気圧が高かった洪水前の動物は巨大だった。
箱舟から出たノアは文明を完全に建て直さなければならなかった。最初からやり直すには石器を作らなければならなかっただろう。そうするのが土を掘って鉄を見つけた後、溶かして鉄器を作るよりはるかに速いためだ。製作に3週間もかかる鉄斧を作る間に飢え死にすることもあり、50ポンド(約22.7キロ)もする鉄器具を持ち歩くことも難しかっただろう。むしろその場で石器を作るのがもっと早かっただろう。マンモスやバッファローを追いかけて素早く石器を作って屠殺した後、道具を捨てて他の場所に移動したのではないか。 今、私たちはこのような石器を発見すると、このように反応する。「わあ、この矢じりが完璧な形でバランスが取れているね。この人たち、賢いんだね。発展した文明だったようだ」。あるいは若干粗雑に見えて柔らかく整えられていない他の矢じりを発見すれば「これを作った時代の人々はそれほど賢くないようだ。」と話す。実際にそうだったのだろうか。こんな仮定はどうかな?矢じりが粗雑に見えるのは、逃げるマンモスを捕まえるために焦っていた人が作った可能性はないだろうか。このような遺物は、彼らの知能よりは、彼らがどれだけ時間をかけたかに関する痕跡かもしれない。 洪水の前には、人間だけが長生きしたのではなく、動物も長生きした。それだけ大きく成長した。 身長18フィート(約5.5メートル)の角のない、非常に高いサイに対し、人々は先史時代の動物だと言う。しかし、そうではない。100年前まで「先史時代」という単語は辞書にもなかった。1766年の辞書には「先史時代」という単語がない。1860年辞書にも、1892年辞書にもない。洪水前という言葉はあったが、先史時代という概念はなかった。 洪水が起こる前は水のカーテンが気圧を高めたため、地球環境は今とは大きく違っていただろう。昆虫もはるかに大きく育った。昆虫は使用可能な酸素量と大きさが比例する。表面積と体積の割合によって酸素が豊富な水に住む昆虫は1000倍も重くなる。50インチ(約1.27メートル)の翼を持つトンボのような化石が発見された。最近は3~4インチ(約7.6~10センチ)程度しか育たないが、洪水前は巨大だった。18インチ(約45センチ)もの巨大なゴキブリの化石と8.5フィート(約2.6メートル)の巨大なムカデ化石も発見された。このような化石はもっとある。2フィート(約60センチ)のバッタ化石、足の間の長さが3フィート(約90センチ)もあるドクグモ化石、60フィート(約18.3メートル)の柔らかい化石、テキサスでは9フィート(約2.75メートル)のロバも発見された。これらは数百万年前と言われているが、違う。洪水の前に生きていただけだ。 気圧が高くなると、より多くの気体が水に溶け込む。エラで水中で呼吸する魚ももっと大きかっただろう。今、サメが約1インチ(約2.54cm)の長さの歯を持っているなら、そのサメはおそらく15フィート(約4.5m)程度の長さになるだろう。そのため発見されたサメ化石の歯は、サメがこの地球で80フィート(約25メートル)の長さに育ったことを示している。 ボウ博士は高圧酸素室でショウジョウバエを育てたが、普通より10倍長く暮らした。ただ気圧だけを高めたにもかかわらず、このような結果が出た。 エデンの園は気圧も高く、日光も濾過され、磁場もさらに強かったはずだ。エデンの園以来、少なくともこの3つ、いや、もっと多く失っただろう。 アンデス山の海抜2マイルで発見されたカキは、11フィート(約3.5メートル)の長さで600ポンド(約270キロ)の重さだった。エベレストでは化石化した貝を発見した。これらの貝は化石化したにもかかわらず閉まっていた。エベレストは海辺までは約450マイル(約700キロ)離れており、貝は死ぬ時に殻が開く。どのようにして化石化した閉じた貝をエベレストの上で発見できたのだろうか?洪水があったはずだ。しかし、洪水がエベレスト山の上までは襲ってこなかっただろう。その時はエベレスト山はまだなかったはずだ。詩篇104編は洪水の最後に山が登ったと述べている。洪水が終わる時に山が形成され、地表が割れて開いて、割れたものが上がったり下がったりした結果だろう。 爬虫類は決して成長を止めない。もし爬虫類をエデンの園に置いて900歳まで住まわせたらどうなるだろうか。とても大きなトカゲになるだろう。 恐竜は洪水が来る前にアダムとハワと一緒に暮らしていた大きなトカゲだ。