洪水の前は南極にも木がいっぱいだった
カリフォルニア州にある「国立科学教育センター」の会長であるジニー·スコットは、「米国の中西部に80個のそれぞれ異なる石炭層があり、現在この世に埋蔵されている石炭の量は、現在世界のすべての生物(植物)量をすべて投入しても作れない膨大な量だ」と話した。 その通りだ。 膨大な量の石炭が地球に埋まっている. スコットは続けて「そのすべての炭層を積むには非常に多くの時間が必要だ」と話した。 そこに私は「いいえ、ずばりそこで間違っている」と答えた。 石炭は世界を埋め尽くした洪水の結果 スコットは今の世の中を見ながら、以前もいつもそうだったと推定する。 しかし、現在、地で発見されている石炭は洪水の前の世界を埋めた洪水の結果だ。その時はもっと多くの木があった時だ。 一例として、平方1000マイル(約16km)の石炭が最高200フィート(約61m)の厚さで積まれているモンタナの炭鉱を挙げることができる。おびただしい量の石炭だ。たまに石炭の中から人工遺物が発見される。手で振る鐘、鉄鍋、靴底などが石炭の塊の中で発見された。石炭の生成については、次回に述べることとする。 聖書は野菜と木が’全地面’にあったと話す。今はそうではない。70%の土地が水中にあるため、そこは植物で覆われていない。 神様が創造された時は地球が植物で覆われていた。南極でも’木の葉’を発見した。南極250マイル下で葉を発見したのだ。しかし、現在南極には木がないということを記憶しなければならない。 70%の土地が水面下にある現在の地球で、たった3%だけが人が住めるところだということを知っているのか。多くの部分が砂漠や氷河、ツンドラ、高山地帯など人が住めないところだ。私たちが今見ているものはアダムとハワが見たものではない。聖書では神様が地球を作る時に人が暮らせるように作られたと話す。これが地球を作った理由だ。 人が住める土地は地球で3%だけ 推測してみると、おそらく洪水前には80%程度の土地と20%程度の水だけがあったかもしれない。その時は大洋がなかった。水は地殻の中にあるか頭上のカーテンにあっただろう。洪水の前には木が北極から南極まであった。大気の上の水(創世記1:7)が太陽から来る紫外線やエックス線のような有害なものを遮断してくれたからだろう。 太陽は光以外にも多くのものを作り出す。X線、ガンマ線、ベータ線などは体にとても有害だ。特にレントゲンと慣れているX線は危険だ。太陽が毎日レントゲンを送っていることに多くの人は気づいていない。コンクリートや水がレントゲンを防いでくれているけど毎日数百万個の穴が私たちの肌に今もできている。 洪水の前には900歳以上生きる しかし、洪水の前にはこのようなことはなかった。聖書は洪水前には人々が900歳以上生きたと話す。おそらくしわもできていないだろう。自分を創造論者だと主張していた一人はこのような話をした。「皆さん、900歳まで生きたわけではありません。彼らが月を1年で計算したのです。旧暦を使いましたが、その数字を12で割らなければなりません」 しかし、それはもっと大きな奇跡だ。 ”エノクが65歳にムドゥセラを産んだ」(創世記5:21)マハラレルを含め聖書の中の2人が65歳の時に子供を産んだが、65を12で割ると5歳半の時に父親になったという話になるためだ。私はそれを信じるのがもっと難しい。本当に彼らは900歳まで生き、体も大きかった。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家の米ケント·ホーヴィンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ手の中の神様の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞> お問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
君は私の栄光そのものだよ。
"神様、私が成功したら、人々に神様が能力を与えてくださったと言います。"しかし、神様は私たちの本当の心を知っておられる。'自分'の栄光のために神様をボーナスカードと思っているということを。しかし復活の主はそんな私たちの手を握って永遠な道を見せてくださる。"君が成功してこそ私が栄光になるわけではない。君は私のの栄光そのものだよ。" "彼らは皆,わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり,完成した者。"(イザヤ書43:7)[福音祈祷新聞] 絵 イスジン <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
創造の理由は神様の溢れ出す喜びのためです。
