持って行くなということだった。どうせがらんとした通帳だったのに、”帯(通帳)”に何も入れて行くなと言われて嬉しかった。何もしなくても自然に従順になるわけだった。 その上、「袋も二枚の下着も、履物も杖」等、何の財産も持って行かないようにと言われ、嬉しく従順した。韓国に帰る前に妻と私は数少ない荷物のほとんどを会う人たちに配った。ただ、自動車と大きな家具は中古市場に売って帰ってくる航空料として使った。 続く主の祈りの応答はこうだった。 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。。(マタイによる福音書10:11) 私たちにとって「町や村に入ったら」は韓国に入ることだった。そして「そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」というのは妻の実家に留まることだった。義父と義母ほどの「ふさわしい人」がいなかったからだ。お二人は私たちの帰国に熱狂し、ほぼすべての必要を提供してくださった。 心強い後援 当時、生活費はチョン·ミョンホ牧師(私が青年部副牧師として使役したヘソン教会の担任牧師)が後援してくれた。私はその方を「チョン担牧」と呼んだ。その方は私をとても大切にして愛してくれた。君臨できる位置なのに、むしろ私が真正性を持って使役できるように常に物心両面で後援された。 私の伝道師時代からチョン牧師は師匠であり一番近い友人だった。私の恋愛の助言者であり、結婚式の主礼者であり、私が牧師になった時は按手者でもあった。私の最も重要な時期の大きな変化を間近で導いてくれた。神様が開いてくださった関係だ。 私たちはすでに使役の現場で教会論について4年近く話し合った。 そしてウェイチャーチ開拓直前には8ヶ月にわたりほぼ毎日一緒に食事をしながら話した。そして教会の始まりと同時に、その方は私の最も心強い後援者になってくれた。 会う度に自分の財布のお金を生活費に使うように指定献金としてくださった。韓国に来てもよくヘソン教会に呼んで説教をさせ後援金を集めてくれた。 また、ウェイチャーチの初会合直前には日曜日に私を日曜日1、2、3部礼拝説教者として招待してくれた。そして、各礼拝の広告時間に2年間、私の生活費と教会の使役費を後援しようと提案した。そして、長く考えてきた現実的な後援方法を具体的に提案した。その愛は本当に素晴らしくて、大きかった。牧師もやはり神様が送ってくださった「ふさわしい人」だった。 費用計算 生活費として必要な金額の3分の1がヘソン教会を通じて満たされた。その残りの金額が満たされなければならなかった。イエス様の教会を実行する限り、私はその方に必要な部分を頂いて使うのが当然だと思った。そういうわけで、残りも満たしてほしい」と祈った。主はその時も言葉ですぐに答えられた。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(ルカによる福音書 14:27) 私の祈祷タイトルは「生活費をください」であって、その応答は「自分の十字架を背負って従え」だったので、その十字架が何を意味するのかは確実だった。お金を用意するのが私の十字架だった。イエス様に従うのに必要な費用を自ら用意しろという回答だった。 月給が出ない仕事をしながらも生活費と使役費を二重に用意する十字架を背負って行かなければならなかった。祈りの応答が確実になると、私は行動した。 10年近く神学生だったので、最初のアクションは「研究」だった。誰かが城の守備中に見張り小屋を建てなければならなかったら、その費用を細かく計算して工事を始めるだろう(ルカによる福音書14:28)。 そこで開拓に必要な費用を他の先輩たちはどのように手に入れたのかを研究した。本にはいつも道があった。私がしたすべての質問は、すでに誰かがしたものだった。綺羅星のような先輩たちが血と汗のこもった実行を通じて最適な答えを出して直接記録しておいた。 教会開拓の歴史が数千年だ。本に全部出てくる。彼らが海なら、ウェイチャーチ開拓は湧水の水一握りに過ぎない。数多くの使役者がすでに食べてきており、彼らの質問と名答はすでに本にあった。 彼らの中でも私と同時代を生きていく開拓家たちの本がもっと目立った。特にエド·ステッツァー(Ed Stetzer)、オーブリー·マルファス(Aubrey Malphurs)、フランシス·レッドフォード(Francis Jackson Redford)、ボブ·ロバーツ(Bob Roberts)、ダグラス·クランブリー(Douglas Crumbly)、アラン·ハーシュ(Alan Hirsch)、デイブ·アーリー(Neil Cole)、ジェフ·アイオーグ(Jeff Iorg)、トムスライナーは本を通じて私のメントになってくれた。『私はその方たちに多くの借りができた。) 生活費の工面 彼らがお金を用意した7つの方法だ。一つ目は教派の支援だ。教会ごとに所属教団がある。教団とは長老教、バプテスト教、メソジスト教、聖潔教、純福音などをいう。教団別に未自立教会後援費、教会開拓支援費のような予算がある。