今の時代にペットショップで買えるこんな小さなジャクソンカメレオンが15トンまで育つとしたら、どんな形になるだろうか。一種のトライセロトップのようなものだろう。恐竜は「恐ろしいトカゲ」だ。恐竜は人間の歴史上、常に一緒に暮らしてきたし、名前が違っていただけだ。 <続く>[福音祈祷新聞] 本紙は創造論専門家の米ケント·ホーヴィンド博士の創造論講義を要約、紹介する。 ホビンド博士の講義は聖書を中心に神様の創造世界を興味深く説明し、進化論が偽りの信仰体系であることを明快に明らかにしている。 <編集者> <著作権者 ⓒ 私の手の中の神の国、真理で世界を開いてくれる福音祈祷新聞> 문의: gnpnews@gnmedia.org
神様の知恵、神様の能力、十字架の福音
キリストの中で完全な教会(4) 「どうか、わたしたちの主イエス · キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知惠と啓示との霊を與え、神を深く知ることができるようにし」(エペソ1:17) 神様に出会う唯一の道は霊的に目覚め、私たちの霊の目が開かれ、心霊に霊の機能が蘇ることだ。私たちの鈍くなって呪われた霊が生きて居られる神様のみ言葉を理解させて、私たちの魂に話される。福音の真理を聞く時にその事が起こる。 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24) このためにはまず信仰を通じて私たちの霊の機能が蘇らなければならない。ところで信仰はどこから生まれるのか! 粗末な哲学や宗教や人間の数多い知識の言葉を聞くからといって成り立つものではない。神の生命、真理の福音を聞く時に私たちの死んだ魂が蘇って主を見ることになる。 中世に堕落したカトリックのように十字架救援の真理を覆い、行為で救われるという誘惑に目が回る瞬間、私たちは神様の呼び掛けを離れるしかない。行為救援のような考えは、まさに教会の堕落であり、腐って座り込んだ中世の暗黒時代を作り出した教会の悲劇だった。宗教改革に従う私たちの心が緩むと、神様の呼びかけを逃す恐れがある。 イエス·キリストはすべての世界の万物を統治し、治め、万王の王、万主の主になさる。そのように復活されて昇天されて、その栄光を回復された主が、十字架の死で連合させた教会を御自分の体にさせて万物の中で万物を充満させる方の充満だという。教会は外見上、みすぼらしいし、たいしたこともなく、軟弱な素焼きのようだと言える。しかし、その中にいらっしゃるキリストは栄光と能力と祝福に満ちた方だ。イエス·キリストによって命を得た人は世の中が耐えられない。世の中をひっくり返して歴史を揺るがした人々は、個人の人柄がすごい偉人や能力のある人々ではない。素焼きの中に宝されたイエス·キリストが歴史を変えて、世の中をひっくり返す福音の能力として現れたのだ。 したがって、教会は福音で新しくなることができる。教会は驚くべき主の約束、福音の栄光と能力と祝福で現れる。 それなら、私たちを神様の形でキリストの中に充満した者として完全な者に立てる神様レベルのことを神様がどのように成し遂げるのか! 絶望的な私たちにそのことがそのまま現れる秘密は驚くべきことに私たちが注目しなかったイエス·キリストの十字架の福音にある。人々にあれほど軽蔑されて愚かに見えるイエス·キリストと十字架の福音がまさに神様の能力であり、神の知恵だ。その十字架の福音の能力がまさに最も不可能な人生を丸ごと存在的にひっくり返して変化させる。そして、そのように変化した人間たちを通じてこの世が変化する。神様の最も完璧な知恵であり、最も完璧な能力がまさに十字架復活の福音であるのだ。これが秘密だ。 (2018年7月) <続く> [福音祈祷新聞] キム·ヨンの宣教師。 (巡回宣教師。LOGミッション代表) <著作権者 ⓒ 手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 出所を記載して使用してください。>情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム]根本主義(3):根本主義の衰退