人々は人生の中で多様な喜びを享受します。温かい人間関係において喜びを感じたり、逆境と困難を乗り越えて行く中に喜びを感じたりします。また、夢見ていたことを成し遂げる時にも喜びます。 このように喜びには、さまざまな理由がありますが、一つの共通点があります。それは嬉しいことが起きたら、その嬉しい知らせを他の人に話したくなるということです。このように喜びは溢れ出す属性があります。 そして、喜びの理由の中で最も根本的な理由があるなら、それは存在的喜びでしょう。存在的喜びとは、ある対象が何か優れたことをしたり、功績を挙げなくても、存在すること自体が喜びを与えることを意味します。 例えば結婚して10年以上子供を待っていた夫婦に、ようやく第一子が生まれたとすれば、この子の存在が親に与える喜びがあります。まさに存在的な喜びです。 このように父なる神、御子、聖霊の間には、お互いの存在に向かって無限の喜びがあります。このような三位神様の喜びはお互いに完全な満足を与え、永遠に幸せな愛の交際でした。 そして、神様の中にあるこの無限の喜びは、そのあふれ出る属性に従って、三位の神の中に留まらず、外に爆発するように噴出してきました。このような神様の喜びの表れが創造事件なのです。 神様は御自分の完全な愛と喜びを分かち合う対象を永遠の前から夢見ました。そして、最初の人のアダムを御自分をかたどって作ることと計画されて、彼から始まったすべての生命を自分の息子たちにすることに決めました。 そして、神様は、その御子であるイエス·キリストの中で、この計画を創世前にすでに完成されました。 イエス ·キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって與えてくださった輝かしい惠みをわたしたちがたたえるためです。(エペソ人への手紙1:5-6)[GNPNEWS] 資料提供:ティーアンドアールミッションコミュニティ
世間と区別された聖なる
バーネット·ニューマンの「ハナイム(Onement) ユダヤ系米国人画家バーネット·ニューマンが1948年作<ハナイム(Onement)>を初めて発表した時、多くの学者がニューマンの描いた「帯」がどういう意味か熱い論争を繰り広げた。 筆跡もほとんどない平らな背景に明るい色の線が一つ引かれただけだった。攻撃的で激情的な作品を描いた抽象表現主義者たちはこれまで自分たちと付き合っていたニューマンがこのように単純な画面を描くや、つい裏切られたと感じた。しかしその後もニューマンは「帯」を描き続けた。そして創造、始まり、約束、アダム、イブのような’創造’にかかわるタイトルのためにニューマンの帯は’光あれ’という神様の命令を描いた抽象画で知られるようになった。 ある人はニューマンの帯は二つに分かれるという意味だといい、ある人は神様と人間の間の約束(covenant)を意味するとも言った。ある人は彼の絵で神様の前に立つ人間を見た。題目は‘一つ’と関係があったが,多くの人がニューマンの絵で’分ける’と’区別’を感じた。 しかしニューマンの帯は事実‘聖なる’と関連がある。ユダヤ人は精潔食の律法に従ったが、ヘブライ語でこれを’カシャロット’と呼ぶ。 ‘カシャロット’は,‘カルドシュ’から由来された。ここで、カドシュやカシャロットはすべて‘区別’の意味と関連がある。ローマ書でパウロは“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。”と言ったが、この神聖な区別もカドシュを意味する。 また、神様は私たちに“あなたがたは 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである”と‘命令’された。すなわち、世の中からの区別は神様と一つになる聖を指す。世の中に住むが区別され、神様と一つになった聖徒の人生。背景の真ん中に描かれながらも、色は区分されたニューマンの<一つ>は、まさにこのような聖徒の人生を描いたのではないだろうか。 [福音祈祷新聞] イ·サンユン美術評論家 『著作権者ⓒ福音祈祷新聞』本誌の記事は、国々を抱いて祈る方々に使えるよう許容しています。出典「福音祈祷新聞」を明らかにして使ってください。 ご活用の方は本紙にてお知らせください。 連絡先:gnpnews@gnmedia.org
恐れないで信じることだけせよ