それは主に老会を通じて伝えられ、先輩牧師たちと関係と保証で支援がなされる。 二つ目は母校会の支援だ。この部分は主にある地域教会でキャンパス教会を追加開拓する時に行われる。そして珍しいことだけど母校会でインターンシップ制度を運営し、牧師候補生を開拓者として育てて送り出す時も後援が行われる。 3つ目は協力支援だ。教団概念ではなく、ネットワーク関係での開拓支援方法である。同じ教会論を持って教会開拓を通じて福音伝播使役をしようとする教会が少しずつお金を集めておく。 色々な開拓教会がもう一つの教会を始めるために契を挙げて時に合わせて配る方法だ。 4つ目は宣教後援者募集だ。青年たちが海外短期宣教に行く航空料を募金するために宣教手紙や祈祷手紙を書いて知人たちに配り募金するのと同じ方法だ。この時、主に教会開拓提案書を用意して人々を訪ね回りながら開拓者がプレゼンテーションをする。 その提案書は目的が何なのか、対象は誰なのか、どのような開拓モデルなのか、誰がその仕事をするのか、いつどのように始めるのか、財政確保戦略は何なのかを書く(この部分は付録として加えた)。 5つ目は募金だ。これは宣教後援者募集と似ている。しかし、より一時的な仕事のためだ。例えば「教会を始めようと思うのですが、2万ウォンの折りたたみ椅子100個が必要です。それで200万ウォンを募金しています」という風だ。 6つ目は多様な支援を受けることだ。前の5つの方法をすべて使用する。いずれかの方法ですべてのニーズを満たすことができない場合は、すべてのサポートを受ける必要がある。 […]

ただ信仰の人、アブラハム!

ただ!絶対! みんなの福音!(8) 聖書が注目する人々がいる。 アブラハムとダビデ、新約ではパウロだ。 まず、信仰の先祖として知られているアブラハム。彼の信仰はただの信仰ではなかった。「ただ信じる」だった。彼の生涯は信仰を抜きにしては説明できない。聖書はアブラハムの生涯を絶えずに追跡しながら彼の信仰に注目している。 聖書は旧約の結論であるハバクク書2章4節の言葉で結論を宣布している。 「神に従う人は信仰によって生きる」ロ―マ人への手紙で1章17節でもその偉大な宣言を宣布する。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる 」と書いてあるとおりです」ただ良い信仰、熱心に信じる信仰ではなく「信仰によって生きる」を、「絶対信仰」を言っているのだ。 アブラハムが信仰の先祖だと言われる時、神は彼に信仰はどのようになければならないのかを話された。神様は一人の人生を通じてただ信仰を啓示してくださる。 これは教義的に、神学的に同意するレベルではない。「私はそれを信じます。ただ信仰です」と告白するレベルで終わるのではない。神様はアブラハムの生涯全体を主が使われて、ただ信仰という言葉が何を意味するのか混沌しないように啓示してくださった。 なぜなら、ただ信仰であってこそ、私たちが義とされて、そうしてこそ救いを得るからだ。私たちが失った「ただ、絶対、全部」が実際になるように生きて居られる神様に会うことが起きなければならない! ハレルヤ! ローマの信徒への手紙第4章で、ただ信仰だったアブラハムの信仰について見てみよう。 「では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていることについては、何と言うべきでしょう。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。」(ローマの信徒への手紙4:1~3) アブラハムが義と認められたすべての根拠は、彼の行為や彼自身になかった。徹底的に信仰によって神様の前に義とされた。彼が信じた信仰は神様が見るにはどんな信仰だったのだろうか? 「「私はあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。「あなたの子孫はこのようになる」と言われているとおりです。およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも、その信仰は弱まりませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことをせず、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。だからまた、「それが彼の義と認められた」のです。」(ローマの信徒への手紙4:17~22) それはただ信仰だった。生きていらっしゃる神様を聖書が言った創造の主であり、全能の主よ、永遠の主として、完全に神様を神様と信じたということだ。 ひたすら信仰でだ。アーメン。(2018年8月)<つづき> [福音祈祷新聞] キム·ヨンウィ (巡回宣教師、LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:press@gpnews.org

[TGCコラム] サタンに何かあったの?