私たちは根本主義運動の先駆者に大変な負い目を負っている。悲しいことに,過去の世紀に彼らの戦いの必要性を理解するキリスト教徒はほとんどいない。彼らが大胆に乗り出さなかったら,多数のアメリカの教会が宗教改革の心臓部であったヨーロッパを霊的に荒廃させた,偉大な力を持つ神学的自由主義の影響に降伏していただろう。 元々根本主義者たちは聖書的教理が軽く受け入れるにはあまりにも貴重だということを理解していた米国の神学者たちと牧師たちだった。彼らは聖書の無誤性、キリストの唯一性、復活、永遠な生命と永遠な呪いの現実、人間堕落のような根本的なキリスト教の真理を断固として弁護した。この初代の根本主義者たちは神様のみ言葉に対する固い意志と真理に対する交渉を拒否することで勝利した。これが、自由主義が米国教会の景観を絶対覆せない理由であり、聖書を最高に考え、福音を忠実に伝える教会が今にもある理由だ。 しかし、悲しいことに、根本主義運動は初期に成功するや否や、ほぼ同時に緩み始めた。学問的に認められるために必死だったある集団の根本主義者たちは、時代の流れであった多元主義から自分を守ることができなかった。神学的自由主義に対抗して設立された学校は、自由主義神学に過度に露出されて、初期の根本主義の強力な立場(聖書の無誤謬)を放棄し、聖書の無誤謬について妥協し始めた。驚くべきことに、一部の根本主義学校と教会は、創立した一世代が過ぎる前に、聖書の無誤性に対する彼らの献身を放棄してしまった!これらの機関と関係のある人々の大半は速やかに「根本主義者」という名を否定して捨てた。 もうひとつの根本主義の集団は反対方向に動いた。彼らは学問的に認められることに執着していた仲間たちが、根本主義の基本をあきらめてしまったことをよく知っていた。そのような理由で彼らは学問に不信を抱いたり、または学問を完全に捨ててしまった。このような根本主義的運動の右派は争い好きの分離主義者によって絶えずに分裂してしまった。彼らの中で律法主義者たちは外面的に現われる問題だけを極度に強調した。時々些細な問題が主な討論や議論となり、重大な教理を代替することがあった。これらの群れは、信者たちの実在的な根本を守るための時間よりも多くの時間を人々の髪の長さや女性の服装など重要でない問題を討論することに多く時間を費やした。 つまらない口論を好むすべての極端な律法主義者はついに根本主義という用語を傷つけてしまった。知能的にも気質的にも,この集団の根本主義者たちは根本主義運動の父達があれほど強力に守ってきた高い信念を完全に捨てた。その結果,根本主義運動は教理を巧みに軽視する誘惑に負けてしまった。この集団の根本主義者たちが出版した資料の中に、真の教理的または聖書的な深みを持った重要な著作物が全くないという点は注目に値する。そして、「根本主義者」という用語は、この好戦的な群れの代名詞になってしまった。 ここ数年、根本主義者という言葉は世俗的なマスコミによって誤用されてマスコミは自分たちが考えることのできるあらゆる宗教的狂信者にこの名前をつけた。 門を広く 初期の根本主義の論理的で神学的だった精神はすべて死んだ。 現代の福音主義者はあまりにも喜んで教理を過小評価している。根本主義的な先輩たちとは異なり、現在多くの人々は真のキリスト教が幅広く異なる―その上矛盾である―信仰体系まで受け入れるほど十分に広がらなければならないという提案に完全に同意している。多くの福音主義者は根本的な教理上の違いにかかわらず、カトリック、東方正教会、極端な恩賜主義者、自由主義者を自分たちと同じように考え、彼らとの霊的同盟を結ぶために努力している。 歴史的に福音主義者と根本主義者はほとんど普遍的にエキュメニカル運動を拒否してきた。エキュメニズムの主な力は世界教会協議会(World Council of Churches)であったが、聖書的なキリスト教は全く関係なかったこの団体は、超自由主義的な教団の中から会員を募集することを好んだ。結果的にエキュメニズムは、福音主義者に少しも影響を及ぼすまでには至らなかった。 エキュメニカル運動の最も栄えた時代であった1960年代にも、福音主義教会は劇的な成長を経験してエキュメニカル教会は急速に衰退した。10年前の世界教会会議は失われた運動の遺跡のように思えた。 しかし、今やその絵が変わっている。驚くべきことに、今最も強力なエキュメニカル勢力は、沈みつつある福音主義の下で、恩賜主義運動、カトリックと福音主義の一致、協同的な大衆伝道、そしてキリスト教言論界の声とともにある。 高さを下げる 主な福音主義の特性である「根本」を剥奪しようとする攻撃的な努力が続いている。