福音になったイエス·キリスト(4) 恐ろしい状況、絶望的な現実を目の前にした時は何を信じればよいのだろう。真理の約束を信じなければならない。 私たちには神様が約束してくれた約束がある。神様はおっしゃる。ヨハネ福音書11章25節~26節に“イエス は 言われた。わたしは 復活であり, 命である。わたしを 信じる 者は、死んでも 生きる。生きていてわたしを 信じる 者はだれも, 決して 死ぬことはない。このことを 信じるか。”と言われた。 この復活の望みがあるのか?私たちが復活することを信じるのか?我々からいくら可能性を探ってみても、我々は不可能だ。 私たちから出るものではない。 しかし、この復活の生命を持っている神様が私たちに復活の生命で生かせる。 “ヤコブ よ、あなたを 創造された 主は、イスラエル よ、 あなたを 造られた主は、今,こう 言われる。恐れるな, わたしはあなたを 贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの 名を 呼ぶ。”(イザヤ書43:1) 神様は東西南北、あちこちに散らばった自分の民を必ず地の果てから見つけ出し、神様のもとに戻らせる。どんなに深い所に落ちていてもそこから引き揚げ、神の名のために創造した者を来させる。 神様は御自分のものを絶対奪われない。 すべての闇が世の中を覆っているようだ。しかし夜が更ければ更けるほど夜明けが近づいてくるもの。世の中の情事と権勢と悪い勢力が神の教会を踏みにじり、敵対し、あちこちに暴れ回り、世界中を牛耳っているように大騒ぎをしているけど、決して終わりではない。聖書はこう述べている。“水が 海を 覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる。(ハバクク2:14)神様が誓約して宣布された言葉は、一点一画も落とさず必ず成就される。 神の国は、目に見えるどの敵の勢力よりも力強く今も前進している。神様の約束を取ってその約束を信じろ。状況に振り回されず、目の前にあることで判断するな。私たちの状況が、数値や統計が私たちを落胆させる。枯れた骨のように見える。しかし、私たちは敢えてむやみに言ってはならない。神様はむしろその時を恐れず、信じろとおっしゃる。原因分析はもうやめよう。ただ神様を愛して真理の道を選びなさい。神様のみを追いかけてきてすべて滅びたような時に覚えておけ。恐れずに信じることだけせよ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞] キムヨンイ宣教師 (巡回宣教師·LOGミッション代表)
信仰の根拠は私たちの可能性ではなく神様にある。
福音であるイエス·キリスト(3) 問題をあまり近くから見ると,ほかのことが見えない。しかし,問題から少し離れてから見ると,見るべきものが見えてくる。 いざという時になると何も考えられず絶望に打ちのめされる。行き詰ってるように感じられ、問題や絶望が大きく見えると神様は極めて小さく見える。 しかし、問題から少し離れてみると、偉大な神様が見えることになる。 恐れずに信じさえせよ。 信仰で主の御前で応答を受けて従順したけど絶望が訪れたその時、主は恐れずに信じろと言われる。′それでは何を信じますか? 誰を信じればいいですか?′と、このような質問をする私たちに、主は死者を生かして、ないものをあるかのように呼び出す主を記憶して信じろと言われる。私たちの目の前で広げられる死は終わりのように見える。しかし、神様に死は終わりではない。主は復活された。福音の中心にはこの十字架の死と復活がある。十字架は私たちの凄絶な絶望を語る。永遠に審判を受け終わりにしなければならない私の昔の人の死だ。私はイエスと共に死んだ。 しかし、これが終わりではない。主は死に勝って復活された。そして、主は私としては不可能であり、できないことを瞬間ごとに確認させる。 罪人である私たちの本性は神様なしで自分が主人になって生きることに慣れている. その時、主は十字架をまっすぐに見ろと言われる。主と私が一緒に死んだ十字架を見たら私たちとしてはできないけどイマヌエルで居られる神様が成し遂げられるのを経験することになる。 會堂長ヤイロと共に旅に出た主は、始めだけを共にして、後は自分でやれとおっしゃる方ではない。 主が共に進み出た道は、始まりが主であれば終わりも主である。 だから、主が終わりでないと言うなら、我々が終わりだと結論を下してはならない。 主が終わりといわれれば終わりだ。 死の絶望が訪れても怖がらずに主を信じろと言われる。 私たちはこの時、死者を生かし、ないものをあるかのように創造する主を信じる信仰が必要だ。この信仰は、恐れずに信じろという御言葉の答えである。 神様はアブラハムの信仰について彼が彼は 希望するすべもなかったときに, なおも 望みを 抱いて, 信じたと述べている(ロ―マ人への手紙4:18)。子孫を与えるという約束をされたけど、アブラハムが90才で、サラは月のものがとうになくなっていた。アブラハムは自分が子供を生むことができないことを確認しても,信仰が薄れなかったと言われる。しかし、アブラハムの信仰は揺れた。ただ神様が約束を成就するまで支えてくれただけだ。 したがって、信仰の根拠は我々の可能性にあるのではなく、呼ばれた神様にある。このため、私たちの信仰は揺らぐ必要が全くない。私が私になったのが神様の恵みのためである。私を創造された方も、お呼びになった方も神様である。私の走れる道を全うするように主の恵みでその道を行くようにしてくださるのだ。 (2018年3月)<続く>[福音祈祷新聞]