先日、私はイエス様の山上の説教を説教しながら、イエス様のように永遠の審判を扱った。主の口から出た言葉である以上、私はいくら不便な真理だとしても決してそっと避けながら聖徒たちにお世辞を言わない。考えてみよう、イエス様が本当に滅亡に導く広い道に関する警告と神様と財物に同時に仕えることはできないという内容、そして怒りと情欲が地獄の火に至らしめるという事実を伝えることが重要だと考えたなら、その方に従う人として、またその方の言葉を宣布する人として、私たちには他の選択の余地があるだろうか? 聖書にありのままそのメッセージを伝えること以外にない。それが現代人の耳にいくら恐ろしくてもだ。 礼拝が終わった後、ある女性が私に近づいてきて、「これまで多くの教会に通ったけど地獄について話す牧師を初めて見た」と話した。 彼女はその重要なメッセージを大声で宣言してくれてありがとうと言った。しかし、彼女は地獄という言葉をほとんどささやくように言った。まるで呪いの単語として乱用される地獄がその力を失ったように、しかし同時に依然として秘密であるかのようにだ。しかし、信実な信者たちは、その単語が依然として正統キリスト教の一部だが、それでも私たちが声を出して言ってはならない誰かの目的地であることを知っている。 このすべての状況が私の好奇心を呼び起こした。いや、審判を言及せずにどうやってイエスを伝えるのだろうか?イエス様のその多様な比喩をどのように説明するというのか?滅亡に対するイエスの継続的かつ一貫した警告をどのように処理できるのだろうか?これで終わりではない。イエスは確かに二者択一との対照を強調した。たとえあなたがパウロと他の使徒の教理にそれほど気を使わない、教団を越えた急進キリスト教徒(red-letter Christian)だとしても、滅亡と消える魂を警告したイエス様の肉声(the redletters)と地獄を象徴する死なない虫と消えない火のイメージまで無視することはできない。 グッバイ、サタン 地獄がないという事実と最も密接な関連を持つのは消えるサタンだ。 ますます多くの教会で神様と神様の民に対抗して戦争を繰り広げるサタンや鬼、勢力と情事に関する話を聞くのが難しくなっている。文字通りサタンが消えた。そうだ。恩師主義教会や五旬節教会にはたびたび現れるが、ますます裕福になり教育水準が高くなる福音主義教派では事情が違う。サタンという告訴者に関するイエス様と使徒たちの言葉の前で人々は震える。 悪魔がすべての問題の背後から覗いており、サタンの影響力が聖書の証言を歪曲する方式で過度に強調される他の信仰伝統に蔓延した一種の誇張を避けたがる牧師たちがいることを私は知っている。だから節制された方式で行った方がむしろましだということだ。ところが、このようなアプローチには唯一の障害物がある。それがまさに聖書だ。聖書だけでなく教会史も同じだ。そして非西欧地域にいるすべての兄弟姉妹も同じだ。 だから基本的に聖書がこのような態度に反対しており、キリスト教歴史の中のすべての信者もそうであり、また西欧キリスト教を除く他のすべての地域の信者も同じだ。 私たちは今、かなり変わっている。にもかかわらず、この問題に関する我々の沈黙はかなり精巧だと思われている。 サタンが消えて生じた様々な余波 問題はこれだ。サタンについて説教しなければ、聖書が証言する罪と救いではない。せいぜい一般的な善悪に区分される心理治療的で世俗的な範囲を越えることはできない。 地獄について全く言及しなければ、あなたが話す福音の中には緊迫感があり得ない。あなたが伝える福音は、単に人々が聞きやすくて、より満足そうな生き方にすぎない。これがまさにインスタグラムインフルエンサーから仏教徒に至るまで、皆がすることだ。 あなたが悪魔のことを全く話さないなら、当然天使も言及しないだろう。これは何を意味するのか?聖書が実在だと言う霊の世界を、すなわち見えない領域を本当だと思わないことを意味する。あなたは、御言葉から外れた宇宙観を持つ貧弱な想像力の持ち主である。