福音主義の影響力のある声は、根本を最大限受け入れられる最も単純な"信仰の陳述(the Statement of Faith)"に変えるように促す。そして、こうした声は全般的な福音主義の中で聞くことができる。より広い寛容とより包括的なものを訴えるのは,恩賜主義者,世代主義者,カルヴィン主義者,アルミニアン,改革主義者,ルーサー教の指導者,すなわちあらゆる種類の福音主義者から来ている。 (2013年に死ぬ前まで)トリニティ放送ネットワークの会長だったポール·クラウチ(Paul Crouch)を例に挙げると、彼は"私がよく言っているように、ある神学者が異端だと考えるのが他の神学者には定説です"と述べた。しかし、クラウチは我々が我々に一機に与えた信仰のために力を尽くして戦わなければならないというユダ書の3節を知っていた。彼は言った。"それなら『信仰』とは何か?" クラウチは、絶えずに成長する人々の声のなかで、使徒信条が「信仰」に属する者とそうでない者の境界線となるべきであると主張した。しかし使徒信条が果たして我々にキリスト教信仰の最も確かで交渉できない根本を提供するのだろうか。そして、私たちは使徒信条がどれほどこのような問題に対して権威があると自信を持つことができるか。次の時間に、この点について見ていくことにしましょう。 キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のみ言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
[GTKコラム] 根本主義(1):根本主義とは嫌悪すべき単語なのか?
あなたは根本主義者と呼ばれたことがあるか。ここ数年,この言葉は信者の間で極端な意見の持ち主を表す用語となっている。 大衆と世俗のマスコミが極端主義を定義したという事実が本当に残念なことだ。今、彼らはジハード(イスラムの戦争)を遂行することから始まり、世の中で流行するのと合わないすべての信念を全部極端主義に含めている。そこには神様が設計した結婚を守ることも含まれてある。 信仰のない世界は、教理をわきまえることができないため、彼らと反対の信仰を持つ根本主義者を全部極端主義者として分類している。そのために罪で目がくらんだ世の中は、クリスチャン根本主義者とイスラム根本主義者の違いを区分できないのだ。 アイダホ大学の哲学教授であるニック·ギア(Nick Gier)は、学界で流行している一般的な観点をこのように特徴づける。 "クリスチャンとイスラム原理主義者には恐ろしい共通点がある。二つとも世の中を'信じる人'と'信じない人'に分け、また彼ら自身が誰が救われ、誰が破滅されるかを決めることで彼らが人の人生を持ってまるで自分たちが神であるかのように行動できると考えるている。そして人間が建てた最も平和的で繁栄的な社会機関、自由民主主義の時代的文化に戦争を宣布した。彼らは教会と政治の分離を拒絶して彼らだけの観点から見る神聖な法を基盤にして自分たちの政府を建てようとしている” このような考えがもたらした結果は、あらゆる根本主義を一つの脅威と見なすことになったのである。そして、このように考える人々は、社会の進化と自由を脅かす存在をなくそうとする。 福音主義クリスチャンの間の'根本主義'は通常禁止事項と関連している。”踊るな、飲むな、噛むな;そういう行動をする女たちと一緒にいるな”多くの根本主義クリスチャンはこうした固定観念が実際と変わらないことを簡単に認めるだろう。これらの教会では,踊り,酒,カード,映画を見ることが信者に禁止されている。近代の福音主義の観点から根本主義キリスト教を見れば、何の面白みも見いだせないだろう。 根本主義は、現世界からの嘲笑と、信者の軽蔑をあおぎたてる単語かもしれないが、教会史は私たちに全く別の話をしてくれる。 20世紀初め、ドイツの神学的自由主義の手がアメリカに上陸した。人間の理性と経験に対する自由主義的強調は、聖書的権威、無誤性および十分性を毀損して、教理的純潔は教会内で脅かされた。過激主義ではなく飛び上がる自由主義が教会にとって最大の脅威となった。その時代の英雄的なキリスト教徒たちは聖書的キリスト教の根本真理を守るために立ち上がった。したがって、キリスト教根本主義は聖書の真理のために必要な戦争をするために誕生した。 原理主義は決してキリスト教強硬派や極端主義者のためのはけ口とは思えなかった。