[TGCコラム]十字架で恐怖と直面する

“イエスは、目の前に置かれた死に真正面から迎えて十字架に耐えていらっしゃった。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。” “ドロシー万歳! 邪悪な魔女が死んだ!”ドロシーはおぞましい魔女に水バケツをかけて辛うじて退けた。魔女はゆっくりと溶け出した。6才の幼い心でこの場面を見たら心臓が張り裂けそうになってドキドキしてた。たまたまあったバケツのおかげで災いは免れたが、話はまだ終わっていない。魔女の棒を手に入れた後、ドロシーは家に帰る方法を探すためにオズ魔法使いの宮廷に入った。魔法使いの巨大な頭が火炎、煙の中で叫びながら迎えた。妹とわたしはあわてて枕に顔をうずめた。怖かったけどオズの栄光が我々の興味を引いた。 生まれてからこれほどの衝撃的な出来事を経験したことがなかった。ドロシーがオズの魔法使いを追い出すほどに大きなバケツは世界のどこにもなかっただろう。だけど希望が消えたように見えたとき,ドロシーの小犬,トトはカーテンを引っ張った。ドアが開くと白髪の男が立っていた。 “カーテンの後ろにいる男のことを気にするな”と偉大な魔法使いオズは言った。しかし、なんと、その人は偉大な魔法使いオズではなく、マイクを持った年老いた男に過ぎなかった。詐称劇は終わり,ドロシーの赤いルビー色の靴が彼女をすぐに帰宅させるだろう。 人の心は恐怖に捕らわれやすい。多くの人にとって,この程度の監禁は長い間外傷を残す。ミシェル·モンテーニュの言葉によると、”私の人生は恐ろしい不幸に満ちていたけど恐怖に襲われることはほとんどなかった。” 恐怖は、私たちが見るすべてのものを占領するほどに精神と情緒を作動させるものをを支配する。 聖書で‘恐れるな’という訓戒にもかかわらず、イエス様がおっしゃった“安心しなさい。。。恐れることはない。”(マタイ14:27)や“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(ヨハネ第一4:18)という言葉にもかかわらず、恐怖は私たちを締め付けるのに非常に簡単である。恐れるなという聖書の言葉はシェイクスピアの有名な詩’もう恐れないで’のようによく私たちの耳に響く。 きらめく稲妻をもう恐れないでください。 すべての恐ろしい雷も恐れないでください。 中傷謀略の非難を恐れないで。 君は喜びも悲しみも終えた。 すべての若い恋人たち、恋人たちは誰でも 君に任せに土に帰りなさい。 この詩はタイトルが恐怖から抜け出す道を暗示するため注目できる。しかし、シェイクスピアがある希望を心に描いたら、それは今生ではなかったはずだ。詩の最後の一節のように彼はあなたを墓に連れて行くのである。 しかし、新約聖書は死に対する違う概念を提案する。例えば、イエス様は“一粒の麥は地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが、死ねば、多くの實を 結ぶ。”(ヨハネ12:24)と言った。死は終わりではない。むしろ人生の始まりであり、恐怖が力を失う通路である。どんな姿であれ恐ろしさはこの詩の最後の一節で私たちを迎えない。 一例を挙げると、1505年7月のある日,マーチン·ルターは馬に乗って家から学校に行く途中で雷に遭った。速い速度で動いていた雲は彼の旅行の最初には優しい雨を降らせたが、雨脚は激しくなった。雷が耳をつんざくような音とともにルター周辺の地面に打ち下ろす前に空がぴかっと光った。あまりにも危険なほど近寄りすぎて,彼は恐怖のあまり地面に落ちた。自然の怒りにルターは叫んだ。“助けてください、聖母アン! 修道僧になります。” 500年が経った今、ルターが経験した恐怖が彼の信念の旅を始めたことに気づく。この例のように、私たちは恐怖の影響で世の中に追い込まれている数多くの人々を見ることができる。そうした経験は我々の実在にとって転換点となるほど重要かもしれないが、よりもっと大きな最後の決戦をわずかに反映するだけだ。詩人ロザンナ·エレノア·レプロホーン(Rosanna Eleanor Leprohon)は‘ゲッセマネでイエス’という詩でこのように書いた。 疲れきった弟子たちがみんな眠っている間、 一人深い苦痛の中にいた 一緒に祈る人ももいないし、 一緒に泣いてくれる人もなく その前に置かれた高く上げるべき、 死苦の十字架 幾多の罪人たちの魂を得るために 死にかけるゲッセマネの園! 神様だけの経験 苦しくて悲しむ人に 大切な証が残され 傷ついた心がもっと強くなり、 罪におわれて絶望に陥って死んだ イエスは、目の前に置かれてある死を正面から迎え、十字架を耐え抜いた。イエスは死によって人類が想像できる最も深い恐怖を経験された。永遠な過去から父と完全な交際をしていたその方は見捨てられた。神の怒りは絶えず怒りにあふれ、神様との関係は神聖さの恐怖によって隠された。その罪の重みの下でイエスは叫んだ。“エリ, エリ, レマ, サバクタニ”これは,“わが 神,わが 神,なぜわたしをお見捨てになったのですか ”という 意味である.(マ27:46)。 私たちは神の裁きを受けるのが当然だ。我々は愛の神から断絶された。しかし神の救いの恵みのおかげで、その呪いを私たちのために耐えられた。キリストは我々の闇の中に投げ込まれた。そして死から復活されて神様の右に腰を下ろされた。今イエス·キリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。また父に捨てられることを恐れる必要はないので、何も恐れる必要はない。 [福音祈祷新聞] “イエスキリストと結び合わされた我々は、もう父から見捨てられることを恐れる必要はない。” クリス·キャスタールもChris Castaldo|米国イリノイ州ネイパービルにあるNew Covenant Church先任牧師。代表著書’Justified in Christ’ このコラムは、改革主義的神学と福音中心的信仰を広めるために2005年にアメリカで設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約に基づいて掲載されています。 […]