しかし、古代教会は明らかに聖書の主張を確証した。そして今、世界の教会はそれに参加しています。 さらに天使、幽霊、サタン、地獄に対する貧弱な見方は、私たちが罪と戦う時、神様を正しく礼拝しようとする時、そして神を知り愛する心の純潔を追求する時、私たちの弱めになる。サタンの喪失はキリスト教徒の人生の脈絡が変わることを意味し、霊的戦場がいつのまにか平和な慰労と成就の現場に変形したことを示している。 永遠という持分の重さを減らす キリスト教が言う永遠がかかった問題の重要性を低くする時に伴う必然的な結果は、結局些細な問題がより重要になるということだ。イエス様と使徒たちが伝えた生死の緊急性を受け入れない時、どんな結果が生じるだろうか?生死の緊急性を他の問題に挿入することで、世の中の問題を実際より大きく見せかける。 これが西洋の教会で目撃する現実だ。私たちが宇宙的観点を失い「この世」と関連した人生の側面だけを強調する時、未来の審判という厳重な現実を軽視する時、私たちは結局永遠の正義に対する希望さえ失うことになる。 これは結局、地上の正義だけが私たちに残った全てだと認めることになるのだ。したがって、この地で完全な正義を達成しない限り、私たちは決して正義が究極的に実現する現実に出会うことはできないという意味だ。 「この世」しか残っていない人々に残された結果は何か? この世で追求する各種正義追求は事実上生死の闘争になる。 本当に深い関心を持たなければならない何かを探す過程で戦わなければならない本当の戦争の代わりに、私たちは休まず続く小さな戦闘に魅了される。偉大なドラマを逃した人の目には、この世が作る小さな世俗的ドラマが重要に見える。 イエス様のように教えているのか? 私は今日の人々にサタン、地獄、天使、悪魔に対する説教がどのように近づくか深く悩むことなく、生半可な説教を勧めない。状況化は重要だ。そのため、神様は私たちに言葉を解釈しろと説教者をくださった。ただ言葉は声を出して読むことで終わらない。いざ必要なのは聖書が教える内容を注意深く説明し、聖書が書かれた当時と今の文化的距離を認めながら、人々が世の中を違う方式で見るよう招待することだ。 しかし、いくら細心に配慮するとしても変な点を全部なくすことはできない。だからといって、現代人の耳に奇妙に聞こえるすべての部分をなくすために努力してはならない。特異な点は目につくものだ。 私たちがイエス様を見習ってその方を伝えるイエス様の宣言者になれば、イエスがおっしゃったすべてのこと、ひいては今日の私たちを不便にさせる部分までも苦心しなければならない。それは独善で神様の恩恵と慈悲を拡張できない人や巧妙さで審判に対する警告を笑う人に向けたイエス様の二重的な攻撃も含まれている。 正統的で健全な信仰告白を固守する教会も、いくらでも聖書が強調する教えに重きを置かないことができる。正しい教理に従いながらも、それにともなう適当な厳重さを持ってその教理をまともに扱わないことが可能だ。 今日、サタンが信者たちの感覚を鈍らせるために使う最も簡単な方法の一つが、牧師たちがイエス様のように話さなくても、まるでイエス様に関する真の教えを伝えるように説教させることだ。 [福音祈祷新聞] 원제 : Whatever Happened to Satan? トレビンワックスTrevin Wax | Life Way Christian Resourcesの神学とコミュニケーション学科の副学長であり、Wheaton Collegeの外来教授であり、The Gospel Projectの編集者である。 「ディス·イズ·アワー·タイム」、「歪んだ福音」、「私たちの時代の6つの偶像」、「Gospel Centered Teaching」を多数の本を著した。 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本誌と協約に基づいて掲載されています。 www.tgckorea.org […]

[GTKコラム] ヨセフのように成功するキリスト教徒?