これは嫌悪すべきことではないし、そうなってもいけない。我々には防御して戦わなければならない根本的な聖書的真理がある(ピリピ人への手紙 1:16、ペテロの第一の手紙3:15、ユ3)。 そして、このような大切な真理のために戦うことは、1世紀前と同様、今にも必ずしなければならないことだ。今後我々はキリスト教根本主義者の話と彼らがどのような根本のために戦ったかについて語る。今我々が直面している問題について、教会が力になる教訓を我々に説いてくれるだろう。次の時間を逃さないことを願う。[福音祈祷新聞] キャメロン·ブーテル | グレーストゥーコリアコラムニスト GTKコラムは、私たちの人生で起こるすべてのことについて、聖書のお言葉から答えを見つけようとする米グレースコミュニティ教会のジョン·マッカーサー牧師とGTK協力牧師と信徒が寄稿するコミュニティであるGrace to Korea(gracetokrea.org)のコンテンツで、本誌と協約を結び、掲載されています。 <著作権者ⓒ手の中の神の国、真理で世界を開く福音祈祷新聞。 引用元を記載して使用してください。> 情報提供及びお問い合わせ:gnpnews@gnmedia.org
アニメ’選ばれた証人’… 復活の最初の証人 マリアの視線から見たイエス
イエス映画プロジェクト製作、250の言語に翻訳計画 マグダラのマリアの目でイエスを見る短編アニメ『選ばれた証人(Chosen Witness)』がオンラインプラットフォームで人気を集めて公開してから3週間で全世界で2万人が視聴したとクリスチャンジャーナルが最近報道した。 選ばれた証人は、イエスの話を9分25秒に要約した短編アニメーションで、38カ国語で制作されて今後250国語に翻訳される予定だとジーザス·フィルム·プロジェクトが明らかにした。 常任プロデューサーのエリザベス·シェンケルは、このアニメを通じてイエスを見る3つの方法を紹介した。 まず、マリア·マグダレーナの目でイエスを見ることになるだろう。 彼女はキリストに従っただけでなく,復活の最初の証人だった。マリアはイエスに会って初めて人生の変化を経験した後、常にイエスのそばに留まった。彼女はキリストの受難の時にもイエスのそばにいた。 第二、実際にこのアニメーションはイエスの物語である。 イエスの全生涯を要約した。9分間イエスの生涯と死と復活を見ることになるだろう。もしイエスの話をしっかり見たければ、『イエス』と『マグダレナ』の映画を見ればいい。 第三、神様がキリスト復活の最初の証人としてマリアを選んだ時に戻ってい見ることが重要だ。当時マリアのような女性は社会から疎外されていた。女性は法廷で証人として認められなかった。それにもかかわらず、神様は歴史上最も重要な事件の最初の証人としてマリアを立てた。 エリザベス·シェンケルは”神様が女性の地位を高め、男性と同等の価値を持った存在にしたのだ。当時としては革命的な見方だった”と、”イエスは疎外された人を通りすぎずに彼らと共にしながら’彼らが私がここにいる理由’とおっしゃった”と説明した。 「イエス·フィルム(Jesus Film)」は1979年、映画<イエス>を製作してアメリカ250個の映画館で上映、1985年には「イエス映画プロジェクト」宣教会が創立された。 2009年現在、‘イエス映画プロジェクト’は1071ヶ国語で<イエス>映画を翻訳、423ヶ国語でオーディオイエスの話を、135ヶ国語で子供のためのイエス物語を制作した。また、映画『マグダレナ』を48ヶ国語に翻訳した。 現在、イエス映画プロジェクト宣教会は30本の短編映画を製作している。この宣教会はこれまで1500あまりの宣教会と同役し、5億人が映画を通じてイエスに従うことに決断する姿を目撃した。 クリスチャン·パースペクティブ イエス様がみずからおっしゃったことだ。“罪人を呼びに来た”(マ9:13) なぜなら、イエス様は罪人に永遠の命を与えに来たからだ。神様にかたどってで創造された人間が神から離れて罪を犯して聖なる神様と共にすることができなくなると、愛の神様は息子であるイエス·キリストをこの地に送り、十字架を通じて人類を罪から救った。それだけでなく、神様と永遠に共にする生命として回復された。この福音を聞いてイエス様の十字架の死と復活に信仰で参詣した人々だけが証人の人生を生きることになる。その最初の証人としてマリアがいたとすれば、今日まで数多くの証人がイエス·キリストの福音を信じて永遠の命に向かって進んできた。 この短いアニメーションを通じて福音が聞こえ、多くの人々がイエス·キリストを信じて証人に立てられるよう祈ろう。 [福音祈祷新聞]