ヨセフは聖書に出てくる人物で、兄たちの嫉妬心でミディアン商人たちに奴隷として売られたが、神様が共におられてポティファル将軍の家の管理者になった(創世記37)。ボディバル将軍妻の誘惑に屈しないと、監獄に収監されたが、彼は監獄でも看守長の信任を受け、獄中囚人を管理する管理者となった(創39)。 そして、最終的にはエジプト王であるパロの夢を解釈し、パロの信任を受けてエジプトの首相になった(創41)。7年間の豊作が過ぎ、7年間の凶作が来た時、ヨセフの兄たちも食べ物がなくてエジプトまで来て穀物を買うことになるが、この時彼らは総理になった自分たちの弟ヨセフの前にひざまずくことになる(創42)。 ヨセフの兄たちは彼が自分たちに復讐をするのではないかと心配したが、彼は兄たちを許してこのように話した。 しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:5) 死んだと思ったが、生きてエジプトの首相にまでなったヨセフによって、彼の父親をはじめとするすべての家族がエジプトに来て暮らすことになり、エジプトのゴセンの地に定着することになった。 このようなヨセフを見て、多くのキリスト教徒は夢を見る。神様の意思が天のように地でもなされることを願うのではなく(マタイ6:10)、自分がヨセフのように偉大な人物になることを夢見る。ある説教者たちは、神様が共に居られたらヨセフのように成功できるとし言いながら若者たち、起業家たち、中小企業社長たちの心に希望の火種をつける。彼らは成功して家族を含めて多くの人を食べさせる人になるという大きな夢を抱けと言う。この文を書いている筆者の英語名はヨセフだ。そして、この英語の名前をつける時、彼の心にヨセフのように世の中で成功しようとする気持ちがなかったとすれば嘘だろう。 筆者がこの文で見せたいのは、まさに私たちの心に非常に巧妙に定着している欲と傲慢だ。私たちは生まれつき他人と同じような生活をしたがらない。事業をするならば小企業ではなく大企業を築きたいと思い、先生をするならばある地域の高校の先生ではなく有名なスター講師になりたがる。牧師も列外ではない。神学校の卒業生たちは、ある地域の小さな教会の信実な牧師ではなく、一時代を風靡する有名な牧師になることを望んでいる。 筆者はキリスト教徒が社会的に特に人気のある有名人になること自体を批判しているわけではない。どの時代でも、誰かは有名になり、自分の職業で非常に有能で人気のある人物になるだろう。しかし、問題は特別に社会的または経済的に成功することを目標に生きていくキリスト教徒の若者たちの心だ。私たちは世の中で社会的、経済的に最高になることを人生の目標にして生きてもいいのか?成功したヨセフのような人物を見て、私たちは大きな夢を見て、ただ一人の偉大なこの時代の偉人になることを願ってもいいのか? 真のキリスト教徒の目標 キリスト教徒が誰かを簡単に表現すると、彼は自分の罪を悔い改め、自分の罪を代わりに負って十字架で亡くなったイエス·キリストを救世主と信じ、今や自分の十字架を負ってその代価として死ぬとしても復活した主のみ言葉に従って生きていく人だ(マタイ16:24-26)。それなら、キリスト教徒の人生の目標は非常に単純だ。それは、主の言葉に従順する人生だ。 目標は旅行者の目的地と同じで、目的地は旅行者の行く方向を左右する。私たちの目標が本当に神様の意思がなされることなら、この目標は私たちが真実に(コロサイ3:9)、責任感を持って(コロサイ3:22)、情熱的に(コロサイ3:23)、勤勉に(箴言21:5)、自分に与えられた才能と機会を十分に活用して職業を得て仕事をし、福音を伝え(マタイ28:18-20)、主の中での兄弟·姉妹を愛するように(ローマ12:10)導くだろう。だから、自分が神様がくださった救いの恩恵を価値なく受けた者として、今日一日主の言葉に従って最善を尽くして生きているならば、どんなに収益があってもどれほど社会で認められるかに関係なく、すでに目標を成して生きているのだ。そして、このように生きていけば、私たちはますます経済的または社会的な結果に対する執着から自由になれる。 しかし、逆に私たちの目的が年俸10億も最も有名な俳優になることだとすれば、私たちはどんな手段と方法を動員してでもそれらを得るために慌てるのではないか?そして成功のために嘘もつき、悪い手段を使って事業をしながら「成功して献金をたくさんすればいい」と、考えて怒った良心を鎮めようとするのではないか?そんなに病気の良心を抱いて日曜日に教会に行って、無駄に涙をぬぐっては何事もなかったかのように、再び私たちの目標を達成するために罪を取り上げ、良心をバラバラに引き裂いてしまうのではないか? この時代の夢多き若者に訴える。私たちの夢は、今日キリストの言葉に従うことだ。今日、この文を読んだら、静かに自分自身を振り返ってほしい。今日、キリストの言葉に従うために全力を尽くして生きていくキリスト教徒は、毎日成功している最中だ。しかし、成功した未来の自分の姿を眺めながら全力を尽くして生きていく若者たちは、主の意思(言葉)を無視する人か、あるいは最初から生まれ変わったキリスト教徒ではないかもしれない。 1912年4月15日、タイタニック号は6回にわたる警告を無視して航海を続け、氷山にぶつかって沈没した。彼女の華やかさは一瞬にして暗い海に姿を消したのだ。私たちの人生も同じだ。今この文のような警告の言葉を聞いた時、心を謙虚にして良心の声に耳を傾けなければならない。これまで目的地を誤って設定して誤った道に進んでいたなら、今悔い改め、主に向かって正しい方向に旋回することを切に願う。 マタイによる福音書16章24-27節 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 [福音祈祷新聞] キム·イェジュン|マスターズ神学校でThMコースを修学中であり、現在米国LA近郊のグレンデールにあるグレース聖書教会で青少年使役を担当している。 GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことを聖書の言葉から答えを見つけようとする米国グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と聖徒たちが寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokorea.org )のコンテンツで、本紙と協約を結んで掲載されています。 <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org

進化論に基づく薬物療法vs創造論に基づく栄養療法

英国海軍は壊血病という恐ろしい病気で100万人の兵士を失った。 そんな彼らがどうやって壊血病を治療したのだろうか?ビタミンCだ。当時はビタミンCという名称を知らなかった。しかし、ライムを食べるとその病気が起きないことが分かった。今、私たちが経験する多くの病気はビタミン不足によって引き起こされる。私たちは食べているもののために死ぬのではなく、食べていないもののために死ぬ。ビタミンBを十分に摂らないと、脚気になる。 聖書は語る。 「人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。…··· パンは人の心を支える。」(詩編104:14~15) 人々は小麦からビタミンE、レシチン、オメガ3脂肪を取り出し、白い小麦粉でパンを作れば、パンが数ヵ月間も維持されることを発見した。しかし、その後、人々が心臓麻痺と中風と循環障害などで死に始めた。簡単な公式だ。パンが白いほど人間の寿命を縮めた。白いパンが私たちを殺すのではなく、そのパンの中にない成分のためだ。神は心臓を強くするためにパンを作った。しかし、パンを作って売る人たちは、その日作ったパンの半分を棚で腐って売ることができないのがもったいなかった。それで収益を高めるためにパンを長持ちさせる方法を考案し、このような結果をもたらした。 健康に対する二つの哲学がある。一つは進化論に基づいた薬物療法だ。体は数百万年間偶然集まった化学物質に過ぎないため、病気を治療するためには化学物質をもっと入れればいいということだ。頭が痛いとき、医者はアスピリンを飲むように言う。しかし、考えてみなければならない。何が頭を痛めたのか? アスピリンが足りなくて頭が痛いのかな?私たちは原因ではなく症状を治療している。 例えば考えてみよう。高速道路を走行する時、燃料タンクに明かりが点いたら、私たちは2つを選択することができる。問題の原因を見つけて直したり、灯を消してしまったり。しかし、灯を消したらそれは愚かなことだ。灯は問題があるというサインだ。頭痛も体の問題があるというサインだ。マグネシウムやタンパク質欠乏など。しかし、最近私たちが飲んでいるほとんどすべての薬は灯を消す役割をするだけだ。問題の原因を解決するものではない。薬に無条件に反対するわけではないが、今の私たちの薬依存度は非常に高いのだ。ほとんどすべての病気は欠乏症だ。ビタミン、ミネラル、オイルなどが不足しているのだ。私たちの体は16種類のビタミンと60種類のミネラル、そして3種類のオイルが毎日必要だ。 すべての病気は欠乏症 1845年、オーストリア·ウィーンのシモワイズ医師は、病院で出産した女性の30%が死亡していることに驚いた。この医師は、医師たちが死んだ産婦を検査した後、手を洗わずに他の産婦を検査しに行くという事実を発見した。その時は微生物について知らなかったので衛生に対する概念がなかった。彼は自分のいる病院の医師たちに、死んだ死体を検査した後は必ず手を洗うべきだと主張した。すると死亡率が2%に低くなった。 3000年前、レビ記で神様がモーゼに言われた。「死んだ死体に触れた後は汚れたので、他の人に触れる前に手と体を洗うよう人々に言いなさい。」神様は科学が微生物を調べる3000年前におっしゃった。 医学に関するもう一つの哲学は創造論に基づいたものだ。これは体が神様によって設計され、神様が私たちの必要を満たす食べ物をくださったということだ。これを栄養療法という。野菜を食べて死ぬ人の割合は毎年0%だ。そして毎年3人程度がビタミンを飲んで死亡し、320人程度が非処方薬を飲んで死亡する。9000人程度が食中毒で死亡し、9万~11万人程度が正しく処方された薬を飲んで死亡する。これは誤って処方された薬を飲んだ場合を除いたものだ。ベトナム戦争で10年間死んだ数より2倍になる人々が毎年処方された薬を飲んで死んだ。 <つづき>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家である米国ケント·ホービンド博士の創造論講義を要約、紹介する。ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞>お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org