心とペンで捧げる祈り
書く祈りの目的は神様との関係で生ずることに対する私たちの認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈りである。 書き祈り 一般的には祈りを声に出したり、黙想の形でするのだと考えがちだ。しかし、祈りは多様な形で実行できる。特に、書き祈りのような祈祷は、非常に重要な祈祷の方法になり得る。書き祈りは、心と思いを神様の御前で深く省察する祈りになることができるため、大声で精神なしにする祈祷よりも深くて豊かな祈祷になることができる。書き祈りは、神様との関係を省察する祈祷として作用できる。書き祈りの目的は、神様との関係で生ずることに対する我々の認識と解釈のパノラマを心とペンで捧げる祈祷である。書き祈りは声で捧げる祈祷ではなく、別名‘心とペンで捧げる祈祷’である。 私たちの霊的旅程で私たちの知識と世界観が心の中に入ってから初めて魂と化することができる。魂を作ることができる器は省察と驚異によってもたらされた内面のコンテナだ。もし毎日数分間書き祈りをすれば間違いなく心の治療にかかる経費と手間を省ける。書き祈りの素朴な実践は私たちの人生の中に多くのことを提供することができる。ある人には神様の御前で人生の省察を、ある人には神様とのより深い関係を、ある人には神様の御前で自分の人生が変わる体験をする機会になれる。 霊性地図としての書き祈り 書き祈りの最も核心的な特徴は、神様の御前で自分を深く省察する最も効果的な方式であるために霊性地図という特徴を持っている。 すなわち、書き祈りは、日常で起こることを具体的かつ明確に叙述する祈りであるために自己認識と同時に霊的省察と感受性の修練に効果的な祈祷方式になり得る。書き祈りは人生の意味を画期的に変化させるのに役立つ。書き祈りによって、私たちの人生に関する否定的で肯定的な暗示を与える固定された形が現れ始めることができる。そのため、書き祈りはただ神様との会話にだけに目的があるのではなく、霊的地図として作用することができる。書き祈りは私たちが経験することの中で、神様がどのように働いているかを見分けるのに大いに役立つ。特に、書き祈りは、感情に注意を払うことで、我々の内的人生を反映する一つの分別訓練になりうる。書き祈りは我々の考え、感情、行動に多大な影響を与えかねない。 書き祈りは日常の具体的な状況を超えて浮雲をつかむことを許さない。書き祈りは、自分の最も深い内面(deepest self)を隠し、社会的共同体的役割だけを強調する表面的自我(surface ego)にとどまっていることを許さない。 書き祈りが霊性形成の効果的な方法になるためには個人的でなければならない。書き祈りが霊性形成のための祈祷になるためには神様に自分の全てを現して表現しなければならない。 書き祈りは、良い日や悲しい日ともに実際に起こったことを持って心とペンで神様と会話することで、’良かった昔’を懐かしむホームシックを治療することができる。また、書き祈りは’私には良いことは全く起こらなかった’という悲観的な評価を治療することもできる。神様と共に自己洞察力(self insight)を育てる良い方法になり得る。書き祈りは苦しくて辛い時に自分に向き合うことで、内面の緊張と葛藤を省察するのに大いに役立つ。 ひいては、自分の祈祷の歴史として残ることができる。自分の人生の中で神様の臨在と働きを通じて感謝の人生と能力を増大させることができる。書き祈りは様々な内容を含むことができる。聖書の句節や事件に対する洞察や黙想とともに捧げることができる。 特に、聖書の黙想を通じて省察祈祷、悔い改め祈祷、嘆息祈祷、喜びの祈祷、感謝祈祷の形で書き祈りができる。書き祈りは霊性日記の形で実行されることもできる。 長い間書き祈りをすれば記録された祈祷を通じて省察して、読む時に人生の方向について省察するのに役立つ。また、日常で時間とエネルギーを使うのに実際に優先順位をどこに置くかを決める時にも有用である。特に、苦しい時期に捧げられた書き祈りは我々に具体的に起こる人生の様々な質問について実際的に再び回想させたりもする。書き祈りは前に書かれた祈祷を通じて、再び祈祷することで、自分の霊的旅程のパターンを省察することができる。これは私たちが祈った状況や神様の助けで困難を乗り越えたものを後で読むことによって現在と未来に対する希望をさらに神様に置くことができるようになる。 書き祈りのモデルとしての詩編 プランナリー·オコーナー(Flannery O’Connor)は若い頃、祈祷生活の深さを深めようと努めているうちにペンで祈祷日誌を書き始めた。彼は、心の中で躍動する感性を把握して吐露し、噴出するだけでなく、神様の臨在の中で率直な姿勢を取った詩編記者たちの祈りの道に進むことになった。オコーナーはこのように記録した。 あなたのことを考えたり、いつも渇望するあなたの愛で胸がいっぱいになるよりも、芸術的な技巧を磨くことに全力を注ぎました。愛する神様、私が好きな方法で主を愛することはできません。私の目に見える神様は細い三日月です。私の自我は月を見ないように隠す地球の影のようです。 愛する神様、私の自我の影がますます大きくなり、月の全容を見ることができなくなって、そしてそれこそ何でもない影を根拠にして自分自身を判断することになったらと怖いのです。自ら道をふさいだせいで、私は神様であるあなたをまともに知ることができません。(Flannery O’Connor, A Prayer Journal, 3)。 オコーナーは人生の勝敗は愛の優先順位を設定し直すことにかかっているということを意識した。これは、オガスティンが悟り、彼の祈祷日誌告白録に記録した内容と同じ脈絡だ。神様や隣人より成功を愛する心構えは、心霊に虚しさを増す。オコーナーは自分の非凡な才能によって傲慢で利己的な者になるところだったが、祈りで絶えず心の志向点を調節した。彼はこう書いた。″神様、どうか私の考えを透明にしてください。清潔に洗ってください。 …万物の底まで下りて神様が泊まっているところを悟らせてください″(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。 オコーナーは形式的で習慣的に繰り返す祈祷行為を踏襲することで満足できなかった。彼はこう告白した。 “これまで繰り返してきた祈祷文の内容を否定するという意味ではありません。しかし口で言えたとしても、心では感じられませんでした。 意識は逃亡者のように四方八方に飛び回っていました。毎度こんなふうに祈っていました。反面、神様を思ってその心情を書く時は愛のぬくもりが全身を包むのを感知しました”(O’Connor, A Prayer Journal, 4)。ある日、彼は書き祈りの最後の部分にこのように書いた。″誰でもいいから祈る方法を教えてくれませんか?″(O’Connor, A Prayer Journal, 23)。 同じ質問をする人が今もにも数え切れないほど多い。キリスト人なら祈りが重要だということを知っているけどどのように祈るべきかについてはよくわからない場合が多い。祈りはただ声だけで行うものではないからだ。祈祷は口だけでできるのではなく、書くことでもできる。詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷の実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。詩編は、書き祈りの典型的なモデルだと言える。 書き祈りは正しいとかそうでないとかの決めた方法がない。書き祈りだとして論理的な形の書き方をする必要はない。文章で書いても良いし、句節や単語だけでも良い。書き祈りは、内面の省察と深く関わる祈祷であるために速い速度で声を出す祈祷ではなく、ゆっくりと心とペンで捧げなければならない。書き祈りには少なくとも真の心、悔い改め、感謝、希望、省察、恐れが神様の御前で吐露されなければならない。 [福音祈祷新聞] “詩編の多くの部分が祈りだが、詩編に現れた祈祷実践方法は唇の祈りよりは書き祈りだったと言える。 詩編は書き祈りの典型的なモデルだと言える” サイチャングック白石大学神学大学院とキリスト教専門大学院で実践神学教授として在職、’キリスト教霊性’、’解釈と分別’、’説教と相談’など多数の本を著述 このコラムは改革主義的神学と福音中心的信仰を伝えるために2005年に米国で設立されたThe Gospel Coalition(福音連合)のコンテンツで、本紙との協約によって掲載されています。 www.tgckorea.org